ナディアの悩み 1

「ふー……」
「どうした? ナディア。溜息なんか吐いて」
 イアン・ローランドがナディアに訊く。今、ナディアは子供を夫に預けてロンドンへ骨休めに来ていた。
「ヨルクと喧嘩でもしたのか?」
 ヨルクはナディアの夫である。イアンと別れたナディアはヨルクと結婚して現在子育て中。
「違うわよ。――娘がどうしても言うことをきかなくて……」
「へぇー……そう」
 確かクレアも同じようなこと言ってたな、とイアンは思った。
「娘って大変ね。息子だったらまだ対応の仕方もあるんだけど……」
「息子は息子で大変だぜ」
「ええ、そうね。あなたみたいになったら大変だもの」
 涙を浮かべたまま、ナディアは微笑んだ。
「――どういう意味だ」
「そうね……まぁ、息子には健全な恋愛をして欲しいわ」
「君が悩んでいるのは娘のことだろ?」
「ああ、そう。そうだったわ。あの子ったら私よりヨルクやマージョリーに懐いているのよ。私は母親なのに……母親なのに……」
 今度はしくしく泣き出した。
「ママ、ママの気持ちが今わかったわ。私、ママのようにならないって決めたのに――うるさい母親にならないよう努力してるのに……気が付くと私はいつも娘のお尻をぶってるんだわ」
「ナディア……」
 イアンは思った。ナディアは育児ノイローゼになりかかっているのかな、と。
「――ママも大変だったのね」
「そうだね。きっと君のママも悩んでいたんだ」
「私、あなたの子供を産みたかった……でも、仕様がないのね。今のイアンにはジェルミがいるもの」
 ジェルミか……。このところ彼と結婚しようと何とかアプローチしているのだが、ジェルミはなかなかOKしない。
(ぼくは……イアンを愛している。ただ一緒にいるだけでいいんだ。それだけじゃダメ?)
 実のところイアンもそれだけでいいかと考えているのだが、イアンみたいなハンサムな独り者の責任者に世間の目は厳しい。ルース大おじもジェルミと別れるよう再三言ってきている。イアンには誘惑も多い。
 ――ジェルミを一生愛すると決めてからは他の誰とも寝ていないが。
「ナディア……」
「ジェルミ。今あなたのことを話してたのよ」
「へぇ、どんな?」
「大したことじゃないさ」
 イアンにはジェルミがいるもの――このナディアの台詞はジェルミには訊かれたくない。ナディアの焼きもちもあるだろうが、イアンも何となく照れ臭いのだ。
「紅茶、淹れてやるよ。ナディア、たまには娘のことを忘れてハイ・ティーでもどうだい?」
「まぁ……イアンは紅茶を淹れるのが得意だから楽しみにしてるわ。ね、ジェルミ」
「うん……」
 イアンは料理も割合得意な方だ。ジェルミも近頃ようやっと料理らしきものが作れるようになった。先生はマージョリーである。
「ああ、ジェルミ、もっと火力下げて! ああ! お湯が沸騰したわ! 卵焦げそう!」
 ジェルミとマージョリーの料理はそれはそれはてんやわんやだった。二人の初めての共同制作はそれはそれは食えたもんじゃなかった。けれど、マージョリーの方が料理は上手い。すぐにすいすいとコツを覚えて行った。
(マージョリーはいい母親になれそうだな)
 不思議な感じがするが、自殺マニアだったマージョリーの方が姉のナディアより大人のような気がする。いろいろ辛酸を舐めてきたせいだろうか。
 ――そのマージョリーがやって来た。
「ジェルミー、イアーン、ナディアー!」
 マージョリーが元気な声でジェルミ達を呼ぶ。
「あ、マージョリー……」
 ナディアが眠そうな声を上げる。
「――イアン、少しだけ休ませてくれる? ……この頃よく眠れてないの」
「このソファで良かったらどうぞ」
「ナディア、大丈夫?」と、マージョリーが訊く。
「大丈夫よ……ヨルクがいるもの」
「ナディア、お話してあげよっか。私も子供の頃ジェルミにお話してもらったらすぐに眠れたわよ」
「私は子供じゃないんだから……静かにして」
「いいじゃないか。童心に帰っても。なぁ」
 イアンがマージョリーに頷きかける。
「じゃあね……森のくまさんが美女に婚約する話をしてあげる」
「やめてってば」
「マージョリー……君、好きなお話のタイプが変わったね」
 ジェルミが言った。ジェルミはきっとイアンの知らないマージョリーの貌を知っているのだろう。
「えへへ。そう? だとしたらジェルミのおかげよ。イアン!」
 マージョリーがびしっと指を突き付けた。
「浮気なんかしたら許さないからね!」
「浮気なんてしてるヒマないよ。マージョリー」
 イアンは腕を組んだままあらぬ方を眺める。今のイアンにはジェルミ以外目に入らない。誰かに誘われても逃げ帰ってしまう。
(このまま、独身主義を貫くのもいいな。このところ両刀の仲間も増えて来たし)
 不思議と、ゲイやバイの男達はイアンを仲間扱いしたがる。けれど、残るのはステディのいる男だけだ。
(俺は一生ジェルミだけを愛することになるんだろうか……)
 それもまたいいか、と心が和みかけると――。
「イアン、イアン!」
「わっ」
 イアンがはっと我に返る。
「あっ、何だ……マージョリー」
「もう、イアンったらさっき心ここにあらずって感じだったわよ。少しの間だったけど」
「――ごめん」
「何考えてたの? あ、おかしいとかそういう意味じゃなくて、イアン、考え事してたんだよね。ジェルミのことでしょ? 当たり?」
 マージョリーが言う。図星だったのでイアンは黙ってしまった。
「いいわ。でも、火を使う時などは注意した方がいいわよ」
「仰せの通りです。お姫様」
「ああ、ダメ。こんなうるさいとこいられないわ」
「どうしたのよ。ナディア」
「帰るの」
「いつからそんなにわがままになったの? ナディア、今からハンブルグに帰るの?」
 ほんと、マージョリーの方が大人みたいだな――イアンは思う。ナディアが部屋を出て行こうとする。
「ナディア。ぼく達もあなたの娘に会いたいな」
 ジェルミが言う。ナディアが足を止めた。
「そうだな――ナディア、せっかく来たんだ。帰る時は一緒に俺達を君の家に連れてってくれないか。でも、まずはお茶の時間としゃれ込もうじゃないか」
「イアン……うっ……」
 ナディアは手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「ナディア?」
「イアン、あなたも私から娘を取り上げる? ジェルミも?」
「いいや。そんなことはないけれど――」
「わかってるわ。皆、私から娘を奪い取るのね! どうせ私は母親失格よ!」
 君の家に行きたい。そう言っただけでこうも過剰に反応するとは。ナディアはやはり育児ノイローゼなんじゃないだろうか。
「よし、よし――」
 何と、マージョリーが子供に対するようにナディアを慰めている。あんなに子供だったマージョリーが。俺も年食う訳だ、とイアンは時の流れに想いを馳せた。
「ごめんなさい、イアン、マージョリー、ジェルミ……あたしったら、皆の好意を無にするようなことばかり……」
「よし、よし、大丈夫よ、ナディア。ヨルクもナディアの味方だからね。皆、ナディアの味方だから。一旦あたしと一緒にママ達の家で落ち着こ。ね、ジェルミ。そういう訳だからまた今度」
「うん。楽しみにしてる」
 そう言いながらもジェルミは少しがっかりしているようだった。ナディアが落ち着いたらジェルミやマージョリーと共にヨルクとナディアとその娘の住む新居へ連れて行ってもらおう。
 夜、クレアが子育てに対して文句ばかり述べ立てるとナディアは電話で泣いていた。けれど、イアンはこんなナディアも愛しいと思う。ジェルミに対するのとは違う意味で。
 マージョリーも、「なんだかんだ言っても今のナディアの方が好きだわ、あたし、自分の感情に正直なナディア嫌いじゃないの。何か放っとけなくて。それに、昔はあたしの方がわがままだったんだから」と言っていた。
 ナディアは皆に愛されている。

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2018.04.14

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