ニールの明日

第三百四十四話

「――――?」
 ニールは、はっと目を覚ました。愛する刹那の声が聴こえたようだったからである。
「……どうした、刹那……」
「泣いてる……」
「はぁ? 誰が? ソランだったらぐっすり眠ってるだろ」
 ニールの言う通り、ソランはすっかり夢の中だ。今は人間の子供の姿で、ニールが買って来たパジャマを着ている。
 マリナと紅龍も近いうちに結婚するであろう。今はもう、ニール達は順風満帆だ。
 それなのに、何故、胸騒ぎがするのだろう――。
(杞憂だといいが……)
 けれど、懸念材料はあった。リボンズ・アルマーク。ニール達の前から姿を消した男。不幸の匂いのする男。――リボンズが見つからないうちは、安心は出来ない……。
「――――!」
 今度はニールにもはっきりと聴こえた。赤ん坊の、啜り泣きの声だった。その声は……驚いたことに、ソランでもシャールでもない、リボンズ・アルマークによく似ていた。
(そういえばリボンズって、どんな子供時代を過ごして来たんだろうな――)
(それは俺にもわからない――)
 刹那の脳量子波だ。
(そっか。刹那にもわからないか――)
(ああ。ただ……この声はリボンズに似ている)
 ニールはドキッとした。心臓を素手で捕まれたような不快な感覚を覚える。
 それでは――刹那も聞いたのだ。さっきの声を……。
(あの声のことは秘密にしておきたかったな……)
 でないと、優し過ぎる刹那はリボンズの心配をし始めるであろうから。刹那はクールに見えて、その体内には熱い血が流れている。
 諸悪の根源、アリー・アル・サーシェスのことも、刹那は許している。
 ニールは内心複雑だった。アリーは刹那の初めての男で――だから、ニールはアリーにジェラシーみたいなものも感じている。だが、それはもう、妄執の彼方だ。
 それに、ニールだって人のことは言えない。くさくさした時に、ニールはどこかで拾った女を抱いたりしたこともあった。ニールは自分の容貌にも自信があった。
 それなのに、初恋は刹那・F・セイエイだった。
 だが――刹那の場合は少々違う。刹那の初恋は、あのアリー・アル・サーシェスだったのだ。見神体験と偽り、刹那を好き勝手に抱いた男――。
 ……ニールは、アリーに羨望を感じていた。アリーは刹那を好きにしながら、しかも尚、刹那の心を捉えていた。
 アリーの心はもう、娘ニキータのものだというのに。あの二人は親娘なのに抱き合って子供をこしらえ、もう既に道ならぬ恋をひた走り、それでいて幸せを掴んだと言うのに――。
 全く、世の中は公平ではない。
(俺みたいに真面目で誠実な男が刹那の心ひとつ、自由に出来ないと言うのに――)
 それはどうだかわからないが、恋は思案の外。
 ニールは、刹那が自分を愛してくれていることは知っている。けれどまた、刹那がリボンズにも情けをかけているのが何となく気に食わない。
 一度は納得したはずだったが――。
 別のことを考えよう、とニールは思った。
 例えば、マリナ・イスマイールのこと。ニールは長い間、刹那はマリナが好きなんだと誤解をしていた。いや、確かに初恋の女性だと刹那は認めた。マリナは美しいし、何と言ってもアザディスタンの皇女だ。
 それに――子供達にも好かれているし、第一歌が上手い。
 ニール自身、マリナの歌に何度か助けられたことがあった。
 マリナは誰と結婚するんだろうとニールはしばらく考えていたが、ぴったりの男が現れた。それが王紅龍だ。
 紅龍はいい男だと思う。少々シスター・コンプレックスの気もあるかもしれないが。その妹、王留美も今ではいい母親だ。
 グレンがいなかったら、留美は道を間違えたかもしれない。あの留美という女は少々危なっかしいとニールは思っていたからだ。
 でも、今ではグレンとの間に一児を設けて幸せに暮らしている。
 人生、何が起こるかわからない。ニールもまさか、刹那と恋に落ちるなんて思いもよらなかった。刹那は最初、しんねりむっつりした子供だった。
 ――それから、ガンダム。
 刹那は特別な愛情でガンダムを愛している。
(俺が、ガンダムだ――)
 あのセリフは今でも忘れることが出来ない。その瞬間、ニールのライバルはガンダムになった。
 アリー、リボンズ、ダブルオーガンダム……ニールの周りにはライバルがいっぱいいる。
 頼みの綱のハロも、今ではもうすっかりニールの双子の弟ライルに懐いている。いくら外見が似ているからって……その他にもいろいろなところが似ているからって。ニールはそれも面白くない。
 今まで沢山の恋をして来たが、ニールはそれを児戯に等しいものだったと認めている。
 愛しているのは、刹那だけだ。今日もこのベッドで抱き合った。傍にはソランもいると言うのにな――と、抑えきれない自分の欲に負けてしまったことをニールは自嘲するのだった。
 けれど、刹那だって結構のっていいた。刹那が女だったら、もう一人子供が出来るんじゃないかと思うくらい。
 ニールは刹那の肩に手を伸ばした。もう一回やってもいいが、刹那がどう思うか――。それに、ニールは刹那を無理して抱かずとも良いと思っていた。
 ニールが希っているのは、刹那の気高い魂なのだから――。
 刹那はあまりにも気高過ぎて、凡人である父と母を殺してしまった。アリーに洗脳されたからだけじゃない。刹那には、自分に好意を持つ者を傷つける――そんな抜き身のナイフのような危うさがある。
 リボンズを救う、と言っていたが、刹那が本当に救いたいのは自分自身であるかもしれない。
(いいさ、それでも――自分という存在があやふやだと、この世界では生きていけない)
 ニールは密かに、ずっとダブルオーシステムで刹那をアシストすることを心に決めた。
(――ついでにリボンズの坊やも救ってやったっていいさ)
 リボンズはニールや刹那なんかよりずっと年上であることをニールは知らなかった。ニールはリボンズに紹介された時、
(まだ若いな)
 と、リボンズに対して思ったくらいだった。
 それに……リボンズには些か情緒不安定なところがある。リボンズは完璧なアレハンドロ・コーナーの秘書を務めていたが、その裏には何をしでかすかわからない闇があった。
 あの闇を取っ払うのは簡単ではない。
 だったらどうするか――答えはリボンズの悩みに気付かないようにすればいいのだ。――なかったことにすればいいのだ。
 刹那がいなかったらニールだってそうしただろう。
 リボンズという存在を捨てることが出来ない理由がもうひとつある。ソランのことだ。
 ソランは正義を愛する心を刹那からもらった。ガンダムを通して、刹那が手にした最大の贈り物だ。刹那にとって神はいない。ガンダムが刹那にとっての神だからだ。
 リボンズを見捨てたと知れば、ソランはニールを軽蔑の眼差しで見るようになるだろう。勿論、刹那も。――それだけは、耐えられない。
 だから、つきあうことにしたのだ。ソランとニールは一蓮托生なのだ。
 それに――。
(ニール。あの時俺を助けてくれたのは、リボンズ・アルマークだ)
 いつかのピロー・トークで刹那が告白した。こんなところで他の男の名前を出すとは――と、ニールは呆れながら聞いたのだからよく覚えている。今も、あの時に近いかもしれない。
「なぁ、刹那――」
「……ん」
「俺達はこれからも一緒だ。そうだな」
「何を言う。そんな当たり前のこと言わないでくれ。赤面しそうだ」
「赤面したお前も可愛いよ」
「何言って――」
 ニールは刹那の唇を己のそれで塞いだ。二人はかなり長い間キスをしていた。
「ふぅ……今頃はお嬢様もグレンに可愛がられている頃かな」
「――それは逆なんじゃないか?」
 ニールは、刹那のセックスがかったジョークにあっはっはと大笑いした。
「そりゃそうだ。そりゃそうだったな。あっはっは――」
「静かにしてくれ、ニール……ソランが起きてしまう。俺も少し頭が痛い……」
「張り切り過ぎたかな。俺は元気だけどなぁ……」
「お前は底なしの体力の持ち主だ。相手にしていると疲れる――」
 そうか……と、ニールは思った。抱き合う時は、受け身の方が疲れるらしい。その分天国へ行けたならいいじゃないかと、ニールは思うのだが。因みにニールは刹那との交合の時は毎回天国へ行く。
 その時間と持続力が、刹那を抱く度に長くなっていくような気がするのだ。
(こりゃ、一生手放せないよなぁ……)
「何か言ったか? ニール……」
「別に……」
 ニールにとっても、さっきの台詞はあまりにベタで、恥ずかしかったのだ。これならまだ、キスの方が恥を覚えなくて済む。言葉とは厄介なものだ。
 これからも一緒だ――これもやはりクサイ台詞で恥ずかしいが、ニールは友情と愛情を刹那に対して持っていたから……。
 ニールは刹那を抱き締めた。例え歳を取ろうが、この温もりさえあれば生きていける。
 ――ニールは、これからの人生を刹那・F・セイエイとガンダムに捧げることに決めた。きっと実り多き人生になるだろう。
 ドンドンドン。乱暴なノックが鳴った。きっとノックの主は足でドアを蹴っているのだ。うるさいからやめてくれ――そう言おうとした。そこへ、部屋につけてあったインターフォンから声が聞こえた。
「少年、二ール! グラハム・エーカーだ。是非ともこの部屋の鍵を開けていただきたい」
 ニールと刹那は頷き合って深い溜息を洩らした。今日はこの闖入者も客として泊まっていたのだ。
「グラハム、ソランがいる。静かにしてくれ」
 刹那がそう言うと、グラハムはぴたっと動きを止めたらしい。そのくらいの思い遣りは、グラハムにもあったようだ。――刹那も青年と言っていい年齢だが、グラハムは未だに彼を「少年」と呼ぶ。

2022.07.30


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