ニールの明日

第三百四十二話

「ぱっぱ、ぱっぱはそらんのぱっぱだよ」
「嬉しいことを言ってくれるじゃねぇか。ソラン。……キスしてやろうか?」
「やめて、服が脱げちゃう」
 ソランは、唇にキスをされると白猫になってしまうのだ。
「構うもんか。それっ!」
「やだー!」
『あー……ニール? ソラン?』
「済まん、グレン。ああなるともう止められないんだ……」
 刹那が少し済まなさそうに言う。呆れも入っているのかもしれない。
『……ん、いいさ。俺にもシャールがいるから気持ちはわかる。――それにしても留美のヤツ、遅いな』
『皆さん……』
 グレン達のいる部屋に戻ってきた留美が俯いたまま低い声で言う。雰囲気が全体的に暗い。
『り……留美?! どうした?! 何があった?!』
 グレンが焦る。ニールとソランもぴたりと動きを止める。
(どうしたの? 何があったの?)
 ソランは脳量子波でシャールに訊く。――シャールは答えてくれない。
(何があったの? シャールってば、ねぇ……!)
 ――その瞬間留美が顔を上げて、ぱあっと瞳を輝かせた。
『いいお知らせでしてよ、グレンにニール、刹那。お兄様とマリナ姫がついに正式に婚約式を執り行うことに決まりましたわ!』
「えーっ?!」
 ソランが叫ぶ。――シャールがニヤニヤしていた。
「何だ。ソラン。知ってたんじゃなかったのか?」
 先程、ソランから何もかも訊いた刹那が首を傾げる。ソランは首を縦に振った。
「だって、りゅーみんまんまのようすがへんだったから……」
『それは……ちょっとショックだったのかもしれませんわね。お兄様とマリナ姫の婚約が……私はいつも……小さい時からお兄様と一緒に暮らしてましたもの』
「お兄様と暮らしてたって……両親は?」
 ニールが尋ねる。そういえば、王留美の両親の家庭での話は聞いたことがない、とソランも思った。
『オフリミットですわよ。ニール・ディランディ……シャールがもっと大きくなったら、シャールにだけは話してあげましょうねぇ』
『おい、留美。俺は?』
『オフリミットって言ったでしょう? グレン。貴方に対しても同様ですわ』
『そんな……俺は、留美の全てを知りたいのに……』
『……話せないことだって、夫婦間にはあるのですことよ』
『それは……お前が昔、兄に恋してたってことか? そんなこと、どうだっていい。昔のことなんだから……それに、今は俺がいるじゃないか……。まぁ、紅龍は俺から見てもいい男だとは思うがしかし――』
 留美が、「しまった」と言う顔をした。――そして、留美は不意をついてグレンの唇にキスをした。かなり長いキスだった。
『ん……んん……』
 グレンはくたっとなってしまった。
『さ、シャール、おねんねの時間よ。ソランも寝かせた方がいいんじゃないかしら』
「俺達もおねんねしたくなったな』
『――ああ、あんなに濃厚なキスシーン見せつけられたらな……』
 刹那は珍しく、ニールに反論しなかった。刹那もニールに対して、何か反駁するかとソランも思いきや。
 それにしても――ソランもドキドキしている。
(シャール……君も眠れないんじゃないの)
 脳量子波で、ソランがシャールに話しかける。
(ん。慣れてる。おれのまんまは、話を逸らしたかっただけだ)
(話を逸らす為だけにあんなことを――?)
(ぱっぱは時間があればまんまと寝ている。あれは閨房の秘儀ってヤツだよ。それにしても、まんまにそれを教えたのはおれのぱっぱなのに、ぱっぱも情けない。じゃあ、おれはベッドに戻る。いずれお互い独り寝は卒業したいものだな)
 ――シャールはとても早熟な子らしい。ソランは、自分が子供に思えて恥ずかしくなった。でも、閨房の秘儀を誰かに施すのを考えるのはもっと恥ずかしかった。
「えう……」
 ソランも呂律が回らない。ベルベット・アーデは美人で眩しいくらいだが、きっとソランに迫られたら抵抗するだろう。
 それに――ソランもシャールも、まだ赤ん坊と言っていい年なのだ。いや、誰がどう見ても赤ん坊だ。ソランにはそれが快くて、でも、少し悔しい。

 一方、リボンズ邸では――。
「ない、ない、ない――」
 リボンズ・アルマークが必死である物を探していた。
「ないないない」
 その横でシャーロット・ブラウンが踊り始める。
「どうしたのぉ? リボンズ」
 間延びした声でヒリング・ケアが訊く。
「いや、何でもないんだ。何でも――」
「嘘! 何でもないって顔してないじゃん!」
「――まぁ、とにかく君達には関係のない話だよ……」
 そして、リボンズはまた「ない、ない」と繰り返し譫言のように言いながら、机の引き出しを引っ繰り返した。
「リボンズおにいちゃん、ちらかしたらだめよ。ヒリングおねえちゃんにおこられるんだから」
「シャーロット! しっ! リボンズお兄ちゃんは今、大事な物を探しているんですからね~」
「……はーい」
 シャーロットは腑に落ちない表情をしながらも、ヒリングに向かって返事をした。シャーロットは今や、両親といるより、このリボンズの部屋に入り浸っている時間の方が、長い。
「はい、じゃあ、シャーロットちゃんはお姉ちゃんと遊びましょうねぇ~」
「……リボンズお兄ちゃん? 大丈夫?」
 シャーロットは不安げな顔でヒリングの顔を覗き込む。ヒリングはシャーロットの手を繋いで言った。
「大丈夫よ~。シャーロットちゃん……リボンズお兄ちゃんは強いのよ。世界で一番……ううん、この宇宙で一番!」
「うん!」
 今度はシャーロットも納得したようだった。ヒリングの台詞にはそれ程説得力があったのだろう。シャーロットのような頭のいい、おしゃまな子供を説得するのは、難しいことなのだが。
「ね、いつだってそうだったでしょ?」
 ヒリングは、自分に言い聞かせるように言った。
 シャーロットは再び、「うん!」と力強く頷いた。
「でも、お兄ちゃん……本当に大丈夫? あたしも手伝わなくていいの?」
「いいと言ってるだろう!」
 リボンズの目は血走っていた。
「ひっ!」
 シャーロットが怯える。ヒリングがリボンズを諫める。
「リボンズったら……こんな小さな子に怒鳴ることないじゃない。あれを隠したのはシャーロットでないこと、リボンズだって知ってるでしょう?」
「む……それはそうだが……」
「あたし、リボンズお兄ちゃんの大切なもの隠したりしない。あたし、そんな悪いことしない」
 ――そして、シャーロットは泣き出してしまった。
「わかってるわよ。あたしはシャーロットちゃんのこと信じてますからね~」
 リボンズは、そんな二人のやり取りはそっちのけでまた探し物を始めた。

(――ごめんね。リボンズ)
 ヒリングは心の中でそっと謝った。リボンズの探している物を隠した犯人はヒリングだったのだ。
 リボンズが探しているのはナノマシン剤――いや、それのもっと強力なものだ。
 昔で言ったら麻薬みたいな常習性のあるものだろうか。今はもう、麻薬は撲滅したことに、表向きにはなっている。
(ごめんね。リボンズ。でも、あたしはアンタを信じてるの。あんな物がなくたって、アンタは純粋種のイノベイドとして覚醒することをあたしは信じてるの――)
 それは、今は禁断症状で辛いかもしれない。死にそうな想いもするかもしれない。でも、ヒリングはリボンズの強さを信じているのだ。
(リボンズ。アンタは真の純粋種として、あたし達を導いて。お願い――!)
 それは最早信仰と呼ぶべきものだったが、ヒリングにはそんな自覚はない。
 リボンズがヒリングの脳内を覗けば、一発でヒリングの仕業とわかるのだが、ヒリングも伊達にイノベイターとして生まれた訳ではない。心をシャットアウトする術ぐらいは身に着けている。例え、相手がリボンズでもだ。
 けれど、ヒリングは、今はひっきりなしにリボンズの脳量子波の攻撃を受けている。このままだと、もたないかもしれない。そしたら、確実にヒリングはあれの隠し場所を吐かされてから殺される。
(助けて――!)
「ヒリング?」
 涼やかな声がした。緩くウェーブして肩にかかった紫の髪にフレームレスの眼鏡。リジェネ・レジェッタだった。

2022.06.07


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