光の中の道
4
 その後、ハーレムは、何ヶ月もの間、各国を飛び回らねばならなくなった。立て続けに”仕事”が入ってきたからである。
 砂漠や、かつては街であったところで、敵兵と戦っているうちは忘れていたが、それでも、夜空を見上げ、星が瞬いているのを目にしたとき、ふっと思い出したのは、カワハラのことだった。その穏やかな目をした、人の良い日本人が、まるでハーレムにとって大きなエクスクラメーションマークであるかのように。
 ――僕は、君が殺そうとして瀕死になった人間も助けるよ。
 いつか言ったカワハラの言葉。あれは確か、彼が医者になると決心したことを告げたとき。
 ――満足かい? ハーレムくん。
 実際のカワハラは、決してそんなことを口にはしなかった。だが、記憶の中で彼は、生真面目な様子でそう問いたげに、ハーレムをじっと見つめている。
 ハーレムは、自分の日常が、もっと血と弾薬、硝煙の匂い、戦いで満たされればいい、と思っていた。他のことなど、何も見えなくなってしまうがいい。それこそが、信じるに足るもの。こうしていれば、死んだルーザーのことも、秘石眼の暴発で、親友を殺したと思い、目をえぐったサービスのことも思い出さなくて済む。
 そう、あの、口先ばかりの偽善者、怒りや憎しみなど抱いたことのない、という顔をしている、自分とは違い過ぎる男のことも忘れて――。
 しかし、その戦いの日々も、やがて終わった。どうせまた出動せねばならぬだろうが、今は本部に帰らなければならなかった。
 鉄色の塔、ガンマ団本部が遠くに見える。横手には、団附属の研究所の広大な敷地が広がっていた。医療センターもその中にあるはずだった。
 ハーレムはそこで車を止めて――ハンドルを切った。
(……俺は大馬鹿者だ)
 高松の部屋を訪ねる手間を省いて、直接514号室に向かった。どうしても、確かめてみずにはいられなかった。
(あいつは、まだいるだろうか――)
 三人の若い看護婦たちが、何も言わず、廊下に佇んでいた。悄気てうなだれ、精神的にも肉体的にも、疲れているように見えた。ハーレムがもっと忘れっぽかったら、以前会った看護婦たちだとは、見分けることができなかったであろう。
「こんにちは」
 彼女達は来訪者の姿を見ると、そそくさと去って行こうとしたが、その中の年長者が、足を止めて言った。
「あの――カワハラさんにお会いになるつもりでしたら、あまり刺激になるようなことはおっしゃらないでください。彼、この間まで具合が悪くて――今日、集中治療室からまたこっちに移されたばかりですから」

 数カ月ぶりに会うカワハラは、痩せて頬がこけ、目が落ちくぼみ、顔も肌つやを失い、ベッドから頭を持ち上げられそうになかった。体にはいろいろな器具をつけられていた。
 だが、目元の柔らかさ――彼を年より若く見せ、年より落ち着いて見せていた目元の柔らかさは変わらなかった。
「よく来てくれたね。ハーレムくん」
 ハーレムはカワハラのあまりの変貌ぶりに絶句し――そして、やっと口を開いた。
「おまえ、変わったな」
「いい男になったろ」
「アホ……」
 ハーレムは笑いかけたが、同時に鼻の奥がつんとなった。
「具合が悪かったのか?」
「うん。今回ばかりはもうだめかと思ってたけど、助かってよかった。ハーレムくんに、最期の挨拶ができるんだもの。僕、次、発作が起こったら、もう助からないってさ。高松くんに無理言って、こっちに移してもらってよかった。きっと神様が、特別に時間をくださったんだ。君に別れを言う」
「おまえ、そんな寝言、信じてるのか。神など、いるわけがない……」
「でも、そういう、全てを知っていて、最後には必ず良いようにしてくれる、そんな存在がいると思うだけで、未来に希望が持てないかい?」
「だが、おまえに……」
 ハーレムは言葉に詰まったが、カワハラに遠慮しても仕様がないと悟った。
「おまえにどんな未来があるというのだ」
「僕はここで死ぬかもしれないけど、君にはまだ未来がある」
 カワハラは、微笑んだ。
 こんなにやつれてもなお、ひとのことを気にかけているのだろうか。
 彼は、春の日溜まりのようだった。
 なんと言ったらいいのだろう――それは、やはり、以前のカワハラではなかった。両手を広げて、喜んで運命を迎え入れようとしている。彼からはもはや、”生きようとする意志”は感じられなかった。
 ハーレムは、今までたくさんの者に死をもたらしてきた。自分が死ぬことを悟った時、ある者は命乞いをし、ある者は泣き叫び、ある者は投げやりになり――少数の者が、気丈にも抵抗せず、それを受け入れた。
 だが、今のように、哀しいまでに透き通った何かが、静かに、自分の心を圧しつけてくるような感情は、味わったことがなかった。
 それは、断じて、盲目的に、”生きよう”とする意志などではない。そうであったら、どうしてこんなに――畏れなければならないのだろう。ハーレムはぎゅっと拳を握って、震えを抑えようとした。
「だが、だが、俺は――……」
 ハーレムは、自分の台詞にはっとして、それから、言い直した。
「おまえは、死ぬのが怖くないのか?」
「怖かったよ。正直いうと、今でも少し怖い。……だけど、この間夢を見たんだ。どこまでも、どこまでも、光に満ちた場所だった。あるのは光だけだった。死んだら、こんなところに行けるんだ、と思ったら、恐怖はどこかに消えてしまったよ」
 カワハラは天井を見上げた。天井を突き抜けて、何かを見通しているような目だった。
「光の中の道だよ。ハーレムくん。僕たちの歩んでいる道は。それさえわかっていれば、何も怖いことはないよ」
「嘘だ」
 ハーレムは言った。声が詰まった。
「おまえはすぐに、そんな馬鹿げたことを言う。俺は、信じない――」
「でも、そうなんだよ。みんな、気付かないだけなんだ……」
 ハーレムは、打ちのめされた心持ちで、ふらふらと外へ出た。木に寄りかかり、空を見上げた。太陽が曇り空から弱々しい光を投げかけている。だが、それも、今の彼には眩し過ぎた。
(光の中の道……)
 にわかには、その存在を信じることはできなかった。
 いつもいつも、ハーレムの生涯には、闇がひっそりと寄り添っていた。だから、闇に負けず、炯々と光を放っていたマジックに、ハーレムは惹かれたのだった。自分でもそうとは気付かずに。
 奴は知らない。世界がどんなに暗いもので満たされているか。奴は歩く楽天主義者、ジョン・フォレストよりもっと度し難きオプティミストだ。そう思ってみても、心の底にある、たったひとつの確信は、消えることはなかった。
 カワハラが天に向かって、「なべてよし」とうなずくことを――。
 彼は、決して死なないだろう。未来への希望を抱いたまま、光の中の場所へと召されるだろう。
 たとえ、物理的に、からだが動かなくなったとしても――……。
 涙がこぼれた。
 カワハラの言葉が、ハーレムの心に入り込み、とっくに麻痺していると思っていた部分を、甦らせようとしているようだった。この期に及んで、彼は人を生かそうとしているのだった。
 人を生かす者もあれば、人を殺す者もいる。
 ハーレムは、己が生かす方の人間ではないことを、よく弁えていた。

後書き
はい、後書きです。
これは2002年に書いた小説です。一晩でがーっと書いたの。
途中、「これは他人様のアイディアだよな」と思って、直したところがあります(それを言っちゃあ、もっと他人様かぶっているところのある小説もあるんですが)。
今だと、拙い部分も数々見えてきますね。
これには、私なりの死生観も入れてみました。
飯田史彦先生の、『生きがい論』も、大いに参考にさせていただきました。ありがとうございます。
これによって、「死んだら光の中に入るんだろうな」ってことを考えました。
それで書いたのが、この作品です。

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