脱出 子供の頃は、水平線を見るのが大好きだった。 森の大きな木に登って、海の向こうには、いろいろな世界があるのだと思うと、心がわくわくと躍った。 「何やってるんだ! 君!」 (――ちっ、ジャマ者だ) ストームは、木の下の人物に苛々した目を向けた。 首筋を覆う程度の長さの黒い髪。草食獣を思わすような目。灼熱の太陽に焼かれた褐色の肌。 ストームは、この男が嫌いだった。この頃は、名前も知らなかった。 ただ、口うるさい存在だと思っていた。 男はするすると木に登った。 「小さい子が、こんな高いところに登ったらだめだろう。落ちたらどうするんだ」 子供扱いされて、ストームはかちんと来た。 「オレ、うんどうしんけーいいから、落ちないよ」 「でも、放っておくわけにはいかないんだ。さぁ、降りなさい」 ストームは、一応じたばたして反抗を試みる。でも、男はがっちりとストームの体を抑えているし、本気で暴れたら、本当に落ちそうだ。 「よし。大人しくなったな」 ストームは、嫌々ながら、男に従った。 (今に見てろ) 「ん? なんだ? 何か言いたいのか?」 男は穏やかに訊く。 「いつかおまえより大きくなって、めにもの見せてやる!」 「そうか。それは楽しみだな」 男は豪快に笑った。 「そんでもって、この島から出て行ってやるんだ」 男の顔から、笑みがすっと消えた。 「いいかい。坊や。それだけは、駄目だ」 急に真顔で言われて、ストームは、それが本当に禁じられたことだということを悟った。 (でも、オレは、いつかここを出て行ってやる――) そのとき、ストームは、この島では脱走罪が一番重い犯罪であること、そして、自分を諭したこの男が、赤の番人ジャンだということを、随分後になってから知ったのであった。 そして、十年の月日が経った。 ストームは牢屋に入れられていた。 島からの脱走を図ったのだ。数人の仲間と一緒に。 海が荒れ狂った日、その仲間達はストームを止めたが、彼は、準備していた船に乗って、沖へ行った。 ジャンが、ストームの船を止めに、漁をするときの小さな船に乗って、追いかけた。 パプワ島は空中に浮かんでいたのだが、海もぐるりを取り囲んでいるのである。ただ、ある地点で、海は途中で途切れている。 早く止めないと、船は、そこから、落ちる。 ジャンは、ストームの船に乗り込んで、彼を説得し、島に戻らせた。帰れば、悪いようにはしないと。 ――だが、ストームを待っていたのは、無期懲役の判決だった。 ストームは青の長の弟であるし、恩赦でまたすぐに出られる筈であった。 ある日、彼の前に、銀色の長い髪をした男が現われた。 「ストーム」 銀髪の男は、厳かに言った。 「なんだ?」 ストームは訝しげに睨んだ。 「私のことは知っているだろうな」 「ああ。裁判のときに、いたろ?」 「私の名前はアスだ。――君に差し入れを持ってきた。 「差し入れ?」 アスは、牢屋の格子から、菓子パンを差し出した。 「腹が減ったろう。これを食べろ」 「食事なら、ここでも出るぜ。まずいけどな」 「このパンは、貴様にはとても美味しいはずだ」 偉そうなアスの物言いに、ストームはムッとした。 「食べるか、そんなもん」 「ならいい。どうせ食べたくなるときが来る」 そう言って、アスはそこから姿を消した。 「なんだあいつ」 ストームは、菓子パンを見つめていた。 「誰が……食うか」 だが、お腹が空いてきたのも事実だ。パンを見たせいかもしれない。 一口だけなら――。 ストームはパンを一口、口に入れた。今まで食べたどの食物よりも、美味しかった。 彼が夢中で食べていると、ガキッと、固い物が歯に当たった。 ぺっと吐き出すと、それは鍵だった。 (牢屋の――鍵?) ストームは急いで鍵穴に鍵を入れた。 がちゃがちゃ乱暴に回すと、開いた手応えがあった。 (はっ。粋な計らいをしてくれるじゃねぇか。あのアスとやらも) ストームは、迷わず牢獄から出て行った。 夕暮れの太陽が、景色をオレンジ色に染めている。 (この島ともお別れだな――) そう思うと、少し寂しい。だが、感傷に浸っている暇はない。早く逃げなくては。 彼は、西の崖の方に突っ走って行った。 そこは、海に面していない、たった一つの場所だった。 島の人々は、そこに行ってはいけないと小さい頃から教えられてきた。この島から落ちると、どうなるかわからない、と。 それでも、いたずら盛りの子供は、注意を無視して、この場所に遊びに行くことがある。 一応バリアーは張ってあるが、時々、それが薄くなるときがある。そんなときに、子供達をたしなめ、親の元へ戻すのが、ジャンの役割だった。 ストームは、手を差し出してみた。抵抗はない。これなら、自分でも通れる。 ここから飛び降りてやる! ストームは、決意をすぐさま行動に移した。 「おーい。獲れたかー?」 「いやあ、さっぱりだよ」 漁師達が、声をかけ合っている。 「ん? あそこになんか浮いてるぞ」 「船を回すか」 漁師達が船で近付いてみると、金色の藻のような物が、海面に浮かんでいる。白い服みたいな物も見えた。 「人間だ! おい、人間だぞ!」 「早く助けよう!」 漁師達の必死の救助のおかげで、ストームは、意識を取り戻した。 「大丈夫か?」 「ああ……ありがとう、ございます」 ストームは、一応礼を言った。何せ、相手は見知らぬ人達なのだ。それなのに、自分に良くしてくれた。 (ここがパプワ島でないことは確かだな――) ストームは知らなかったが、そこは太平洋の島の近くであった。 彼の脱出劇は、一応の成功を収めたのだった。 しかし、気になるのは、ライのことだった。 (必ず迎えに行くからな、待ってろよ。ライ) 後書き はい、久しぶりの南の島の歌シリーズです。 ちょっと矛盾しているところには、目をつぶってくださいませ。 ストームは、地上に落ちたんですね。地上に降りた最後の天使(笑) 2008.7.3 |