NO.5

 日本の国花といえば、桜である。特に、春の満開の桜は素晴らしい。
 ――だが、こういった出だしで始まるからといって、別に僕は日本のことについても、桜のことについても書く気ではない。ただ、筆鳴らしに手近にあった本の、適当に開いたページの文章を写しただけだ。
 そうでもしなければ、僕の手は、いつまで経っても帳面で止まったままだからだ。僕には書きたいことがあり過ぎ、どこから始めればいいのか、さっきまで全然わからなかった。僕の頭の中では、いろいろな文章が渦巻いている。
 だが、書かなければいけない、と思う。誰に見せる為でもない。これは己の為だ。僕の想いを整理し、見つめ直す為だ。書いた後は、すぐに焼き捨てようと思っている。どうせ誰に見せようと思っているわけではない。というより、そんなことはしない方がいい。
 急がなくてはならない。
 もう時がない。――黙示録第十章六節の終わりの言葉だ。
 もう時がない。僕の時は刻一刻となくなっていることを、この頃痛切に感じる。どういうわけかはわからない。だが、僕にとって重要な何かが迫っている。いくら馬鹿な、と否定してみても、その切羽詰った想いは消えない。
 何故だ。僕は二十三で、結婚したばかりで、新進気鋭の科学者と注目され、まだ若い。
 だが、そんなことは既にどうでも良くなっていることを、このところしばしば感じる。
 彼のせいだ。
 いくら僕の意識がが認めたがらなくても、もう一人の、奥の方にいる僕は、はっきりそうとわかっている。これは、彼のせいに違いなかった。
 彼のことを考えるとき、いつも僕は苦い想いを噛み殺さずにはいられない。
 ――ハーレム。僕のすぐ下の弟。
 僕の弟は双子だから、そのうちの兄の方だ。
 ああ、また書くスピードが遅くなった。僕は柄にもなく、緊張しているらしかった。
 お笑いだ。こんなに何かを畏れる気持ちがあるとは。兄と対峙する時も、こうなることはなかった。
 でも、それなら何を畏れている。彼か。
 いや、僕は彼など畏れはしない。では、全て、何もかもを見通す目か。そんなものがあるわけがない。
 だが、僕はライティングデスクの上で次の言葉を書くのを逡巡し、ひとつひとつ文字を綴るたびに、妖しい心の昂ぶりを覚える。すぐ横の、飾りのついたかさを被せたライトスタンドが、僕の手元を照らしている。
 僕はいったい、何を書こうとしているのだろう。
 ここまでの僕の文章は、全て無駄なものに思える。
 だが、誰に見せるものでもないのだ。構いはしない。
 しかし、誰に見せるものでもないなら、このように長い前置きは必要ないはずだ。
 では、さっさと本題に入るとしよう。
 僕は、また今回も、書き留めておこうと思いついたのだ。僕と、彼とのことを。長年にわたって続いてきた、彼との確執を。そのことについては、前にも何度か書いてはいたのであるが。
 何時の頃からか、彼は僕に、強い敵意を抱くようになっていた。真っ直ぐに感情をぶつける彼のこと、表現もストレートだ。いちいち僕の言ったことにつっかかり、反論し、強い視線で睨みつける。
 無視すれば良かったのかもしれない。けれど、僕は彼を捉えようと試みた。そして、そのことによって、僕は捉えられてしまった。気がついた時には遅過ぎた。
 最初は抵抗をした。こんな、いかに同じ、青の一族とはいえ、粗野で、無教養で、ただ自らの想いをぶつけるしかない、身勝手な子供など。こんな、出来損ないなど。やっと白旗を上げる気になったのは、ごく最近のことだ。
 愛してはいない。彼に対する想いといえば、ただ憎しみだけだ。
 身の引き裂かれるような渦の中に僕を投げ込んだ彼を、僕は決して許しはしない。
 どんなに泣き叫んでも、どんなに跪いても、決して。
 彼の体をかき抱けば、僕の腹も少しは癒える。しかし、それはかえって飢えを増すだけのものであるに過ぎない。飢え――求めても、決して手には入らないものに対しての。
 だが、僕は彼の心を欲しているわけではない。彼の心など、欲しくはない。僕の欲するのは、もっと大きな、完璧なものだ。
 僕が彼に近づいたのは、興味と、少しの好奇心、それから僕をそんな生意気な目で見ることができないようにする為の、いわば懲らしめのつもりだった。
 彼が弱いのは知っている。愚かな、兄さんと比べたら、本当に取るに足らぬものであることも。
 彼は美しくない。一応整った顔立ちはしている。一族の名に恥じぬくらいには。しかし、ダークブロンドの濃い金髪は、お世辞にも手入れがなされているとは言えないし、あちこちにはねていてみっともない。僕も兄さんもサービスも、『そんな頭では外に連れて出るのも恥ずかしい』と、散々髪を切るように勧めているが、一向に従う気はないらしい。眉毛は黒く染めてある。ファッションなのか、サービスと区別をつけるつもりなのかは知らないが、そんなことをしなくても、あの美しい彼の双子の弟と間違える者など、いるはずがない。よく、不良のような格好をしている。大きな目はぎょろっとしていて、気が弱い子なら怖がるぐらいだ。鍛えているだけあって、体格だけは立派だ。
 彼は僕好みのおとなしい人間ではない。サービスや高松のように、素直な質でもない。
 しかし――おかしなことだが、それだからこそ、僕は、ある意味彼に執着するのだろう。彼は僕の気をひきながら、どこかで僕の心を引き裂く。
 そして、彼は僕を憎んでいる。
 彼と僕をたったひとつ、繋ぐものがあるとすれば、それは憎しみだけだ。
 罵り合いが僕らの日常となり、彼の体を僕が貪り、彼が僕に屈服するか、最後まで抵抗し続けるか――。だが、一時的に屈服させてみたところで、彼の心は、決して僕のものにはならない。
 最初は僕に有利なゲームだった。彼を傷つけることだけが狙いだった。そして僕は手にした彼の心を、握り潰せばよかった。彼の未来も、愛する者も。彼が幼いとき夢中になった、あの小鳥にしたように。
 だが、うちの敷地内にあった森で、彼がサービスに見せた表情を見て、僕は、それが容易ならざることを思い知らされたのだった。
 少し、はにかんだような、夢見てでもいるような目付き。決して彼は弟から目を離しはしなかった。ああいった表情は、僕は見たことはなかった。
 サービスを殺すことはできない。一族の者だからだ。それ以上に、僕はサービスが可愛い。彼を少しでも傷つけるとは、とんでもないことだった。そんなことをしたら、僕は一生自分を許さないだろう。
 ハーレムを実際に殺すことはできない。そうしたいと夢見たことはたびたびあるが。何故なら、彼も一族の者だからだ。そうでなければ、とっくに手を打っている。誰にも言ったことはないが、僕はこれまでにも何人か僕に公然と刃向かった、或いは気に入らない団員を何人か地に葬っている。彼らは弱いから、生きる資格などないのだ。別に隠しもしなかったから、高松や兄さんあたりは気付いているかもしれない。
 僕は殺人の代償行為として、彼を慰み者にしているのかもしれない。いや、実をいうと、それだけでもないのかもしれないが。
 正直いうと、彼と寝るのは、妻との行為よりも楽しい。妻を抱く手順は、場合や気分によって時々変えたりはするものの、ほぼ決まっている。けれど、彼との行為は、一瞬一瞬気の抜けない戦いのようなもので、下手をするとこちらがやられる。そして、見事優位に立った時は――快楽には敵わない彼の体相手だから、そちらの方が多かったが――男としての力を噛み締めないわけにはいかなかった。
 もう抵抗を手放した彼を見るのも、楽しみのひとつだ。荒い息を吐いて、焦点の合っていない青い瞳を潤ませている彼は、僕の背筋を戦慄かせるような危うさを秘めている。そういった時の彼の姿は、いっそ美しいと形容してもいいぐらいのものだ。それは僕の弟でも、生意気な、屈服させずにはいられない少年でもなく、何か別のものだ。初めてそれを見た時には、彼のような人間でも、このような貌を隠し持っていたのかと驚いたものだ。彼がそういった表情を他人に見せてはいまいか、とも思うが、どうやら実際に見ているのは僕一人であるようだ。サービスのことは、ハーレムの一方的な片思い。ハーレムのもう一つの顔に気付いているのは、風の噂から察するに、団員の中にも何人かいるようだが。
 そういえば最近あの子とも寝ていない。だが、今はこれをきりのいいところまで書いてしまうことにする。
 このつれづれ書きに題名をつけることはしないが、いつものように番号だけはつけておこう。
 NO.5。僕が彼とのことを綴ってきた、五番目の文だ。

 休暇が来ると、ハーレムは家に帰ってくる。
 兄さんと弟に会いたいが為だ。僕のことは無視する。或いは我慢できずに絡んでくるか、どちらかだ。
 僕も普段は彼に気を払わない。暇な時や気が向いた時だけ、何かを言う。
 彼を怒らせるのは至極容易い。彼は熱しやすい質だからだ。的確に痛みをつけば、相手は確実に乗ってくる。
 だが、僕は別に喧嘩をしたいわけではない。彼のように、争いが好き、という、野蛮な質でもない。では、どうして?
 あの瞳が、気に食わない。
 大振りな、少しばかり整っている造りの不良少年の顔の中で、あの瞳だけが冴え冴えとしている。それは少し、兄さんを思わすところも、ないでもなかった。
 しかし、普段の兄さんの瞳が、怜悧な藍色に沈んでいるのに比べ、彼の瞳は常時青い光を放っているように思われる。それは肉食獣の目だ。獲物を取って食い、反抗する者の目だ。瞳の中に浮かぶ光の粒も、他の人に比べ、少し大きいような気がする。
 あのような目で見られるのは、たまらない。
 彼は、僕が知らないと思っているところでは、僕を凝視している。恨みと憎しみで凝り固まった視線で。僕はそれに気付かぬふりをしながら、彼の様子を伺う。僕が、自分には背中の後ろにも目があるんじゃないかと思うのは、ちょうどそういう時だ。
 僕は彼が二度とそのように僕を見ない為に、目を抉ってやろうと考える。だが、そうすることはできない。彼は秘石眼の持ち主だからだ。
 絶大な破壊力を持つ、美しい宝玉。彼はそれを使ったことがなかった。使えない、と言っても良い。兄さんは使い方を教えない。僕は使えるが、それは自分で研究したからだ。(世の中には分析できないことはない。神の存在ですらも)この一事を持ってしても、ハーレムが兄さんには絶対に敵わないことは明らかだ。スタートラインからして、既にハンデがついている。兄さんだけ両目秘石眼。僕らは片目だけ。けれど、僕には兄さんを超えようという意思はない。だが、両目とも秘石眼でないのは、残念だ。もしそうであったなら、兄さんの為に、ひいてはガンマ団の為に、もっと大きな仕事ができたのに――と。
 兄さん。
 僕は兄さんを敬い、尊敬している。この世でただひとつの完璧なものだからだ。愚かしい、哀れな人間どもとは一線を画し――どころではない。天の高みにいるような人だ。覇王の座は、彼の為にある。僕は、そのような兄の下に生まれたことを、誇りに思っている。彼の片腕であり、サイエンスという側面からサポートできることは、非常に光栄なことだ。
 ハーレムにも、そういった気持ちはあるのだろうと思う。だが、ひねくれた性格の彼のことだ。兄に対する反感だけを露にしている。
 そうだ。あいつは何もかも嫌いなんだろう。愛すべき弟である筈のサービスにすら喧嘩を売っている。その為、初めハーレムは弟を愛していないのだ、と信じたほどだ。愛憎が屈折した形で表れているのだと知ったのは最近のことだ。
 とりわけ、僕に対する彼の憎悪はすさまじい。兄に対する、己より優れたものへの反発、弟に対する、愛するが為の意地悪、とは違い、僕にはただただ強い憎しみだけを抱いているようだ。
 原因はわかっている。彼は以前、僕に言ったことがある。
「笑いながら、殺したな。――俺の小鳥を」と。
 だが、あれは十数年も前のこと、彼が子供の時のことだ。まだひきずっていたのか、と、その執念深さに、舌を巻く思いがした。
 そういえば、彼は死んだ小鳥の為に十字架を立てて、跪いて祈っていた。あの頃のハーレムは、まだ神などというものを信じていたのだ。
 僕だって、そのことについては忘れてはいない。何故か、この頃、あの時目を見開いていた、幼い彼を思い出す。彼はまだ小さくて、頭ばかりが大きな子供で、泣き虫で甘ったれの坊やだった。よく、紅葉のような手を開きながら、僕の後をついて回ったものだ。あの頃は、まだかわいい弟だった。
 それが、何時の間にか背も伸び、筋肉もついて、頬も引き締まって男の顔になっていた。腕にするたび、艶が増したと思うのは、気のせいばかりともいえないだろう、と思う。
 いつも何かに敵意を寄せ、睨み据えてでもいるような彼。僕をこのように追い立てたのは、そういった態度だ。
 僕は、遊びでも、彼に関わることを自分で選んだつもりだった。けれど、彼も心の底ではそれを望まなかったかどうか?
 どうだろうか。
 ――僕には彼の心は読めない。以前は至極単純で、与しやすい魂だと思っていたが、最近、妙に割り切れぬところが出てきている。
 人間というのは、思っていたよりも一面的なものでもないらしい。僕は、如何に己が人間というより機械に近かったものか、思い知らされている。それもやはり、彼のせいだ。いや、彼のおかげというべきだろうか。
 そう難しく考える必要もないのかもしれない。けれど、理論で武装していなければ、僕は、急速に――彼に惹かれていく、というより、彼の中に落ち込んでしまいそうになる己に歯止めをかけることはできない。
 彼との関係の行き着く先にあるのは、破滅だ。それが見えているからこそ、僕は日毎無駄な抵抗を繰り返す。僕は、あまりにも不用意に相手に近付き過ぎた。
 他人を利用しようとする者は利用される。握り潰そうと思う者は握り潰される。――殺そうと思う者は殺される。
 思えば、ハーレムになど、近付くべきではなかったのだ。僕の動機はあまり純粋なものではなかった。前提自体が間違っていた。それだったら、もっと大きなもの、高尚なもの、完璧なるものを求めるべきだった。兄さんのような。
 罠にかけようと思っていたら、罠にかかって足掻いているのは、己の方だった。
 残忍な彼のことだ。そのことに気付かれたら、一巻の終わりだ。僕は彼に跪かざるを得ず、彼から一生離れられなくなる。愛でなく、妄執に縛られて。
 だから以前のように、支配することを目的として近付くのだと、相手には思わせる。
 彼には隠し通す。この想いは、一生。
 夜毎に僕は彼を追い詰め、残酷な嘘をつき続ける。
 それが僕の、最後の矜持だ。

 その日家には、僕とハーレムとの二人きりだった。
 兄さんは団の仕事で不在、サービスは寮の、ジャンと高松のところに遊びに行っていて、泊まってくる、ということだった。
 リビングで、僕は見るともなしにテレビを見、ハーレムは、珍しく新聞を広げている。番組はヴェニスのことをやっている。――退屈な内容だった。
 ハーレムを見遣ると、彼の眼球は、文字を追うように動いている。一応読んではいるのだな。僕はテレビに向き直る。
 僕は、毛足の長いソファーの上で、ついうとうとと眠りに落ちそうになる。いや、それは嘘だった。そう見せかけようとしているだけだ。僕には、この先何が起ころうとするのか、とっくにわかっている。
 少し重くなった瞼を開け、壁にかかった時計を見る。複雑な形をした長針が、8のところを指している。さっきは2のところだったから、約三十分ぶん、移動したことになる。11時40分。まだ夜は長い。
 パラリ、と新聞のめくれる音が、後ろでした。
 さっきから首筋がちりちりと熱い。臨界点は刻一刻と迫っている。それでも、僕達は傍目には普通にくつろいでいるのだった。まるでそこに見知らぬ第三者がいて、そいつの目を誤魔化す為にわざとそうしている、というように。
 きっと、僕から行動を起こすのは明らかだった。
 その時が、絶対に来るであろうことはわかっている。だが、先は長い。その時は、まだ来てはいなかった。
「――おい。ルーザー兄貴」
 低い声で呼びかけられて、僕はゆっくりと時間をかけて振り向いた。
「――何?」
 僕は、彼に目をあてたまま、逸らさない。やがて、相手はゆっくりと目を伏せた。
「俺は、もう寝るからな」
「どうぞ」
 夕食を終えてから、約五時間ぐらいこのままだったのだ。よくもったものだ、と思う。彼も、早々に自分の部屋に引っ込んで行きはしなかった。まるで、そうしたら自分の負けを認めなければならない、というように。事実、彼がもし部屋に引き上げていたら、僕には彼を引っ張り出す口実ができていたであろうから。
 彼は伸びをして、腕をぴんと伸ばす。彼の座っていたところには、新聞が折り重なって置いてある。
 僕がそれをマガジンラックに片付けようとした時、ハーレムは言った。
「マジック兄貴が帰ってきたら――」
「兄さんは今日は帰ってこないよ」
 ハーレムの台詞を、僕はそう言って遮った。
「え?」
「兄さんは、今夜は帰ってこない」
 僕は、歌うように言った。
「連絡でも、入ったのか?」
「いや。だがそんな気がする」
「そんな気がする? 根拠はそれだけか?」
「そうだ」
「ふん」
 ハーレムは鼻先で笑う。
「あてになるか。そんなもん」
「――君はそう思うか。兄さんに、早く帰って来てほしいの?」
「ああ」
 彼は答える。
「あんたと二人きりにならんで済むと思うと、ちょうどいい」
「――でも、今は二人きりだよ」
「帰ってくるさ。もう団を出て車に乗り込んだところじゃないかな」
「僕は新たな仕事に追われていると思うけどね」
 僕は新聞の一面を示した。そこには、地球の裏側であった大惨事のことが書いてあった。あまり小さくもない町が爆発して、あとかたもなく壊滅した事件。
「これは今日の夕刊だ。これが兄さんの仕業だとしたら、まず今日中には帰って来られないね。――君、ちゃんと新聞読んでた?」
「うるせぇ」
 そう憎まれ口を叩く声には、少し力がなかったような気がした。
 僕はそんな彼のところに大股に近付き、顔を寄せた。ぱん、と頬を張られる。手加減したのだろうが、力ある男のものだ。少し疼くように痛む。
「何をするんだい。おやすみのキスをするところだったんじゃないか。昔からよくしてたろう? はたくことはないじゃないか。――いったいなんだと思ったんだい?」
 僕は、少し面白がるように言ってやる。
「ねぇ、なんだと思ったんだい?」
「うるせぇな。……兄貴はその……変なこと、するだろ? だから……」
「いつもそうとは限らないよ。君は自意識過剰な方か?」
「んなわけねぇだろ」
「だったら、ちょっとじっとしていなさい」
 僕は決まり悪そうにその言葉に従うハーレムの唇に、自分の唇を重ね合わせる。触れるだけの、フレンチキス。ついでに額の方もかするように唇で触れる。
「おやすみなさい」
「うん……」
 ハーレムは、素直に頷いた。少し擽ったそうにして。
 そう。こういう風にしてやれば、まだかわいかった頃の弟の顔が現れる。僕は、なにがなし胸が疼いた。底なしに、何の計算もなしに、愛情だけを注いでやれれば、どんなにいいだろう。
 だが、僕も愛憎の渦の中にいる者だ。彼をただ甘やかし、愛してやるだけの気持ちはもうない。そういった、過保護なくらいの肉親の情に気付いた時には、もう遅過ぎた。だからその感情は、サービスや、幼い頃両親を亡くしたという高松に向かう。兄さんに言われたが、僕には面倒見の良い母親みたいなところがあるのだ。家事や料理も嫌いではない。細かいことにもよく気がつく。僕に言わせれば、兄さんもそうなのだが。
 だから、いつまで経ってもやんちゃ坊主みたいなハーレムは、僕の格好の、世話する相手であったはずだった。
 昔は思う存分彼を可愛がった。今でも、まだ放っておけないところがある。
 ずっと、それが続けば良かったのかもしれない。欲情も、知らぬままに。
「兄貴――」
 ハーレムが不安げに、まだ頭半分ぐらい大きい僕を見上げる。あと数年もすれば、彼は僕を追い越すだろう。
 少し眉を顰めているところなどは、まだあどけなさが伺える。彼ももう十八だ。
「そんな顔をするもんじゃないよ。さぁ」
 僕は子供にするように、肩を叩いてやる。
「ああ。――じゃあ、おやすみ」
 ハーレムはリビングを出て行ったようだった。
 僕は弟が吸い込まれて消えて行ったドアを眺めている。
 何故だろう。この頃、失ったものを数える回数が多くなった。まるで年寄りだ。
 だが、ある種の人間は、二十代、早い人間は十代ぐらいで、既に老いを感じるものなのかもしれない。肉体的な老い、というのではない、精神的な老いだ。
 だが、その一方で、体の中で煮えたぎる血というものは――さっきから僕を唆す。せっかくの獲物を、このまま逃していいのか、と。
 もちろん、僕もこのままみすみすと機会を逃すつもりはなかった。これは弟に対する穏やかな愛情とは、まるで別物だ。
 体は相手を求めてやまない。僕は男で、その肉体が美味なら、悪魔とだって寝るだろう。それが別段、浅ましいと思ったことはなかった。けれど今は――今になって、少しそういったものに疑問を感ずる時もある己がいる。そうしてみたところで、相手の心は己のものにはならないじゃないか、と。無視しようと努めても、その声は日増しに大きくなっていく。
 愛を得られなかったことはなかった。兄さんの信頼も、サービスの真っ直ぐな優しさも、高松の崇拝に似た目の輝きも。団の重要人物で、金髪碧眼の、少しばかり綺麗な顔立ちで、科学の方面では小さからぬ功績がある、というだけで、群がってくる人間は随分いた。僕はよく気紛れや癇癪を起こすことがあったが、それですら、あとで笑いながら「この間は悪かった。許してくれないか」といえば、大抵の者はそれで許してくれた。腑に落ちぬ、という顔をする者も少なからずいたが、大方は彼らの方から離れていった。敵に回るのはほんの一握りである。そういうのは、ただ潰せば良かった。
 ただ、たったひとつ、愛を勝ち得ることも、コントロールすることも、懐柔することも、叩き潰すことすらできなかった相手といえば、ハーレムだけだった。どんなに試みても、彼だけはするりと手をすり抜け、何時の間にか自分を取り戻している。
 彼を屈服させたいという望みだけで始めたこの戦いは、いったい何をもたらしたのだろうか。また、その結末は?
 骨絡みそれに縛り付けられた僕は、もう降りることはできなかった。こうなったら、勝利か、僕の、『Loser』という名前の通りの敗北か――死か。
 ハーレムに敗北するのだけは、嫌だった。それは、あまりにも惨めだ。僕のプライド、天才とまで呼ばれた科学者としての、また青の一族の男としての自負が、それを許さないだろう。兄さんにならともかく、彼に躓くのは、ごめんだった。
 あんな片目にしか一族の証がない出来損ない!
 僕は数日前にワインセラーから取り出していて寝かせておいたワインを開けて、飲み干した。甘い味が舌の上を、喉元を通り過ぎる。いつもは一人で酒など飲まないところだが。
 僕は、これから、何をすればいいのか。思いつく行動はひとつしかなかった。
 台所に行って、ワイングラスをもうひとつ取り出す。もっぱら僕かサービスが弾くことになっているグランドピアノの側を通り越し、リビングを後にしてハーレムの寝室に向かった。
 弟の部屋に来た時、僕は一息溜め息を吐いた。僕は一体、何をしているのか。
 今更だ。こんなところで逡巡するなどとは、らしくもない。
 何度も来た部屋だ。何度もしてきた行為だ。何故迷う。
 僕の中で、新しい何かが生まれ出てこようとしているのか。それは弱い心だ。風が吹けば恐れおののき、人の一顰一笑に一喜一憂する。こんなはずではなかった。
 他の人の前では、隠しおおせもできるし、また、僕自身そう思ったことがあることすら、忘れている。けれど今は――。
 いや、僕は弱気になっているだけだ。
 かなり激しく怒らない限り、表情にあまり変化の出ない顔で良かった。細い金色の髪を真ん中から分け、ゆるく首筋にかかっている、セルリアンブルーの瞳の僕は、常時にこやかな微笑みを浮かべていることが多い。幸せなことが多いからだ。むしろ、万事につけ不機嫌な顔を晒しているハーレムの方が、僕にはわからない。あれで、笑えば可愛いのに。
 けれど、この間高松が心配そうに言っていた。
「ルーザー様……研究がうまくいってないんですか? 近頃表情が暗いようですが」
 僕が問い返すと、高松が慌てて、「いや、翳が出てきてますますお美しくなられましたが」と懸命にフォローしようとしていたが。それにしても、やはりどこかしら、沈んでいるのには違いなかった。高松に言われるぐらいだもの。鏡を見た時に、これが私か、と思わずにはいられない時も、再三あった。
 美しくなったかどうかはわからないが、確かに顔に陰影が出てきた。以前より彫りが深くなったように思う。僕は少し痩せたろうか?
 それまでも彼のせいにしていいのかはわからなかったが、影響はあるだろう。
 などと考えながら、僕はぼうっと突っ立っていたらしい。急にドアを開けたハーレムに、驚かれてしまった。
「うわっ! ルーザー兄貴……」
 びっくりさせんなよ、と、弟は癖のある髪を掻き揚げながら、決まり悪げに言う。
「ああ、ごめん。ワインでも一緒にどうかと思ってね」
「ワイン……?」
「いいだろう? 君未成年のくせに、うわばみだって評判じゃないか。僕だって、一人で飲むのは淋しいし」
「ああ、でも――」
「安いカリフォルニアワインさ。でなきゃ君となど飲まないよ。入ってもいいかい?」
 彼は返答に迷っているようだった。警戒しているのか。無理もない。
「じゃあ、勝手に入らせてもらうよ」
「お……おい」
 僕はハーレムが止める間もなく、脇をすり抜けて入った。勝手知ったる人の部屋だ。
 黒い床。少し毛足の長い絨毯。紫檀のタンス。黒い鉄柵で花や蝶などの模様をあしらったベッド。白い無地の壁。などと、黒と白を基調にした、必要以上に物のない、相変わらず殺風景な寝室だ。僕はワイングラスを僕の腰よりやや高い食器用の棚の上に置いた。
「このベッド、まだ使ってくれてるんだね」
「まぁ、せっかく貰ったもんだしよ」
 ハーレムは決まり悪げに答えた。いつ捨てようか、考えているんじゃないかとばかり思っていた。何故なら、このベッドには、ハーレムにとってそういい思い出はないはずだから。
「じゃあ、乾杯しよう。――君に似合いの、この安ワインで」
 僕はワインのボトルを掲げた。ハーレムがそれをじっと見ている。その瞳は暗い部屋の中で、ある動物的な警戒心を湛えながら、静かに輝いていた。

後書き
これは裏サイト『No where』用に書いたものの一部です。
ルーザー×ハーレムなんですよね。ずいぶん昔の作品です。着手したのが、2002年だったかな?
少し手直しをして、今回お披露目となりました。未完ですが。
2010.6.6


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