Whose house is this

 路上に車が止めてある。
 丹念に磨き上げられたボディ。赤い瀟洒なスポーツカー。車の主は不在であるらしい。
 ジャンは自転車を脇に止め、そぉっとサイドミラーに自分の顔を映し出す。
(前髪が、きまってないな)
 そう思い、ちょいちょいと前髪を直す。
 さて、その後ジャンのやることと云ったら一つである。
 車の持ち主が戻ってきて不審がられる前に、逃げるようにとっとと退散することだ。
 別に何も悪いことをやっていたわけではないのだが。


 サービスが帰ってから、三日が過ぎていた。
(どうしよっかなぁ)
 ジャンは椅子の背もたれに体をもたせかけ、大きく伸びをした。今日の分の勉強も終わった。また勉強しようかと思ったが、こんな天気の良い日にそうそう部屋に閉じこもっている気にもなれない。
 他の人だったら「うだるような暑さだ」というであろう部屋に、ジャンはいた。冷房が壊れているのだ。もっとも、南国育ちのジャンには、これぐらいがちょうど良かった。窓は開いている。時折そこから来る風で、充分涼を感じることができた。
 高松も研究所に行っていて、いない。サービスが帰ると同時に、高松も研究所へ行ったきり帰ってこない生活になった。三人の夏休みは、ばらばらだった。
 だからと云って、こんな所で一人アンニュイになっていても――つまらない。
 外へ出よう。ジャンは思い立った。


 
街に出た。もう信号ごときで戸惑ったりはしない。その代わり、新鮮な驚きも失われたが。
 途中、ウィンドウに飾られたパンのバスケットが目に入った。
 乾燥させた小麦の穂を添えられたそれには、フランスパン、食パン、ドーナツ、黒パン、パンケーキ……眺めているうちに、ジャンは俄然食欲が湧くのを覚えた。
 幸い持ち合わせはある。ジャンは中に入り、焼きたてのパンの匂いを満喫した。
 初めて、高松と出会ったパン屋である。
 チョコロールを目にして、ジャンは苦笑した。あの時これをわしづかみにして、笑われた自分。笑った高松。
 ジャンは振り向いた。にやにや笑いの高松が、そこに立っているような気がした。
 他にもあんな、たびたび周囲とのずれを発揮したジャンだったが、これほど愉快で想い出に残る間違いはそうはない。
 はたからは、あんな大量のパンを一度に食べるのかと思われる程のパンをきちきちに詰めたトレイを持ってレジへ向かう。高松がいたら、「アンタ、相変わらずですねぇ」と呆れられていることであろう。
 レジには、真っ白髪のおじいさんが座っていた。これも、あの時のままだ。
「おや、アンタは以前、ここのパンを買いに来た人じゃないか」
 ずれた眼鏡を直しながら、おじいさんが云った。
「え? 俺のことですか?」
「そうじゃ」
 老人は深く頷いた。「わしは一度お目にかかった人間は忘れん質でね」
「それじゃ、俺とおんなじだ」
 ジャンも、記憶力には自信があった。
「中にはわしが老人だからといって、隙を見て店の物をちょろまかそうとする不逞な輩がいるが、どっこい、こっちはちゃんと目を開けて見張っているのさ」
 そう云って、おじいさんはゆっくりと手を振った。
「もちろん、君がそうでないことはわかっているよ」
 ジャンは人懐っこい笑顔を見せた。
「信じてもらえて嬉しいです」
「日本円を持っていなかったな。あの時は、親切な子がいてくれて、助かったんじゃな。君と同じ黒い髪、黒い瞳、黄色い肌の――ところで、君はなんという名前かね?」
「ジャン、と云います」
「そうか。君はジャンくんか。何人かね?」
「俺は……」
 そう、どこの国の者でもない。名もなき南の島の―――。

「なにか、余計な一言を言ってしまったようだね」
 老人は済まなさそうにした。
「こんな所で立ち話もなんだ。今は、お客もいないし、どうせ暇だから、どれ、ちょっと来てごらん。ジャンくん。レジスターを見せてあげよう」
 おじいさんはジャンにカウンターの向こうへ来るよう促した。旧式の、今では誰も使ってなさそうな型のレジにお金をしまい込む。
「この店にあるパン、全部おじいさんが焼いたんですか?」
「まさか」
 ジャンが訊くと、おじいさんはからからと笑った。
「作っているのは息子夫婦だ。わしはただのレジの前の置物――否、接客係さ」
 そう云うとおじいさんは、暖簾で仕切られた調理場の方を顎で指した。中では老人の息子と思われる人物が忙しく立ち働いていた。
「じゃあ、伝えておいてください。あなた達の焼くパンは、たいへん美味しかったですよ、と」
「ああ、わかった」
 おじいさんは頷いてみせた。
「話に付き合ってくれてありがとう」
「いいえ。こっちも楽しい時間を過ごさせてもらいましたよ。それじゃ、さようなら」


 さっき買ったパン、どこで食べようか。一旦寮に戻ろうか。彼はしばしの間悩んだ。だが、もう少し外を走っていたい。
 少々遠出をして郊外に出てみよう。ジャンは思った。
 あそこの湖畔には家があるはずだ。寮に移り住む前に、二週間ばかり済んでいた家が。
 そこを訪ねてみよう。久しぶりに。離れた所からでも、そっと。
「ハーイ、ジャン。久しぶり」
 かつての近所の人間が、すれ違いざまに声をかけた。ジャンもそれに応えて手を上げる。
 優しい人々。懐かしい通り。ささやかな、想い出の場所に、帰ってきた。今日は想い出の場所巡りだ
 どうしてあれ以来、ここに足を向けなかったのだろう――そう思いながら、ジャンは進む。そして何故、急にここに来たくなったのだろう。まるで引き寄せられるように。
 道の脇に白樺が立ち並んでいる。もうすぐだ。
 ログハウス風の二階建ての家。家の外観も、庭も、全てあの時のままだ。いや、庭の木々は少々育って、青々とした葉を広げている。
 蝉達が、地上に出てからの己の寿命が短いことを知ってか知らずか、あらん限りの声を張り上げ、自己主張する。雑然とし、逞しい生命力がぶつかり合う、夏の庭。
 太陽の光がジャンを射す。眩しい。ジャンは額に手をやりながら目を細め、青々とした木々を見遣った。
 植物達はほんのちょっとの間でも手をかけてくれたジャンのことを忘れていなかったらしく、彼に、中へ入るようにとせがむ。ジャンには、植物達の声なき声がわかるのだ。
 入っても、いいだろうか。誰が住んでいるかわからないけど、ちょっとだけなら―――
 前に住んでいたことがあるという気安さから、ジャンはドアの取っ手に手をかけ、鍵の壊れている、開ける度に軋む扉を開けた。
 家の雰囲気が、変わっている。玄関にあるちょっとした小物も、ジャンがいた頃とは様変わりしている。もっと暖かな感じのする木彫りの人形だとか、レリーフなどが、メタリックの置物に変わっているのだ。
 ジャンのわくわくした気分は、すっと消えた。
(帰ろう、ここにはもう、他の誰かが住んでいる)
 ジャンが踵をかえしたその時だった。
「おう、俺のヤサで、何してるんだ、お前」
 ジャンは振り向く。庭の木々に囲まれるようにして、ハーレムが、立っていた。
「ハー…レム…」
 意外な人物の登場に、ジャンの声は掠れた。
 門の所に、エンジンがかかったままのバイクが止まっている。ジャンが止めた自転車の脇に。
「何突っ立ってんだよ。ここは俺のヤサなんだ。わかったらそこどきな」
「ヤサ? ハーレム。ヤサってなんだい?」
 ハーレムは溜息をついた。
「俺のねじろ。家みてぇなもんだよ」
「でも、家って…おまえの家はもっと別にあるんじゃなかったのか? もっと立派な――」
「ばぁか。ここは俺だけの家だよ。おまえはなんでここにいるんだ? 場合によっちゃ不法侵入だぞ」
「そうだったのか。それは知らなかった」
 すぐに詫びを云って帰ろう。ジャンは思った。パプワ島でも、他人のテリトリーを勝手に犯すのは、重大なタブーの一つだった。
「ごめんよ。つい、懐かしくって」
「懐かしい?」
 ハーレムの眉が訝しげに顰められた。
「俺、ここに住んでいたことがあるんだ。そんなに長い間じゃない。二週間ばかりだけど」
「……いつだ」
「今年の春。三月頃」
「ふぅん…」
 ハーレムは気のなさそうな返事をして、しばらく顎をしきりと撫でていたが、やがてジャンの脇をすり抜けると、扉を開け放ち、云った。
「入んな」

 今日は招き入れられることが多い。天井の梁を眺めながら、ジャンはそう思っていた。 ジャンは抱えていた紙袋をハーレムの前に差し出した。
「一緒に食べよう。これ」
「……まぁ、くれるというならもらうが」
 焼きたてのパンをかふかふと食べながら、ハーレムは訊いた。
「おまえだな。俺の前にここに住んでた不埒な野郎ってのは」
「――ああ」
 ジャンは素直に返事をした。
「管理人も置かず、数年も放っておいたにしては、妙に綺麗だったし、近所のヤツからは、『前にここに住んでいた兄ちゃんはどうした?』と訊かれたこともある」
「…………」
「いや、俺はむしろ感謝すべきなんだろうな。ここを人の住める状態にしといてくれて、ありがとよ」
「ここはずっと前からハーレムの家だったのかい?」
「ああ。――いや、ここは、俺達が持っていた別荘の一つだったんだ。小さい頃、よく皆でここに遊びに来てたっけな」
 ハーレムは目を細めた。
「じゃあ、アンタにとっても、思い出の場所ってわけか」
 だからここをヤサ――自分の住処に決めたというわけか。
「俺が住み始めたのは、つい最近だ」
「お兄さん達とは、一緒に暮らしてないのかい?」
「ここの家とあの家を、行ったり来たりしてる。気に入らなければ、ずっとここにいるさ」
「俺、あの家に招かれたことがあるよ。随分広い家だった」
「だろ? 広過ぎて、落ち着かねぇぜ」
「だからかい? ここにいるのは」
「ああ。ちっとばかし、別の理由もあるんだけどな」
「何故? 訊いてもいいかい?」
「……時々、あそこに帰りたくないことがある。そんな時いるのにここは、ちょうどいいんだよな」
 ジャンは、何も云わなかった。
 帰りたくないとは、どういうことだろう。半ば、帰る家を失った状態にあるジャンにとっては、理解できるような、できないような。
 ハーレムが感じていることと、ジャンが想像していることとは、あまりに違うことかもしれないのだ。正確な所は、当の本人にしかわからない。
 机に並べられたパンは、いつの間にか全部なくなっていた。

「もう二度と来るんじゃねぇぞ
 ジャンの帰る間際、ハーレムはにっと笑って云った。本気ではないのである。
「わかってるよ」
 ジャンも笑ってみせた。
「そうそう。鍵は直した方がいいと思うよ」
 帰る間際、ジャンは振り返って云った。
「云われなくたって、そうするさ」
 ハーレムの声を背に、ジャンは去り際に手を振った。

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