パイロットフィルム

 ――この島には、何もかもある。だが、何もない。
 
 波打ち際に一人の男がいた。
 若い、色浅黒く黒髪の、堅く引き結んだ口元も凛々しい、男性的な貌の持ち主である。草食動物を思わせる、優しくて、どこか哀しげな瞳は今、遠くを見遣っている。
 彼の眼前に広がるは、遥かなる透明なエメラルドグリーンの海。この島を取り囲む大規模な珊瑚礁の海である。
 日は、まさに中天に昇らんとしていた。
『何を考えているのですか? ジャン』
 鈴を転がしたような涼やかな声音が、風を震わせてジャンにまで届いた。
「いえ、別に――」
 ジャンは答えた。
「ただ、波の音が、歌に似ていると思って――」
「『波の音は、南の島の歌だ』あなたはよく、そう言ってましたね」 
「ええ」
「思い出しますか? あの頃のことを」
「いいえ」
 ジャンはきっぱり言い放った。
「いいえ。あの頃のことは、もう――。それを忘れる為に、一旦眠りについたのだから」
 そう口にした後、ジャンは、哀しげな表情になった。振り払おうとしても、振り払えない記憶。現実では忘れていても、夢の中でまざまざと当時の感情を思い出す。
 過去の記憶は懐かしくて、痛い。青い透明な海のようだ。あの頃にまつわる小さなさざ波は消えず、ただただ静かにジャンの心を打つのである。
「あなたは、私にとっても、時々謎です。以前のようには――私には、あなたの考えていることが手に取るようにはわからなくなりました。あなたが私に嘘をついているとしても――私にはわかりません」
「でも、ある程度はわかるでしょう? あなたは俺の創造主なんだから」
 ジャンは、はにかんだような笑みを浮かべた。ライが『好きだ』と言った、笑みだった。
「――あなたは心の奥底に秘密を持っています。それは、私でも介入することができない領域です」
「そんな大層なものではありません」
 そう言ってから、何故かちくりと、心が痛んだ。
「南の島の歌」
 まじないのようにそう唱えると、再び波の音に耳を傾ける。海の匂いのする風が、ジャンをなぶって行く。
 目を閉じて、音の波長に意識を漂わせると、青く澄んだ水が、自分を丸ごと包んでいくように感じた。
『帰りたい』――その想いが、ないと云えば嘘になる。だが、本当に望んでいるものが来ないうちは、永久にこのままでも構わなかった。
 彼は孤独だったが、不幸ではなかった。何もかも失ってさえ、彼はこんなにも安楽で、恵まれて、幸せだった。
 それもみな、南の島の歌のおかげだった。ひとつひとつは単調なメロディで、だが、それらが絡み合うと、複雑で、深みのある音楽に変わるのである。
 何百年、何千年、何万年――太古の昔からこの島に響いていた、生命の歌。さっき言った波の音も、島の歌の一部でしか――いや、島の歌の大切な一部なのだ。
 しかし、聴衆は今や、彼一人しかいないのと、変わらない。かつては、島の歌に耳を傾け、想いを共に分かち合った人々もいたというのに。
 それは島を去った人々。もはや彼らは、島の歌など忘れてしまっただろう。だが、彼はそんな人々を責める気にはなれなかった。
 今の生活には、それなりに満足していた。朝起きて、適当な木の実や小魚を食べ、森で遊び、空や海を眺め、そして眠る。服も、麻で作ったごく簡素なもので通していた。
 それらの生活は、まるで息をするように、易々と行われていた。何も知らなければ、それで充分満足だったろう。だが、ひょっとした折に思い出す『何か』が、彼に孤独を伝えるのである。
 それは、友達と過ごした日々の記憶だったり、喧嘩したことだったり、或いは愛や、争いの記憶であったりした。
 今では、もう争いはない。争いすら起こらない。人が二人いれば、争いが起きると言うが、ここには人間は一人しかいないからだ。後はみな、異形の者達だ。
 寂しいのか?――彼は自問した。否、ただ、哀しいだけだ。
 海鳥が飛んでいた。ジャンは微かに目を細めた。
 ここには何もかもがある。海も山も川も鳥も――それぞれの息吹の香も。だが、ここには何もない。
 いつも自分を取り巻いていた感情の全てがない。一途な想いも、溢れんばかりの情熱も、身にそっと寄り添ってくるような思いやりも、嘲笑やどす黒い憎悪ですらも。
 全ては過去のものだから懐かしいのかもしれぬ。
 全てが彼の前を通り過ぎて行った。たくさんの人々も。その中の何人かは、未だに記憶の奥底にいる。特に、あの金髪碧眼の年若い少年――最後に会った時は、もう少年ではなくなっていたが。
 ヤシの木が風に揺れた。微かな葉ずれの音だった。
 ここはまるで奇跡のような島だ。大自然の美しさ全てを繋ぎ合わせたようだ。継目跡もなく。
 俺は――。永遠の命を持ったジャンは考えた。
 俺は永遠を共にこの島と共に生きよう。この島は俺の全てだ。
 この島の一部となり、南の島の歌の一部となろう。
 誰もいなくなっても、どこまでも暗く沈んでいく永劫の闇から、島がジャンを救ってくれた。
(もし――もしいつの日か、動かし難い事情によって、この島を離れざるを得なくなる日が来たとしても、俺はけして、南の島の歌を忘れることはないだろう)
 悠久の昔から連綿と紡がれてきた、南の島の歌を――。
「ジャン、ジャン――」
 赤の秘石が声を出すかのように、空気を震わせた。
「私の愛しい息子。私があなたを抱いてあげたらいい」
「あなたは俺を抱いているでしょう。島を通して」
「私は島を造ったものではありませんよ」
 赤の秘石が人間ならば、きっとここで少し寂しげな、困った顔をしたであろう。
「それでは、誰が、この島を――?」
「それは私達にもわかりません。私達は元からあったこの島に降り立ったのですから。きっとあなたの存在を――想いを受け止めているのは、私なんかが及びもつかない、『大いなるもの』なのでしょうね」
 どきん。
 ジャンの鼓動が高鳴った。さっきはあんなことを言ったが、赤の秘石は、やはり彼のことを何もかもお見通しなのではあるまいか。
 赤の秘石は答えなかった。いかに言葉通りだとしても、表層意識ぐらいは、まだ読めるはずなのに。
 やがて、夕日が景色を美しい茜色に染め、刻々と空が暗くなっていっても、ジャンはまだそこにいた。
 大いなる存在を、ジャンは知ろうとした。それはこの島それ自体であるかもしれないし、もっと大きな別の何かかもしれない。
 取り敢えず、今夜は眠ろう。星々に見守られながら、ここで。
 そうだ。あの頃のことを夢に見るかもしれない。
 ジャンは椰子の木に寄り掛かって眠った。波の音が子守唄のように響いてきた。
 まるで、彼を遠い過去へゆっくりと、穏やかに誘うように――。

後書き
南の島の歌のパイロットフィルムです。
PAPUWAの原作とは違う展開です(今さら言わなくてもはっきりしてるか)。
これも高校時代の落書きから生まれた話です。
当時、私はとても孤独でした。夢を見ることだけが、私の生き甲斐でした。
こんな形で、自分の話の一部をお披露目するのができたのは、本当に嬉しいことです。インターネット万歳!

高二のときから、サイトはやっていましたが、このような自分だけの秘密みたいな話は、ちょっと発表できなかったんですよ。「中途半端かなぁ」と思って。
でも、開き直りました。これからどんどん自分の好きな話を書こうと思います。
ちなみに、この話にも、当時好きだったサークルさんの影響も入っています。

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