ニールの明日

第三百四十三話

「げっ、リジェネ……!」
 ヒリングは自分が顔をしかめているのを覚えた。リジェネ・レジェッタ。ヒリングはこの人物がどうも苦手である。あまりに美し過ぎるからかもしれない。尤も、ヒリングはリボンズの方が美しいと思っているのあるが。
「ああ、リジェネ……」
 リボンズ・アルマークがやってきた。ヒリングは嫌な予感を覚えた。
「リボンズ、君の探し物はここにあるよ」
 そして、リジェネは薬の入った小瓶を取り出した。
(いつの間に……!)
 ヒリングは自分のポケットを探った。リボンズの欲している薬はポケットに入ったままだ。ということは――リジェネが取り出したのは一体何なのだろう。
「わ、悪い……」
 リボンズは小瓶を開けてぐっと薬を飲み込んだ。……しばらくすると、リボンズは落ち着いたようだった。
「――悪かったね、取り乱して」
「別に」
 ヒリングは答えた。
(だって慣れてるもの……)
 慣れたくはなかったけど仕方がない。ヒリングは、リボンズには無敵の帝王でいて欲しかったのに。
(まぁ、イノベイドとして覚醒してくれれば或いは――)
 イノベイドの話はどこで聞いたか忘れてしまった。ヒリングの意識も混濁しているのである。だからこそ、ヒリングはリボンズに救いを求めた。リボンズはヒリングにとって神とも呼ぶべき存在だった。
 いつか、リボンズがヒリング達を新天新地に導いてくれる……ヒリングはそう信じていた。
 だから、余計なことをしたリジェネに向かってヒリングはぎっと睨んだ。
 ――リジェネの眼鏡のレンズがきらりと光った。
(……リジェネ……!)
(何だい!)
 答えが返ってくるとは思っていなかったヒリングは目を丸くした。
(君の持っていた薬と取り替えた。今、君が持っているのはただの胃薬だ――)
 ますます余計なことをする。ヒリングはリジェネが憎くなった。例え、禁断症状に苦しむリボンズを見ることになっても、ヒリングは、リボンズには強く雄々しくあって欲しかった。
 ――リボンズは、ヒリングの初恋の人だった。
 だからこそ、ヒリングはリボンズに理想の姿を見た気がしたのだ。しかし、あれを飲んでいては、リボンズの寿命も長くはない。
(リジェネはあたしの心、知らないんだ……!)
 リジェネも脳量子波で人の心を読めるとは言え、ヒリングだってイノベイダーの端くれ、シャットアウトする技は持っている。ヒリングは一人になりたかった。
 シャーロットにも、今は会いたくなかった。
(どうして、どうして――!)
 どうして自分はリボンズに惹かれたのだろう。リボンズに恋さえしなければ、こんなに苦しむこともなかったのに……。
 黒いどろどろした塊がヒリングの心を喰い破る。
 ――リボンズはリジェネに絶対的な信頼を置いている。リジェネの許しがなければリボンズも彼の心を読むことはしない。リボンズはリジェネに対して気を使っているのだ。
 だからリジェネが増長するんだ――ヒリングが憎々しげにそう思った。
 リジェネがリボンズの恋人だ。そんな噂も聞いたことがある。だが、ヒリング程度の力の持ち主では、リボンズの真の意図はわからない。
 リボンズはとんとんと赤い絨毯の敷かれた螺旋型の階段を降りて行った。
(くそっ)
 ヒリングは爪を噛んだ。
(リジェネめ……本当に余計なことを……)
 今度は答えは返って来なかった。ヒリングは自分の思考に鍵をかけてある。
(リボンズ・アルマーク……誰よりも強く、美しい男……イノベイド……あたしの初恋の人……)
 ヒリングは何度かリボンズと寝たことがある。それでも、リボンズの中にぱっくり空いた闇を満たすことは出来ない。同様に、リボンズもヒリングを孤独から救うことは出来ない。
 ――いや、今、ヒリングにはシャーロットがいる。シャーロットのおかげで、幸せというものを知った。そして――自分がどんなに孤独だったかも知った。
(ふふ、リボンズ……あたし達、似た者同士かもしれないね……)
 ヒリングが心の中で独りごちる。リボンズが音楽をかけ始めた。もうすっかりいつものリボンズ・アルマークだ。
 ただ、リジェネが何を考えているのかがわからない。ヒリングにとっては、リボンズ以上に謎めいている。
 今のヒリングには、固く閉ざされたリジェネの考えはわからない。リジェネはとんでもない食わせ者ではないかと思うのだが、リボンズは何故か彼を傍に置いて離さない。
 ヒリングは、リジェネに嫉妬している。それは、自分でもよくわかる。
 リボンズは、リジェネを愛している。ヒリングはずっとリボンズだけを見てきたのだ。だから、脳量子波が通じなくても、そう想ってしまうのだ。
 ヒリングは出来ることならリジェネになり替わりたかった。
(わかってるわよ、リボンズ。アンタがリジェネしか見てないことはさ――)
 自分はアレハンドロ・コーナーに負けないくらいの道化者だ。ヒリングはそう思っている。
 リボンズは、アレハンドロを陥れた時の話が大好きで、ヒリング達の前で何度も話してみせた。
(聞きたくないわよ、そんな話――)
 これが別の人物の話だったら、ヒリングは一緒に愉快に笑ったことだろう。でも……。
(――リボンズ。アンタも道化者かもしれないじゃん)
 リジェネが去った後、ヒリングは薬の入った小瓶を取り出して眺めた。
(リジェネにしてやられたわ。……あの手の顔の男は嫌い)
 リジェネはティエリア・アーデのことを思い出していた。
 髪の色、リジェネと同じ。だが、ティエリアは真っ直ぐな髪をボブにしていた。でも――今のヒリングにはティエリアなどどうでも良かった。
 いや、もう少し考えてもいいのかもしれない。リジェネを倒したかったら。リジェネには、ティエリアと共通の秘密がある。その秘密が何であるか、ヒリングにはわからなかったが。
(そういえば、リジェネは塩基パターンがティエリアと同じだって、聞いたことがある。でも……それが何だっつーの……)
 それよりも、ヒリングにはリボンズが心配だった。リジェネは何かを企んでいる。以前のリボンズと同じように――。
 リジェネもリボンズも野心家だ。だから、ウマが合うのかもしれない。ヒリングにはわからない世界だ。
(あたしは……シャーロットやリボンズと幸せになりたい……それだけ……)
 ささやかな願い。でも、何で敵わないのだろう。
 その願いを叶えるのは、ダブルオーライザーを素手で破壊するより難しい。いや、イノベイドにはそれも出来るかもしれないが。
 もしリボンズが本当のイノベイドになれさえしたら――。
(そしたら、あたしは救われる。ううん。捨てられるかもしれない。でもいい。あたしにはシャーロットがいる……)
 聡明なヒリングにも、自分がシャーロットに依存していることに関してだけは頭が回らなかった。――いや、わざと考えないようにしているのかもしれない。
「シャーロットを呼ばなくちゃ」
 ヒリングは独り言を呟いた。階下ではリボンズが新聞を読んでいる。ヒリングは、リボンズがいよいよ本格的に様子がおかしくなって来た時、シャーロットを部屋に帰していたのだ。
「ん~、でも、あの二人がいるか……フランクリンにエンマ……」
 フランクリンにエンマとは、シャーロットの両親である。ヒリングはこの二人を苦手としている。何故なら、シャーロットをヒリング達からひき離そうとしているからだ。
 だが、ヒリングもあの二人が嫌いなのでお互い様だと言えよう。
(今日、パパがね、『ヒリングおねえちゃんとあそんではダメ』って言ったの)
 ヒリングは(ふーん)と言ったが、内心面白くなかった。
 嫌われて嬉しい存在など、この世にはいない。いたら相当の変わり者である。
 ヒリングは自分を比較的真っ当で常識的な部類だと思っていた。リボンズと比べてみてもである。リボンズもリジェネも、二人ともヒリングからしてみればどこか変わっている。
 フランクリンは実際には、
(シャーロット……あのヒリングと言うお姉さんには、父さん、あんまりお前に関わって欲しくないなぁ……)
 と、やんわりと窘めたであろうけれど。真っ向から注意したって、シャーロットが泣くだけだ。
 火のついた暖炉、フランクリンが娘と腰掛けているソファー。そこで、シャーロットとフランクリンが話しているのが目に見えるようである。
 今回はしくじったものの、ヒリングは昔より勘が働くようになっている。
 特に、ヒリングはエンマ・ブラウンが嫌いである。
 最初会った時に思ったのだ――こいつは宿敵だ、と。
 その娘シャーロットと気が合ったのは、不思議と言えば不思議だが――。案外人の縁というのはそういうものであるかもしれない。
「リボンズー。アンタ落ち着いたみたいだからシャーロット連れて来るわね~」
「ああ……いいけど、お前はシャーロットの両親に嫌われてるだろ」
「いいのいいの。あたし、細かいことは気にしない質だから」
 いや、気にしてはいるのである。ヒリング・ケアは実際は結構繊細である……と自分では思っている。
 ヒリングに追い出されたシャーロットが行くところと言えば、両親の元しかない。ヒリングの脳量子波も、シャーロットが両親の共にいることを示している。
(やだなぁ……)
 だったらシャーロットを呼ばなければいいのであるが、だんだんと回復してきたヒリングの心は、シャーロットの存在を欲していた。けれど、あの親達が鬱陶しい。
(まぁ、いいか。――たまには独りでいても……)
 いつもだったら間が持たないのであるが、今は、ヒリングにも考えたいことがいっぱいあった。シャーロットの他にも……。リボンズのこと、リジェネのこと、イノベイドのこと――。
「やっぱりやめる。シャーロットちゃんもたまには自由にさせてあげる」
「――僕はどっちでもいいがな。シャーロットにはお前が随分ご執心だったろう?」
 リボンズが新聞に目を落としながら答える。「そう?」と口にして、ヒリングはリボンズの部屋から出て行った。

2022.06.28


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