カセットテープB面の歌(未完)

明日があるなんて信じられないさ。
信じられないものを考えることなんてできない。
俺たちにはいつも今日だけ。
今日のことだけ。
負った傷を胸に抱いて、
せめて明日を夢見るふりをする。
馬鹿らしいと言われようと、俺たちにはそれしかなかった。
いつだってそれしかなかった。

 暗い藍の瞳がこちらを睨み返している――それは鏡に映った己の姿だった。
 ライトブルーの右眼と、それよりもう少し色の濃い左眼とは、しかし、電灯のついていない薄暗い背景の中で、同じように暗く沈んでいた。
 こそげた頬、日に焼けた肌、細く高い鼻梁、厚みのある肉感的な唇――肩まである、長めの豪奢な髪は、百獣の王と呼ばれる肉食獣を思い起こさせる。日ごと年ごとに昏さを増して来た顔。同時に鋭さと精悍さをも増してきていた。
 それが、今年15になったハーレムの素描である。
 手足はすらりと長く、しなやかな体は、文武の武を得意とし、鍛えてあるわりには、細身だった。とはいえ、同学年の男達から見れば体格はいい。まだ成長期を迎えたばかりで、これからどんどん逞しくなるであろう。そんな予感を感じさせた。
 だが…今の彼に、成長期の少年の持つ、伸びやかさはなかった。彼の瞳は、復讐を考えているのか、周りに敵意を感じているのか、物騒な光を湛えて燃えていた。もともと、会った人間に何がしかの強い印象を与える彼の瞳である。今、彼を支配しているのは、身ぬちを焦がすほどの強烈な怒りだった。彼は、たとえば、不当に傷つけられ、追い詰められ、警戒心を逞しくした獣に似ていた。
 だが、その怒りは一見静かなものだったので、よくよく彼を注意して見ている者でないと、うっかり見逃してしまう所だったろう。もし、サービスがここにいたら、相手に気付かれないようにか、或いはなんのかんのと理由をつけて、とにかくこの場を速やかに立ち去ったことだろう。彼をよく知る者ならば、こういう時の彼のそばに、近寄りたいとも思わない。彼は、本気で怒っていた。
 タオルをかけた肩には、水滴を含んで重くなった髪が垂れていた。今までシャワーを浴びていたのだ。いつもより念入りに体の隅々まで洗い清めた。あの男の痕跡を、残さないために。昨夜、相手にいいようにされた体を、綺麗に生まれ変わらせるためだったら、ハーレムはどんなことでもしただろう。相手を殺すことでさえも。ハーレムはそれに一縷の望みをかける、狂おしい熱情に捉えられていた。
(むだだよ)
 鼻にかかった声が、降ってわいたような気がした。何よりも憎い、弟のよりは短めの、蜂蜜色の髪が目端をかすめる。
(そんなことをしても、おまえは元の体には戻らない。もう、何も知らなかった頃には戻れないんだよ)
「うるさい! 黙れ!」
 ハーレムは突き上げる衝動に抑えがきかなくなって、鏡に拳を叩きつけた。憎い相手の面影はすっと消え、鏡には大きなひびが入った。我に返り、呆然としたハーレムの表情が、ひび割れた鏡の表面に映る。
 また兄に怒られるだろうか――なに、かまいやしない。少々うるさいのを我慢すればいいだけだ。それにしても、わずらわしいことだと、ハーレムは微かに眉を顰めた。
 もっとも、怒るのは長兄のマジックだけで、次兄のルーザーは、決して怒らないだろう。もしかしたら、マジックをたしなめる方にすら、回るかもしれない。…ルーザーはそんな男だった。
 では、ハーレムがどちらを慕っているかというと、これは、断然マジックの方だった。マジックは、悪いことをしたら怒りはするが、それは愛あっての行動だと、ちゃんと伝わっているからである。ハーレムは、そういう所には敏感だった。彼は、そんなマジックのことを多少は苦手としながらも、頼りにしていたし、好きでもあった。
 だが、その一方で、マジックは青の一族の長、ガンマ団の総帥でもある。自分の力を己が頼りとしているハーレムにとって、マジックは、必ず打ち倒さねばならぬ宿命の敵みたいなものだった。ハーレムは、マジックに対しては、複雑な思いを抱いていたが、今は、それでもよかった。ハーレムは、成長期の入り口にようやくさしかかったばかりだし、いつか直接ぶつかり合うことになろうとも、まだ数年の猶予がある。
 彼の今の当面の敵は――
 次兄ルーザーである。マジックほどではないが、長身で、物腰が優しく、いつも笑顔を絶やさない。そのせいか、サービスはころりと騙されてしまった。ゆうに優しい外見をしたこの兄が、気に入った者にだけ優しくし、そうでない者には、仮面をかなぐり捨てて、凶暴な振る舞いに出る――というのなら、まだ話はわかるのである。ルーザーは、普段はハーレムにも優しい。優し過ぎるくらい優しい。だが、その優しさには、一番大切な何かが欠けている、とハーレムは思う。
 ハーレムが、彼を許せないと思うのには、もうひとつ訳があった。それは――
 身じまいを終えて、ハーレムは大股で部屋に戻ってくる。寝室は、ハーレムの与えられた部屋の中で、一番狭い部屋だった。その中央のベッドは、寝乱れたままになっている。
 怒りをぶつけるべき相手は、下に降りていったか、自分の部屋に戻ったか、それともすでに勤務先である研究所へ出かけていったのか――いなくなっていた。
 今までも軽く顰められていた彼の眉間の皺は、ますます深くなっていった。どうしても、昨夜のことが思い出されるのである。あの時も、淡い金の髪の悪魔は恐ろしいくらいに優しかった。だが、泣いても叫んでも、いくら体を引き剥がそうとしても、途中でやめることはなかった。

(あいつ…)
 ハーレムの目は瞋恚に燃えた。唇を軽く噛み、シーツの端をつかんで引き上げ、目は中空を見据えていた。
 このまま何事もなかったかのように、ベッドを整えるなんて、とんでもなかった。昨夜の痕が、もっとも染み付いているものである。あとで、母親のようにこまごまとした家事を担当するルーザーが洗うのかもしれない。だが、ハーレムは、自分のものは、あの兄には何ひとつ、さわらせたくなかった。自分が洗うことも考えていない。できることなら、シーツも、掛布も、今すぐ焼き捨てたかった。
 ハーレムはそうした。
 シーツと掛布をダスターシュートに放り込んだ。ついでに昨日着ていた服も。
 できればベッドもそうしたかったが、きりがないので、後でマットを洗うことにして、やめておいた。いくら金があるとはいえ、理由もなくベッドを買ってくれとは言えない。そういうときには、まず一度、マジックを通さなくてはならない。自分の金で買うとしたって、まず真っ先に、マジックに理由を問いただされるだろう。サービスだって怪しむ。ハーレムは、この二人には絶対に真実を明かしたくなかった。
 それに、本当にきりもなかった。こんなことがこれっきりだという保証はどこにもない。相手の行動は、予測不可能なのだから。 
(気付いたら、兄貴が驚くかもしれんな)
 掛布と敷布がダスターシュートに放り込まれていたら…。
 幼い頃、おねしょをした時、それを隠そうとして、ダスターシュートに放り込んだのだった。けっきょく、シーツと掛け布団はどこに行ったのだ、ということになって、ばれたのだけれど…まだサービスと一緒の部屋に寝ていた頃の話だ。
 しかし、最近は、これまでに、何度もシーツを捨てても、注意さえされたことがなかった。昔より、隠すのが上手くなったということなのだろうか。それとも――
(あの兄貴のことだ。もしかしたら、どこかで気付いているかもしれない…)
 ハーレムは首を振り、その懸念を頭の外に追いやった。マジックが気付いていたら、ルーザーに何も言わないはずはないし、それより何より、ハーレムをこのまま放っておくわけがない。
(俺の考え過ぎか…)
 新しいシーツと掛布を買っておいてよかった。しかし、この調子では一月ともたないだろう。あの男が彼の所に来る間隔は、前よりも短くなっている。
 それとも、相手が自分の部屋に連れ込むか。どっちにしたって屈辱であることは変わらなかった。
 飾り気のないシーツ、薄い白の掛布、ふわりとかけてからわざと寝乱れたようにしつらえる。万が一、マジックがベッドメイキング(マジックはベッドメイキングが好きなのだ)に来たときも誤魔化せるし、それより何より、ハーレム自身が、何事もなかったかのようにしてしまいたかったのだ。
 こんな小細工をしてまで忘れたがっている自分に腹が立った。
 どろどろした黒い奔流が胸の内で渦巻くような、何ともいえない気持ちを胸にその作業を黙々と進める。途中、赤い残像が目の前をちらつくようだった。吐き気がした。


「おい、ルーザー! いねぇのか!」
 大声で粗暴に呼ばわりながら、ハーレムは二階の食堂に来る。彼らの食堂は二階にあるのだ。正式な晩餐は一階の大広間に集まるが、普段の食事や軽い朝食などは、こちらでとることが多い。来客も、気のおけない友人なら、こちらに呼ぶこともある。
 金持ちであるガンマ団総帥の邸であるから、食堂にもそれなりの広さがある。たった四人の家族――サービスは寮に行ってしまったので三人になったが――が使うには、いかにもだだっ広過ぎる、無駄だとハーレムは思っている。
 ハーレムが呼んだ相手は、どこにもいなかった。テーブルと並んでいる四脚の椅子が、大きな窓からさんさんと降り注ぐ日光を受けている。
「ちっ…」
 ハーレムは淡い失望とほっとした気持ちがないまぜになりながら、舌打ちをする。
 ルーザーに会ったらああも言ってやろう、こうも言ってやろうといろいろ考えていた反面、実はあまり会いたくもなかった。会えば昨日のことが思い出されて、何を言ったらいいかわからなくなるだろう。そういう時、気まずさを覚えるのは、いつも、ルーザーではなく、ハーレムの方だった。口で言えなきゃ、拳でわからせてやろうと、しゃにむにつっかかっていったこともある。避けなかったルーザーは、弟の直撃をもろに受け、怪我をした。その後、やり返すでもなく、殴られた頬を抑えながら、ただ呆然とハーレムの方を見ていた。かっとしたハーレムは、再び殴りかかろうとし、研究所の他の職員達にに取り押さえられた。
(やめてください! やめてください! ハーレム様!)
(離せ! 離せーっ!)
 マジックからは説教され、サービスや高松たちには責められ、詰られた。けれど、ハーレムは終始無言で、真実だけは絶対に明かすことがなかった。明かすわけにはいかなかった。自分のプライドを守るために。そして、噂が広まったのである。
 そんなものには、慣れっこだった。一方的に加害者扱いされる、ということには。そして、彼にとっては、まだその方がよかった。
 しかし、許せなかったのは、殴られた時のルーザーの顔である。それは、どうしても理解しがたい、という表情だった。(なぜこんなことをする)そう言いたげに、ハーレムを見つめ返していた。
(へっ。偽善者野郎。被害者面しやがって。そのキレイキレイなお面で、どのぐらいの人間を騙すつもりだ? サービスも、高松も、マジック兄貴だって、みんな兄貴に騙されている。俺は…許さねぇ)
 許さない。絶対に。
 ハーレムはその時、ルーザーへの敵意を新たにした。
(ハーレムったらひどいよ。ルーザー兄さんは何も悪いことしてないのに)
(面白くないからってルーザー様に殴りかかることないでしょう! あなた! あんな綺麗なお顔に傷でも残ったらどうするつもりなんですか!)
 脳裏に浮かんできた、口々に叫ぶサービスと高松。
(わかりっこないさ。お前らには。俺が口を閉ざしている理由など。ルーザーの――あいつのやってることを知ったら、お前らはどんな反応を見せるだろうな。ったく、俺が当事者じゃなかったら、大声でふれ回りたいぐらいの気分だぜ)
(悪いのは本当のことを言わない俺か、それとも俺を怒らせたルーザーか…)
 ハーレムは目を閉じる。何もかも、腹立たしいことばっかりだ。
 テーブルの上には、ラップをかけた朝ご飯が並んでいた。ジュースを入れたガラスの水差しが傍らに添えてある。

(誰が置いていったのか…)
 マジック? それともルーザー?
 マジックではないかもしれない。彼はいろいろと忙しい身だ。ルーザーも忙しいのに変わりはないが、マジックよりは時間的に余裕がある。
 ハーレムは考えた。物思いからよみがえり、目の前に食物を出されると、急速に空腹が意識されてしまう。
「くそっ!」
 ハーレムは荒々しくパンをとる。悔しいが空腹には勝てない。
 一瞬、ルーザーの作った朝食だったら食べないでおこうとも思ったが、ハンストなどをしたって仕方ないと思い直した。彼には、どんなことがあっても、たとえ我が身に何が起ころうと、食欲が衰えるということは一度もなかった。それは彼が、戦うために、比喩的な意味でなく、本当に戦うために、そして、他の存在をむさぼり食うために、いずれは――もしかしたら今でさえ――強者として、男として戦いのリングに立つために生まれてきた証立てに他ならなかったかもしれなかった。
 ルーザー本人がこの場にいないのも幸いした。ハーレムは食物に怒りをぶつけるようにむさぼり食った。悔しいが、本当に旨かった。
 短い食事を終えてハーレムは立ち上がる。
(ルーザーはまだ自分の部屋にでもいるのだろうか)
 それとも、もう研究所に向かっているか――今は午前九時半。微妙なところだ。早い日だったら、とっくに研究所につめているかもしれない。だが、自分からわざわざ部屋に行って確かめる気にはなれなかった。そうそう顔を見る気にもなれない。
 怒りが収まったわけではない。むしろ、飛んでいって一発殴ってやりたい気分だった。だが、殴ったところでどうなるというのだ。悔しい気分がエスカレートしていくだけで、かえって自分がみじめになるような心地がするだけだ。何もかも、タイミングを逸してしまった。今更殴った所で仕方がない。彼には珍しい、諦めと後悔の気持ちが、ひたひたと彼に押し寄せる。
(もう遅い)
 一人になりたかった。今だって、誰も来ないのだから、一人には違いないのだが、それより、もっと一人になれる場所。
 誰も来る気づかいのない場所。
 走り出し、バンと勢いよく扉を開ける。
 廊下を抜け、玄関を出、ヘルメットもかぶらずに愛用のバイクに飛び乗る。
 空が青い。九月の、穏やかになりかけた晩夏の暑さだ。太陽はやたらと眩しくきらきらと輝いている。背景が、アスファルトの灰色が、街道沿いの緑が、流れていく。周りの人々が彼の気持ちなど知らぬげに歩いているのが、泣きたいぐらいに腹立たしかった。信号待ちの時に、込み上げてきた喉の詰まりを、ぐっと抑えた。彼は今自分が泣きたいのを見抜かれたら、その相手に対して怒り、目も当てられない程暴れまくったであろう。でも、そうなのだった。
 彼にとっては、全てが遠い。今日の予定も、人々も、周りの景色も、青い空も、行かなければいけない学校も、これからどうするのかも――明日のことも。全世界が、まったく彼から切り離されていた。人が、何を考えていようが、かまったことではなかった。ただ、今の彼には、自分の思いだけ。そして、あの頃から何度でも繰り返し夢に見るおぞましい記憶と、昨日新たにつけられた新たな傷のことだけ。
「………」
 信号が青になった。車が一斉に走り出す。ハーレムもバイクを駆った。
 学校には、行かない。行くつもりはない。規則づめで、管理体制の整ったおかたい、綺麗で清潔な、どこも暗い所のない、士官学校は、肌には合わなかった。それに、行けば、あいつと会ってしまうだろう。どんなに抗っても、目があいつを探すだろう。こんな気持ちで会うのは――耐えられない。
 こんな時が、何度もあった気がする。それはただのデジャ・ヴか、実際にあったことか、それすらもハーレム自身には判断がつかない。だが、どうでもいいことだった。
 彼が向かったのは、学校とは反対側の方だった。大通りから細い道に入り、やがて森の中の舗装のされてない道路に行き――
 ハーレムのバイクは、一軒の家の前で止まった。
 大きな、いかめしい外観をしたその家は、屋敷といっても通用しそうだった。しかし、住む者もなく、かなり長い年月にさらされ、荒廃しているようなのは、傍目にも明らかだった。白い壁はぼろぼろで、周りにはツタが生えている。土台はしっかりしているので、今すぐにでも崩れ落ちそうということはなかったが。
 ハーレムはバイクを降り、家の中に入っていった。
 一歩入ると、ひんやりした空気と薄暗さが彼を出迎えてくれた。大広間と思しきホールから、直接伸びた階段の踊り場にひとつある、さして大きくもない窓から白い明るい光が洩れていなかったら、夜と間違えそうなほどだ。天井は高く、異様に広い。床には大きなひび割れがある。
 肖像画のように、身なりのいい家族の幽霊が出るとも、綺麗な女の幽霊が出るとも言われ、ハーレムの他には、あまり近づくものもない屋敷だ。ここに足を踏み入れるのはせいぜいが、人目を忍ぶカップルか、森の中で道に迷い、さらに雨に降られ、いやいやながら雨宿りをしに来た人間か、好奇心の旺盛な、肝試しに来た子供たちか――というところだった。しかし、それもここ何ヶ月かは、そういった訪問者の気配は全くない。
 この廃屋は、ハーレムの隠れ家だった。他に誰が認めたわけでもないが、本人がそう決めれば、それで充分だろう。
 この家は、しばらくは取り壊される予定もないらしい。いるのかどうかさえ、近隣の住民にもわからぬ、この敷地の所有者は、どういうつもりでこの家をそのままにしてあるのか、彼には預かり知らぬところであったがしかし、ありがたいことではあった。ここは、彼の気に入りの場所のひとつであったのだから。
 ハーレムは下を向いたまま、周りには見向きもせず、真っ直ぐにホールを突っ切り、階段を上がっていった。廊下にあるひとつの扉を開ける。
 ふいに――
 辺りの明るさが変わった。ハーレムは思わず目をすがめる。
 開け放たれた、大きな窓から、光が溢れていた。窓は張り出されたテラスにつながっていて、その向こうには青い海が見える。この窓の方向には木がほとんどなく、開けた見晴らしのいい場所になっている。その先は、海につながるゆるやかな崖だった。
 ハーレムには屋敷の中でも、ここが一番気に入っていた。何かあるとすぐここに来る。
 ハーレムは脚を折り曲げ、冷たい床の上に、窓と平行になるように座り、膝の上に肘をつけ、組んだ手の上に顎を乗せる。その目は、もとは白かったはずの、細かいひびの入った壁を睨み据えていた。特にそちらの方に何があるというわけではない。ただ、彼は、一心に何かを見ていた。彼のもてる全ての怒りと苛立ちでもって。それは、蜂蜜色の髪の幻影であったのかもしれないし、昨夜の――か、あるいは他の幾多の夜の――全ての抵抗を封じられ、泣くしかなかった己自身の姿であったかもしれなかった。
「大切な物があったら、君、それに対してどんな行動をとる?」
「え?」
 ハーレムは、不意に思いもよらない質問をしてきた次兄のルーザーの方を見、それからそっぽを向いた。
「そんなこと…知らねぇよ」
「そう?」
 ルーザーは小鳥のように、ちょっと小首をかしげる。
「僕なら、大切な物なら、手元に置くな。手元に置いて、抱きしめて、一日中「愛してるよ」ってささやいて。ずっとずっと――離さない」
「言ってて恥ずかしくねぇか?」
 ハーレムがせせら笑うように言った。
「それに、窮屈な話だ。あんた――相手にそうされたくはないって言われたらいったいどうするつもりなんだよ」
「そのときはそのとき――きっぱり諦めるよ」
「嘘をつけ。てめえは独占欲の強いタイプだよ。どんなに相手が嫌がったって、いや、そうされればされるほど、てめえの所に結びつけておきたがるのさ」
「どうして?」
 ルーザ-が生真面目そうな様子で、また首をかしげた。
「僕は彼らの自由を認めるよ。彼らだって、僕の自由を認めてる。こっちがいくら好きでも、相手がどうしても嫌いだっていうなら、仕方がない。僕はその相手を放すよ。もっとも、僕を嫌う人なんて、そうそうはいないがね」
(またそれだ)
 ハーレムはうんざりしたように眉を寄せた。
(誰もかれもが、てめえを好きなはずだと、思ってやがるのか?)スマートで長身の、均整のとれた体格。日にやけていないうすい肌。うなじからすっきりと揃えられて刈り上げられた金色の髪。前髪は真ん中で分けられ、白い顔をふちどっている。蒼い、綺麗だが、どこか得体の知れないところを潜めている冷たい双眼。知的で清潔な感じの漂う白皙の美貌は、弟サービスに幾分感じが似ていた。しかし、顔立ちは弟と違い、女性的なところはない。ハーレムですら、黙っていれば、天使のように見えないこともない、と思っていた。あの沈着冷静をもって任じている高松ですら、ルーザーに対してだけは、理性を失う。
 この外見で、騙される馬鹿はずいぶんいるだろう――とハーレムは思った。
「みんな、てめえの正体を知らないのさ。てめえの正体知ったら、みんな逃げ出すさ」
「でも、僕が本当に大切だと思った人は、みんな僕のもとに、残ったよ」
「はん。そいつらだって、おまえのこと、どれぐらい知ってるか、疑わしいもんだがね」
 サービスも高松も、性格も、ちょっと見には優しそうに見えるルーザーの、この綺麗な外面に惚れたのだと、ハーレムは思った。妙に世間知らずなところのあるサービスはともかく、高松までこの男に騙されてしまったのには、ハーレムは驚いた。決して好きな男ではないが、高松の洞察力、人物把握の的確さには、舌を巻いていたからである。
「君はなぜ僕の言うことに対していちいちつっかかるかな。君が反抗的なのは、昨日今日に限った話じゃないけれど」
「さあね。その優秀な頭で考えてみろよ」
 ハーレムは思い切り皮肉をぶつけてやった。
「それは、研究に値する命題だね」
 ルーザーはちょっと眉を上げた。それから、おかしくてたまらないというように、くすくす笑った。
「君は、本当に素直でないね。――ねぇ、僕のことは嫌いかい?」
「大嫌いだ」
「君が僕を嫌いでつっかかるのはまだわかるよ。でも、本当は大切に思っている相手に、好意を伝えられない、それどころか、僕に対してと同じようにつっかかるってのは――ねぇ、僕は知ってるんだよ。サービスのこと」
「………」
「君には、素直でないくせに、妙に見え透いたところがあるよね。それでも、サービス相手には通じないことだけれど。はっきり言うよ。サービスは、君よりは僕の方が好きだと思う。何でだかわかる?」
「知らん」
 知りたくもない。
「僕がサービスを受け入れ、わかってあげているからだよ」
(よく言うよ)
 多少誇らしげなルーザーに、ハーレムの反応は冷ややかだった。
(あれは、甘やかすって言うんじゃないのかい)
 結局、サービスは、甘やかしてくれる人なら誰だっていいのだと、ハーレムは思った。相手がどんなやつであれ――。
 だが、ハーレムが、サービスを甘やかす存在ではない、サービスが思い切り甘えられるような年長者ではないというのは、確かに彼自身にとって、痛いところをつく事実だった。自分はサービスの双子の兄だ。年の離れた兄ではない。マジックや目の前にいるルーザーとは違う。
(俺に、どうしろというんだ)
 ハーレムはハーレムで、こうでしかあれなかったというのに――。
 彼がどんなことを言ったって、よしんば、マジックのよくやるような、鷹揚な態度に出たって、サービスは鼻で笑うだけだろう。
 だから、反発するしかなかった。双子の弟に対する心配も、兄らしい気遣いも、全て押し隠して。
「…話というのは、それだけか?」
 ハーレムは、わざとわからないふりをした。実は、ずっと前から、ルーザーの話がどこに落ち着くか、だいたい見当はついていたのである。
「ハーレム、君、サービスと喧嘩したんだって?」
 案の定、ルーザーが切り出した。
「それが、どうした」
 ハーレムの声が、唸り声のように低くなる。
「いや、ただ、あんまりつっかかってばかりいると、そのうちサービスに見限られてしまうよ」
「………」
 ハーレムは何も反論しなかった。確かに、喧嘩をしかけていったのは彼の方だったからだ。
 ハーレムとサービスは、この間――というのは、夏休み中のできごとである――大喧嘩をした。サービスのクラスメート、ジャンのことについての口論が、いつの間にか喧嘩にまで発展していったのである。カッとしたハーレムが手をあげたとき、マジックが割り込んだ。
(やめろ。二人とも。ハーレム。恥ずかしくないのか。おまえは少し頭を冷やしてこい)
 ハーレムは外に放り出された。だが彼は知らんぷりをして、バイクで遠出に出かけてしまった。
 間もなく夏休みが終わり、サービスは寮へ帰っていってしまった。それ以来――それ以前にも多少はそうなってはいたけれど――二人の間柄はぎくしゃくしたままである。ついでに言うと、口論のきっかけを作ったのも、ハーレムの方であった。
「今更そんなこと持ち出して――何か言うことあんの?」
「ああ」
 ルーザーは頷いた。
「ハーレム。君、サービスと仲直りしないかい?」
「………」
「サービスも、君が謝れば、きっと許してくれるよ」
「………」
 確かに、表面上は許してはくれるだろう。いかにも仕方なさそうに。だが、そうされるのは、ハーレムのプライドが許さないのであった。
「うるせぇな。おまえは関係ねぇんなんだから、ほっといてくれよ」
「そうはいかないよ。だって――このままでは絶対まずいと思うからね。兄さんにも迷惑がかかるし、君たちにとってもよくないと思うんだ。ハーレム、君はまだちゃんとサービスに、謝ってないんだろう?」
「………」
 何が、どうよくないというのだろう。よくないことなんて、何もない。長い間の確執が、もつれもつれてこうなっている、というだけだ。いいも悪いもない。どのみちこうなるのは目に見えていた。早いか、遅いかの違いだけだ。
(見てられなくて、おせっかいしにきたってわけかい。何も知らないくせに、何も知らないくせに)
 この物腰穏やかな、何でもわかっている風のこの次兄に反発を感じ、口に出し、手を上げたことすらあった。
 それでも、この兄はめげず、忙しい長兄に代わって、何度も何度もハーレムを注意したり、諌めたり、した。
 ハーレムはその、ルーザーの言葉に真実を感じるということがなくて、どうしても、諾うということはなかったけれども――。
「困ったな。どうすれば聞いてくれるんだい」
「おまえの言うことなんか、聞く気なんかねぇよ。さっさと部屋を出てってくれ」
 ハーレムは、さっきから、訳もなく自分のテリトリーを侵されたようで、居心地の悪さを感じていたのだ。彼はルーザーには、自分の部屋に入ってくる資格を、認めていないのだった。それは故ないことではなく、今までの忌まわしい記憶の数々が、彼にそうさせているのだった。
「帰らないよ。今日は。君と話し合い、君にわかってもらうまで、帰らないからね」
 面倒なことになったと、ハーレムは舌打ちした。言葉の通りに、次兄は、納得するまでてこでも動かないだろうと、ハーレムは経験的に知っていた。
 夜は、まだまだ長かった。

「どうして君は、そう頑固なんだい?」
「さぁな」
 ハーレムは短く言い捨てた。
「ハーレム…」
 ルーザー眉を下げ、ちょっと困った顔をした。
「君がかわいそうだよ。もっと素直になれたら、もっと楽になれるのにね」
「ほっとけよ」
「愛してる者に向かって、『愛してる』の一言も言えないのかい?」
「ケッ」
「サービスだって、かわいそうだと思わないかい? あれは優しい子だ。心の底では、君のことを気遣っているよ。君は、本当にサービスのことを、思っているのかい? 思ってるんだったら、『ごめん』の一言ぐらい、ありそうなものだがね」
「あいつが、そんなしおらしいタマかよ」
 結局、本音はそれか、とハーレムはうんざりしたような気分で思った。マジックもルーザーも、サービスかわいさしかないのだ。別に、驚いたことではない。昔から、そうだった。兄たちに守られ、今まで自分が見てきた諸々の汚いもの、嫌なものを、サービスは見ずに済んでいた。
 更に、それは他人にまで波及するものらしい。サービスの周りには、いつだって、彼をいとおしみ、守ってやりたいと思う人々が集まらないことはなかった。
 小学校、中学校と、ずっとそうだった。高松だって、仕様がないやつと思いながらも何かと世話を焼いているようだし、喧嘩の原因ともなったジャンなどは、正にそうであった。
「ハーレム」
 考え事をしていたら、次兄がいきなり横に移動していたので、ハーレムはびっくりした。ルーザーはつとその手を取った。
「ハーレム…君、寂しいのかい?」
 唐突に言われた。何がなし、ハーレムは心の秘密を見抜かれたようでぎくりとした。
「馬鹿な…」
 ハーレムは笑い飛ばそうとしたが、声が掠れた。と同時に、心の底からゆっくりと、ある嫌な予感が頭を擡げてくる。
(これは…ヤバい)
(早くここから逃げないと…)
 頭の中に警告が響く。今まで懸命に封じ込めようとしていた幾多の夜の記憶が、不意に水底から顔を出したように、ぽかりと浮かび上がってくる。ハーレムは、この男を部屋に入れたことを、死ぬほど後悔した。
「今、君の顔が、ちょっと寂しそうに見えたから…。大丈夫かい? 僕の気のせいだといいんだけど」
「あ…ああ」
「聞いたことがあるよ。『寂しい人間は素直になれない』って。もしかしたら、君もそうかい」
「いや…」
 ハーレムは首を振って、ルーザーの手を振りほどいた。

後書き
高校生の時に書いた未完の小説です。
まさか出てくるとは思わなかった……。
言うまでもなくルーハレです。以前だったら裏サイトに載せてたかもですが。
文体が栗本薫先生(ご冥福をお祈りします)に似せていますが、よくこんな長いセンテンスが書けたもんだ(笑)。今の私よりは上手かもしれない(それじゃあかんだろ)。
掲載日 2009.12.23

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