ニールの明日

第四十八話

土埃の立つ道を子供達が走っている。洗濯物をする主婦。賽を振って賭けに興じている男達。売り物の林檎を差し出す老婆。
貧しくとも、確かにここには人間の生活が、人間というものの存在が息づいていた。
しかし、ニールは別のことで感心していた。
(ここは治安がいい)
王留美を囲むようにグレンとダシルと紅龍が歩いている。だが、そんな気遣いも必要ないほど、街の人々は彼らを構わなかった。
些か拍子抜けであったのは事実だが。
(まあ、いいことさ)
とニールは思った。スラムだと感じたのは失礼に当たることかもしれない。
しかし、ライルはどこに連れて行こうというのだろう。
ライルは人の波を危なげなく避けたりしながらふらふらと進んで行く。羊がめぇー、と鳴いた。
「おい、ライル」
ニールが小声で呼んで弟の肩をどやした。
「本当にここに……」
ニールが言いかけると、きゃー、という黄色い声が響いた。若い女達である。
「あの人達、同じ顔!」
「片方が眼帯してなきゃわからないわ!」
眼帯している方は、つまり、ニール。
「麗しいお嬢様方、私達は双子なのです。……失礼」
ライルが言ってしまった後も、女達は赤くなってぼーっと見惚れているようだった。アラビアのロレンスを思わす白い人を。
「『麗しいお嬢様方』ねぇ……いつの間にそんな殺し文句を覚えたんだ?ライル」
ニールがにやにやしながら心安だてに弟を冷やかすと、
「うるさい」
との声が帰ってきた。
「そうだな……おまえは少し黙ってろ、ニール」
刹那にまで注意されては、ニールは黙っているしかなかった。
「それで、ききたいことがあるんだが」
「俺に?」
ライルが己を指差すと、刹那はこくんと頷いた。
「ここには危険の匂いがない。貧しいことは貧しいのだろうが……だいぶ歩いたが俺達につっかかってくる者がいない。普通いるだろう。こんなに目立つ連中だ。襲いかかってくる者の一人や二人」
「確かに」
ライルが得意げに答えた。
刹那も同じこと考えたんだな。ニールはひっそり考えた。
「一応警戒はしていたが、ここには殺気というのがない。こういった街特有の。ここは……グレン達の故郷の村のように安全で……安心できる」
「まあな。ここはクラウスのお膝元だものな」
「クラウスという男は……大した男なんだろうな」
「そりゃあもう。他の街だったら、アンタ達、生きてはいないぜ。そっちのお嬢様もだ」
「わ、私……?」
指を差されて王留美が戸惑ったようだ。グレンが言った。
「王留美の敵は俺達が仕留めるまでだ」
「……そっか。アンタら強いもんな。さっきの台詞は撤回するよ」そう言ってライルは高笑いした。振り向いたニールは悔しそうに歯を食いしばっているグレンを見た。
「おい、ライル。あんまり人をからかうもんじゃない」
ニールはつい口を出した。
「兄さんには言われたくはないね」
「おまえら……やはり兄弟だな」
刹那の指摘にニールとライルのディランディ兄弟は同時に叫んだ。
「俺の方がいい男だ!」
「まあ……」
それを聞いた王留美はくすくす笑った。ダシルも笑った。それが笑いを誘発したらしい。ニール達はあははは……と声高な笑い声を辺りに響かせた。
刹那や紅龍達でさえ微笑んでいた。
「さあ、行こう。ここまで来ればすぐだ」
ライルは駆け出した。
盲目の乞食の男が一人座っている。もう老齢と言っていい。その前でライルは立ち止まり、小銭を古ぼけた空き缶に投げた。
「おありがとうございます」
それから、ライルは男とひそひそ話をした。ニールは不審に思った。男が立ち上がった。「来なされ」
ニール達は一軒の小屋に着いた。見た目は古ぼけているが、中は割と綺麗にしてある。
太った中年の主がやってきた。乞食が言った。
「旦那ぁ、いつもの奴」
彼は缶の中の小銭を差し出した。
「あいよ」
主はそれを受け取るとろうそくを持ってきた。燭台を用意して。
そして、ガタガタと床の蓋を開けた。大人一人が通れるくらいの入り口だ。
(地下室か)
だが、ニールはそんなに驚かなかった。それよりも、こんなに周到にアジトを用意するクラウスとは何者か、ますます興味が出てきた。もしかすると、この街自体がその男のアジトなのかもしれない。
乞食がマッチで火をつけて、ろうそくを燈した。だぼだぼのマントから手を出してニール達を招く仕種をした。
「兄さん」
ライルがニールの手を取って引っ張った。
一人ずつ、地下道へと潜って行く。
「少し歩く」
乞食が言って先導係を務めた。地下道は意外と広い。ろうそくの明かりが道を照らしていく。

2012.11.4


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