俺の母親

 今日は俺の母親の話をしようと思う。
「シンタロー、フルーツケーキ焼いたから、食べに降りてきなさい」
 母さんが、柔らかいソプラノの声で俺を呼んだ。
「はーい」
 母さんのフルーツケーキは俺の大好物だ。
 それは甘過ぎず、頬張ると口の中いっぱいに果物の爽やかな酸味とスポンジの甘味が広がる。
 俺の母は、自慢じゃないが、大抵のことは何でもできる。
 しかし、射撃が予想外に上手かったことを知った日は、さすがの俺も驚いた。もう何年も昔のことになるが――閑話休題。
 俺がいそいそとリビングにやってくると、お菓子の匂いにふわりと包まれる。
 父さんもそこにいた。
「やぁ、シンちゃん」
「おう」
 俺は父さんにややぶっきらぼうに挨拶して、向かいのソファに座った。
 母さんは、俺の分の紅茶を注いでいる。いずれまた、本格的なイギリスのティーパーティーを再現しようと言ってくれたので、俺はそれを心待ちにしている。――口には出さないが。
 俺の目から見ても、父さんと母さんは仲がいいと思う。
 だから――
 前に俺が聞いた話――母さんが父さんを殺そうとした話なんて、嘘だよね。
「んー、ママが淹れた紅茶は美味しいね」
「あら、ありがとう」
 父さんの褒め言葉に、母さんは猫のような目を細めて、ふふ、と笑った。
 母さんはなかなかの美人だ。ウェーブがかった黒い髪。俺も黒髪だが、まっすぐだ。
 黒髪に黒い目。昔はコンプレックスだったその自分の顔も、母さんから受け継いだものなら、悪くない。
 でも、俺の髪は直毛で、波打っていない。そのことを以前父さんに話したところ、父さんは、
「それは私に似たんだね。シンちゃんは、パパとママの両方のいいところをもらったんだよ」
 と、笑顔で答えた。俺も、まんざらでもなかった。
 俺は、ケーキを口に入れ、その後紅茶を流し込んだ。スポンジが紅茶で湿って、口の中で溶け合うのだ。
「ねぇ、マジック。明日私の父と兄の墓参りに行ってもいいかしら」
 母さんが、父さんにねだるように尋ねる。
「ああ――私も行っていいかい?」
「ええ。あなたも私の家族ですもの。きっと父も兄も、喜んでくれると思うわ」
「――そうか」
 父さんは、紅茶を音を立てずに啜った。――そして、カップをソーサーの上に置く。もう飲み終わったらしい。
 父さんの顔が曇った。
「彼らを殺した、私に対して――か」
 父さんは小声で言ったが、俺は聞き逃さなかった。部屋が静かだから、普段だったらかき消える声も拾えるのだ。いつものように音楽でもかけていればよかったのだが。
「お茶、もう一杯いかが?」
 母さんは屈託ない明るい笑顔を見せて言った。
「もらおう」
 父さんは答えた。
 ああ……やっぱり。
 父さんは人殺しなんだね。母さんのお父さんとお兄さんを殺したなんて。俺の、お祖父さんと伯父さんを殺したなんて。だいたい想像はついてたけど。大人達のひそひそ話。新聞などのマスメディア。お祖父さんは、自滅したようなところもあるが。
 じゃあ、あの話も――?
「ねぇ、母さん。父さんを殺そうとしたことがある、なんて本当?」
 俺は、勇気を出して訊いた。大人達ですら、誰も教えてくれなかったこと。あの大嫌いな同級生以外、俺にチクったことのなかったこと。それまでだって、そういう話題になりかけたことがあったが、誰もが別の話にすり替えたから、鈍い俺は気付かなかった訳。無神経の塊のハーレム叔父さんでさえ、口を閉ざしていたことだったから。
 嘘だと思っても、ほんの少し――ほんの少しは信憑性のある話。もしかしたら――と思わせる。そんな感じがあった。もしそうなら、悪いのはきっと父さんの方だろう。――その話を聞かされた日は、眠れなかった。
 でも今は、訊いても大丈夫だと思ったから。それを話題にしても、壊れない絆が、二人の間には確かにあると思ったから。でなきゃ、結婚なんかしないだろう。
 俺は立ち入ったことを訊いたかもしれない。家族の絆に甘えて。タブーに触れたかもしれない。
 ところが――
 父さんと母さんは、触れられたくないところに触れられたという緊張の代わりに、どこかほっとした顔をした。俺が心配したような張り詰めた空気などなかった。
「本当よ。シンタロー」
 母さんが言った。
「話さなかったかしら?」
「聞いてない――噂でしか」
 おまえんちの母ちゃん、マジック総帥を殺そうとしたことあるんだぜ――あの心ないクラスメートが、どこから聞いたのか、鬼の首を取ったように、俺に告げたのだ。
「誰が話してた?」
 と怖い顔を作って質問したら、
「みんな言ってるぜぇ。有名な話だもん」
 とそいつは答えた。
「結婚当時新聞に載ったわよね。えらく騒がれたわ」
「ああ。ママがあんまりありのままを言うんで、こっちがひやひやしたよ」
 と、笑い話でもするかのように、父さんと母さんが語り合った。
 そうか、その話はもう、二人の間では過去のことなんだ。
 ざまぁ見ろ――俺はその顔も思い出したくないクラスメートに、心の中で誇らしげに言ってやった。
 だが、あんまりあっさり回答が得られたので、拍子抜けもした。気を使っていたのは、周りだけだったらしい。
 二人はどうしてあっけらかんとしているんだろうな。それはわからなかったし、考えてみると、ちょっと怖かった。
 まぁ、この二人に常識なんて求める方が無理な注文か。どっか普通じゃねぇもんな。
 だけれど、どうして一度は殺そうとした相手を、今は愛してるなんて言えるんだろう。
 俺は、疑問を母さんにぶつけた。母さんは、ちょっとなんともいえない不思議な目をしてから、こう答えた。
「それはね――私はマジックを愛してたの。ずっと、ずっと――父と兄の復讐をしようとした時でさえ」
「ええっ?! 親父を?! 嘘!」
「シンタロー」
 母さんが厳しい声を出した。
「そういうことって、あるものなのよ。私は、幼い頃からマジックに惹きつけられていたの」
「一流の男は、一流の女を引き寄せるものなんだよ」
 父さんが自信満々で堂々と割り込んだ。ぬかしやがれ。
「愛してる人を殺そうとするもんなの?」
 俺は、親父を無視して話を戻した。
「場合によってはね」
「親父は、母さんを殺そうとした?」
「いや。慈しみ、育て上げようとした。――今、シンちゃんにしているようにね」
 父さんは、男らしいその顔に、きっぱりと父親としての笑みを浮かべた。
「あらあら、紅茶が冷めてしまうわよ」
 あ、そか。
 俺は、急いで紅茶を飲み干した。紅茶はぬるくなるところだった。ケーキを一口、ぱくっと食べる。
「ああ。こんなことをお茶を飲みながら静かに話すことができるようになるとは、夢のようだわ――本当に、私もこんな日が来るとは思っていなかったから」
 母さんが感動したように言った。
「面白い話をしてあげよう。ママにはね――結婚前にも三つの名前があったんだよ」
 父さんが、カップの取っ手を持ったまま、いたずらっぽい笑いを浮かべた。
「何なに?」
 俺は興味を持ってせがんだ。
「まず、本名のレイチェル・リタ・ワーウィック。次は、エレーヌ・ライラ・深崎。最後は、ビリー・ピルグリム」
「ビリー? 男の名前じゃねぇの? それって」
「ビリー、というのは、私が自分でつけたのよ」
「何の為に?」
「ガンマ団の親玉、マジックに近づく為にね」
 母さんは、父さんの頭をこつんと叩いた。
「そう。あの頃のママは、それはそれはおてんばでねぇ……」
「もう……よしてよ。あなたったら」
 母さんは照れているように見える。
「昔のことよ」
「男装して、懸命に男のふりをしようとしてたんだよ。今の母さんからは、ちょっと考えられないだろう?」
 同意を求める父さんに、俺はこくこくと首を縦に振った。
 おしとやかで、いい匂いのする、どこからどこまで甘いものでできているような、どんな服でも着こなす、家事も万能の美人で長い髪のレディー。
 その母さんが男装をしていたという。ちょっと見てみたかったかな。
 そういえば、俺は、母さんが初恋の人だったっけ。今は違うけどね。誰かって? それは、内緒。
「射撃も、その頃身に付けたのよね。その前は、深崎のおじさんのところで歌を歌っていたの」
 深崎のおじさんは、たまに家に遊びに来る。その息子の修さんには、俺も遊んでもらった。
「その時は、赤いイブニングドレスとか着て、歌を披露していたの」
「ママの歌は最高だったよ」
 父さんがやにさがる。
 深崎おじさんの店って、確か酒場だったよな。
 えー……歌い手から男装の麗人って、どこのスパイの話だよ、それ。
 まぁ、相手が暗殺集団の親玉なんだから、お似合いなのかもしれないけどな。
 俺の母さんも、見た通りの単純な、日本の大和撫子みたいな女性ではない(そういえば、深崎おじさんの店も『大和撫子』って言ったな)。いろいろ秘密を持っているんだ。わけのわからない秘密も。
 とにかく、今回もまた、のろけを聞かされてしまったわけだ。
 勝手にしやがれ。
 まだべたべたしている二人を置いて、ケーキも食べ終わった俺は、洗い場へと自分の分の皿を片づけに行った。
 あんなに砂糖漬けなカップルにはなりたくないが、将来、俺も好きな人と結婚したいな。
 殺し合いとか、物騒なことはしたくないが。父さん達もいろいろ大変だったみたいだし。結ばれるなら、すんなり結ばれたい。
 だけど、なぁ……。
 俺はちょっと溜息を吐いた。俺達家族って、やっぱり変わってるよなぁ……こんな話題、愛している存在を殺そうとしてたのなんだの、それからスパイ大作戦みたいな話、お茶の時にする話でないと思う。って、俺がきっかけなんだけどさ。
 やっぱり、人殺しの家族、なんだよな。
 それがあんまり嫌じゃないのは、俺も変だからなんだろうなって、感じる。
 ちょっと首を傾げることはあるけど――それでも俺達は幸せだ。それには、母親の存在も大きな役割を占めている。
 祖父と伯父の墓参りには、俺も連れて行ってもらおう。父さんも行くんだし。
 父さんが何故、母さんの家族の墓に行きたいのか……複雑な気持ちでいることは間違いないようなのに。墓の前で、謝りたいのか。その辺はよくわからないのだが。
 俺は母さんを呼んだ。
「母さーん……」

後書き
『マジック総帥の恋人』の後の話です。シンタローの一人称。パイロットフィルムとして、短編小説広場に『マジック総帥の奥様』なんてのも載せておりますが。シンタローが少々マザコン気味。
原作は原作として、私は、シンタローには、母親に愛されて育って欲しかったと思っています。かなり変わった母親ですが(笑)。
センテンスにはいろいろ気をつけたつもりですが、すっかり腕が錆びちゃったなぁ……昔の見ていて、そう思います。あの時は、若さと勢いで書いてたからなぁ……。テクニックなんか気にせず、自分の書きたいものを書いてた。それがものすごく羨ましい。
しかし、人生前にしか進めませんしね。振り返りながらも捉われない。そういう風にできたらいいなと思います。
とにかく、実力をもっと身につけたいと思う、今日この頃です。
2010.1.13

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