ナディアの悩み 3

 イアンとジェルミはハンブルグのヨルク達の家で三日間過ごして帰って行った。
 最後の夜はロレンツォとクレアが来た。

「一気に大所帯になったわねぇ」
 ナディアも嬉しそうだった。クレアはヨルクとナディアのベイビーのことをしきりに話していた。
 とても――いい家族に見えた。

 イアン達が帰った晩、ヨルクはロレンツォを晩酌に誘った。
「あの……ロレンツォさん、話があるんですが」
「話ね。いいとも。聞こうじゃないか」
「ロレンツォさん、あなたは信頼の置ける方だと思います」
「そんなことはないと思うよ」
「ここだけの話――ナディアは娘のことで悩んでいるんです。あの……娘に手を上げたと言って」
「そのぐらいで気に病んでちゃ、母親業はやっていけないだろ」
「あの……ナディアは聖母みたいな母親になろうとしているんです」
 ヨルクが眼鏡を拭いた。
「ほう」
「手を上げた件についてはナディアが悪い訳じゃないんですが、いずれ自分が子供をはたくのが日常になってしまわないかと気鬱になってしまって……だから、『一度ロンドンの家に帰ったら?』と言ったんですが」
「それが逆効果だったと?」
「ええ――でも、ナディアは元気になりました。イアン達のおかげです。ナディアはその……虐待ノイローゼ?みたいなものにかかってしまっていて」
「なるほど。あの娘は真面目だからな」
「ロレンツォさん。あなたのことも聞きました」
 ヨルクがかちゃりと眼鏡をかける。
「いい人って訳じゃないけど、どこか人間的魅力のある人だって……言わないでって釘を刺されましたが」
「ほう……嬉しいね」
 ロレンツォにとっても意外なナディアの言葉だった。
「ぼくもそう思います。クレアが夢中になるのもわかるって」
「クレアはいい女さ。ここだけの話、いつかプロポーズしようと思っている」
「それはそれは」
 ヨルクの眼鏡の奥の目が笑みくずれた。
「クレアも喜ぶでしょう。今までクレアはジェルミに頼っていた感じでしたからね。でも、アンタの方がタフそうだ」
 お代わりはいかがでしょうと勧めるヨルクにロレンツォは有り難く頂くことにした。
「でも、女は強いからね。きっとナディアも立ち直るさ」
「だといいんですけどねぇ――」
 がちゃん。
 扉の開く音がした。
「ナディア!」
 ヨルクが叫ぶ。
「あ……あなた……」
「ナディア、どうしてここが?!」
「眠れなくて水を飲みに来たのよ。ロレンツォなんかに話すことないじゃない!」
「ロレンツォさんはいい人だよ。ぼくは人を見る目は確かなんだ」
「もうっ! ヨルク!」
 ナディアはヨルクの胸板を叩いた。
「馬鹿ッ、馬鹿馬鹿ッ!」
 何度も何度も――。
「君の怒りはぼくが受け止めるよ。ロレンツォさんに勝手に話して悪かった」
「誰が虐待ノイローゼよ!」
「そんなとこから聞いてたのかい?」
「聞いてたわよ。でも聞きたくなかったわ! 廊下で動けなくなってしまって――」
「ナディア」
 ロレンツォが二人の話を遮った。
「君、悩んでいるんだったらカウンセリングでも受けたらどうだい?」
「…………」
 ナディアは涙を幾粒も幾粒も流していた。
「わたし……ママみたいになりたくないの」
「あの……クレアは」
 ヨルクが気を回してロレンツォに聞く。
「見てこようか?」
「いえ……それには及びませんが」
「わたし、いい子でいようとしたの。そうすれば愛されるって。でも、ママが一番愛しているのはマージョリーで……」
「君の母親は君がどんなに優しいか知らないんだよ」
 ロレンツォが慰める。
「ママは……わたしを愛してくれていないんだわ。だから、わたしは娘を100パーセント愛そうと決めたのに」
「君は完璧な愛を求め過ぎる」
 ヨルクが声を張った。
「いいじゃないか。叩いたって。話は聞いたが君はミリアムを危険から守ろうとしたんだ」
「ヨル……ク……」
「クレアはバラバラなんだ。そのバラバラに付き合うことはないんだよ」
「そら、君の旦那もそう言ってる」
 ロレンツォが言った。ヨルクが続けた。
「君は考え過ぎるんだ。ぼくは聖母なんか求めちゃいない。ナディア、君を愛してる」
「はは……ママに愛されなかった悪い子のわたしを?」
「ナディア。いつまでも子供ではいられないんだ。いいんだ。ナディア。君はもっとわがままになっても。――確かに浮気とかされたらぼくは悲しいけどね。君はありのままでいいんだ」
 ナディアの中には親に愛されなかった記憶がある。その記憶が彼女の中に沈んでいて彼女を縛っている。
「クレアは、もっとわがまま勝手なナディアでいて欲しかったんじゃないかな。マージョリーのように」
 ロレンツォの指摘ももっともかもしれない。
「いい子の君を見てると、きっとクレアは罪悪感を起こすから――」
「だって、パパとママはいつも喧嘩ばかりしていたのよ。子供の頃、それはわたしのせいだと思ってたの。わたし……わたし……あんな風になりたくない」
 ヨルクがナディアを抱き締めた。ナディアの声は語尾が小さくなった。
「ヨル……ク……ヨル……ク……」
「私は部屋を出ようかね」
 ロレンツォが微笑みながら言う。
「はい。ぼくの方から誘っておいて何ですが」
「ナディア。君はいい夫を持ったね」
 そしてロレンツォが部屋を出る。
「呆れた? ヨルク」
「ううん。君から家族のことは時々聞いてたけど、まさかこれほどとは」
「わたしはママを愛してないのよ。酷い娘でしょう?」
「それは違う」
 ヨルクはナディアの縺れる髪を梳いてやる。
「愛してなければ――こんな風に悩みはしないよ」
「ミリアムもこんなわたしを愛してくれるかしら」
「勿論だとも。君はいい母親だ」
「わたし、ミリアムを愛しているわ。そして――ヨルク、あなたのことも」
「おお、ナディア!」
 ヨルクは妻をぎゅっと抱き締める。
「メロディーが浮かんで来たよ。君はインスピレーションをぼくに与えてくれる。いつも」
 ヨルクは作曲家なのだ。
「けれど、今はこうしていよう。――眠そうだね。君は安心して寝ていていい。いずれ全てがよくなるから」

後書き
『残酷な神が支配する』の二次創作。
ヨルクとナディア、仲良くなって良かったね。ナディア、クレアとも和解して欲しいけど、相性があるからなぁ……。
この作品を書いたのは確か一昨年だったか。ひとつの作品にかぶれると、二次創作書きたくなっちゃうんですよね。
2018.05.04

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