ナディアの悩み 2

 イアンとジェルミはナディアの妹マージョリーと一緒に、ハンブルグのナディアの家に来た。正確にはヨルクとナディアとその娘の家である。
「ヨルク! イアン達を連れてきたわよ」
「ああ、その辺に座ってくれ」
「もう、ヨルクったらいつもそれなんだから」
 ナディアが仕方なさそうに呟く。イアンとジェルミがコートを外套掛けに掛ける。ジェルミがマージョリーのコートを受け取って片づける。
「ヨルク、君達の娘に会わせてくれないか」
「ああ、今寝てるよ」
「ね、ねぇ、イアン、あの――『あなたの子供が産みたかった』と言うの、娘には内緒にしてくれる?」
「ああ、いいけど――君の娘まだ赤ん坊だろ?」
「すぐに成長すると思うわ。……というか、早く成長して欲しいわ」
「あ、ミリアムが泣いている」
 ヨルクが耳聡く聞きつけた。
「ナディアは休んでてくれ。ぼくがやるから。――子供って大変なんだね。君がいなくなって初めてわかったよ」
「まぁ……ヨルク……」
 ナディアが嬉しそうな顔をする。理解してくれたの、と言いたげな表情である。うっすらと頬に朱が散って。
「良かったじゃないか。ナディア」
 と、イアン。
「ナディア、あの、ぼくも手伝いましょうか?」
 ジェルミは元々は親切で優しい性格なのだ。
「ありがとう。ジェルミ。でも、ヨルクに任せておきましょ。あなた達はゲストなんだから」
「ミリアムはミルクが欲しいらしい。ちょっと準備して行く」
 ヨルクが粉ミルクを出す。温度は人肌。
「留守番ありがとう、ヨルク」
「いやいや、何々。君達家族と一緒に過ごすことができるならばこんな苦労なんて――」
「あなた……本当はいい人だったのね。ヨルク」
「何を言う、ナディア」
 ヨルクとナディアは二人の世界を作る。
「邪魔しないであげましょ」
 マージョリーが小声でイアンとジェルミに囁く。それすらもミリアムの大声に掻き消されるのであるが――。
「もうっ、ミリアムったら……」
 いいところを邪魔されてナディアはちょっと苛立たし気な声を上げた。ヨルクがミルクを持って娘の元に駆けて行った。
「赤ん坊は泣くのが仕事だもんねぇ」
 マージョリーがもっともな台詞を言う。
「ミリアムを怒らないでやってね。ナディア」
「わかってるわ」
「ナディア……ちょっと思いつめてないかい?」
「ええ――……ごめんなさいね。イアン……これでも一時期よりは楽になったのよ」
 ナディアが頭を抱えた。
「皆、君の味方だよ」
「いいえ――ママは……わたしが子供を叩いた話をしたら、『ベビーが可哀想だ』と言って……わたしが覚えていないことまで責め立てて……」
「君はきっといいママなんだろうね」
 イアンの台詞にナディアがふわふわの金髪の間から彼を見据える。
「何、それ、皮肉?」
「いや――」
「ぼくはナディアの世話になってました」
 ジェルミが間に割って入った。
「あの、オルガンを聴いた時から――ぼくはあの……あの時、体の中から腐って行くような感じがしたから……ナディアのオルガンに救われて……」
「ああ、ジェルミ……」
 ナディアはジェルミを抱き締めた。
「わたしが……わたしのオルガンがあなたの慰めになってくれてたなら良かったわ」
「それで、あなたのおかげでぼくは……本当に心の底から――」
「ナディア。今はもうオルガンは弾かないのかい?」
 イアンが訊いた。ナディアが、
「弾いてないわ。パイプオルガンはね。でも、家では弾くの。ヨルクの作曲で」
 と答えた。ナディアはジェルミの肩を優しく叩くと解放する。
「ミリアムも音楽の方に行くの? あたし、応援してあげてもいいけど」
 マージョリーが微笑む。ナディアも気が落ち着いてきたようだった。
「そうね――いつか娘と連弾できたら素晴らしいわね」
 ナディアは夢見る目付きになる。
「でも、ダンサーになるかもしれないわ。ママがそうなったらどんなにいいかって言ってたもの」
 ヨルクとクレアは、ナディアが娘を産むと休戦協定を結んだようだった。けれども将来、ナディアの娘が音楽に行くかダンサーへの道へ行くかで揉めるかもしれないが――。
 イアンが言った。
「いずれロンドンに来てくれ。ナディア。君の演奏が聴きたい」
「ええ、ぼくも――」
「ジェルミはナディアのオルガンのファンだものな」
「ファンだなんて……そんな軽いもんじゃないよ」
「そうか――俺はナディアの本体に夢中だったものな」
「もうっ!」
 イアンがナディアの元カレだったことはジェルミもマージョリーも知っている。それどころか、昔は二人は公認の仲でもあったのだ。
 ヨルクが赤ん坊を伴ってやってきた。
「ミリアムだよ。ほら、ミリアム、ゲップして。それとも自分でできるかい?」
 ヨルクが背中をぽんぽんと叩くとミリアムがゲップをした。
「赤ん坊の扱いに慣れたよ」
「ミリアム? 可愛いね」
 ジェルミが穏やかな表情になる。口元には笑みすら浮かべて。ミリアムはヨルクと同じ茶色の髪だ。ナディアの髪のようにふわふわしている。顔立ちもどこかナディアに似ている。
「あー」と、ナディアの娘が一声上げる。
「まぁ……早速ジェルミにも懐いているわね。ミリアム。良かったわね」
「マンマ、マンマ」
「そうよ。ママはわたしよ」
 ナディアは既に母親の顔になっている。まるで聖母みたいだという人もあるだろう。
「今度は母乳を飲ませてあげるからね」
「ナディア、その時は俺もいていいかい?」
 イアンが冗談っぽく言う。ナディアは「ダメ」と答えた。
 ヨルクやナディアの代わりにイアンとジェルミが紅茶を淹れた。イアンの家にある紅茶と同じだった。
「ねぇ、ナディア。ナディアさっきミリアムを叩く話をしてたけど、ナディアはミリアムを叩くの?」
 マージョリーが質問する。特に他意はなさそうであるが。
「そう――この子が落ちているボタンを食べようとしたから……ボタンを取り戻した後、あの子の頬をはたいて叱ったら泣いちゃって」
「でも、それってミリアムが心配だったからでしょ?」
「ええ、そう――でも、ママには通じなくて。児童虐待なんじゃないかって言われて――」
「ママなんてどうだっていいじゃない! 今はナディアがママなのよ!」
 マージョリーが立ち上がる。
「でも、ぶったのはやり過ぎだったかと――」
「あたし、ナディアは間違ってないと思うわ! そりゃ、感情的になり過ぎるのはあれだけど――。ミリアムだってわかってくれるわよ」
「マージョリー……あなた……」
「――叱るのも愛の形なんだと思います」
 ジェルミも同意を示す。ナディアが涙をぽろりと流した。
「でも、わたし……叱った後、ミリアムがどうしようもなく可愛くなって……どうしてこんなに可愛いんだろうって思って……あの子がボタンを気管に詰まらせなくて良かったって心の底から思えて……」
「わかるよナディア、ミリアムを愛してるんだね。そして皆、君のことも気にかけてくれてる。君を愛してるんだ」
 ヨルクが言った。そして、勿論ぼくもね――そう付け足す。オクタビアンが来て「にゃあん」と鳴いた。
 オクタビアンもミリアムのことが好きらしい。ナディアはあまり近付かせたくないようだったが。オクタビアンはごろごろと喉を鳴らした。

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2018.04.24

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