ニールの明日
第三百四十話
「ここがモニター室だ。ソランは入ったことはないな」
「みれいなねーねとはいったことある~」
「えっ、ミレイナ・ヴァスティが?」
ソランは己の失言に気が付き、はっと口を噤んだ。だが、もう遅い。刹那がぐいっと顔を近づけた。場合によっては叱られることをソランは覚悟した。
「――ソラン。ミレイナとここで何をした」
……言えないのだ。マリナ・イスマイールとここで話したことがあるなんて。それに、入って来たのは本当はソランの方で、ミレイナはソランに気が付くとびっくりしていた。
(ああ……ソランちゃんね。ごめんね。パパとママのところへ行ってくれる?)
ミレイナを弁護するならば――彼女は一応ソランを窘めたのだ。ソランがどうしても出て行く気がないことがわかると、
(じゃあね、ソランちゃん……そこで大人しく出来るかな?)
と訊いて来たのだ。ソランにとっては渡りに船だった。ミレイナとソランはマリナと一緒に談笑して、楽しい時を過ごした。
けれど、ソランにとってこれは重大な秘密だった。
秘密を持つのが大人の証ならば、ソラン・ディランディはもう立派な大人であった。もう、その秘密は暴かれつつあるのだが。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。……ここで何をしたんだ?」
刹那の声には怒気はない。ソランは正直に話した。
「そうかぁ……マリナ姫とかぁ……」
ニールは顎を撫でながら言った。
「予定は変更だ。まず先にマリナのところへ繋ぐ」
『繋がりました』
――音声が聴こえる。
「わかった。――マリナを呼んでくれ」
『マリナ、とは?』
刹那は己の髪をくしゃっと乱した。
「マリナ・イスマイールだ」
『承知しました』
そして――画面に現れたのはマリナの美しい笑顔だ。前に見た時より優しいと、ソランは思った。きっと、充実した日々を過ごしているのだろう。
マリナと王紅龍は、もうすぐ結婚する。
『刹那。今回はどんなご用件で?』
「お前の話題が出たから、お前と話したくなっただけだ。最初はシャールと話す予定だったが、俺の気が変わってな」
「そうだぞぉ、こうと決めたらきかねぇんだから、こいつは」
ニールが心安立てに刹那の頭を軽く小突いた。
「マリナ……少し早いが、結婚おめでとう」
『あら。嬉しいわ』
マリナがにこっと笑う。刹那には出来ない笑顔だと、ソランは思った。けれど、ソランはそんな刹那も好きだった。
「マリナも結婚かぁ」
ニールは感心したように呟く。
「お祝いは何がいいかな」
『あら、お祝いなんて……でも、結婚式には来て欲しいわ』
「了解! ソランと刹那も連れてくな」
『お願いします』
マリナがモニターの向こうで丁寧に頭を下げた。
『そのうち、正式な通知を送りますから』
「ああ。マリナ。お前は忙しいんじゃないのか? 結婚式を前にして――」
刹那が言うと、マリナはほんのり顔を赤らめた――ような気が、ソランにはした。
(結婚、かぁ……)
ソランはマリナの嬉しそうな表情を見て、初めて結婚に憧れを抱いた。そういえば、刹那とニールは結婚式はしなかったのだろうか。
――いいや、していた。あの、砂漠の真ん中で。夜の中、砂埃の舞う中で。その時は、グレンもいた。
(シャール……ちょっと待っててね)
ソランは、友人のシャールに脳量子波を送った。シャールはわかってくれたようだった。いつだって、シャールとは会話を交わすことが出来るのだから。――脳量子波によって。
(いつかはぼくも……)
だが、ソランに伴侶となる存在が現れるのであろうか。キスすると猫になる、ソレスタルキャットの自分に。
ニールはマリナに、結婚祝いは何がいいか訊いている。マリナは、何でもいい――手ぶらでも構わないと言っているが……。
もう、ソランの耳に入ることはなかった。
ソランよりもニールや刹那の方が熱心にマリナと話をしていた。ソランは小さく欠伸をした。
「ああ、ごめんな、ソラン。せっかくモニター室に来たのにな」
「いいよ」
「マリナの花嫁姿はさぞかし綺麗だろうな」
刹那が嬉しそうに言った。
「お前も花嫁姿になるかい? 刹那」
ニールが茶化す。刹那は、
「――馬鹿」
と言って、力を入れずに拳をニールの腹に当てる。ニールは「はっはっは~!」と笑っていた。
ソランは、この二人が自分の両親で良かったと思った。例え、母親役である刹那が腹を痛めて生んだ子ではないとしても。
ソレスタルキャットである、ソランの真の母親での刹那・F・セイエイとも話が合いそうだ。
マリナは相変わらず優しかった。ソランはマリナの胸に顔を埋めたいと考えていた。
でも、それは不可能なこと――。
紅龍がいなかったら、自分がマリナと結婚したかもしれないと思った。平行世界のどこかでのソランは、きっとマリナと結ばれているであろう。
ソランはマリナに幸せになって欲しかった。自分の両親達のように。
――己はもう、充分幸せだから……。
ソランはベルベットとの結婚は考えていなかった。ベルベットには決まった相手がいる。それはまだ、出会ってすらいない二人かもしれないが――。
……それに、ソランはまだ赤ん坊なのだ。赤子が赤子を育てると言う訳にはいかない。
リヒターはベルベットのことが好きみたいだが、ベルベットの相手はきっとリヒターでもない。
「退屈か? ソラン」
「ぱっぱ~」
「待ってな。今、シャールに繋ぐから」
ニールはグレンの家へと送信した。やがて、返事が帰ってきた。グレンは刹那に似ている、とソランは思う。
「グエン~」
ソランはモニターに紅葉のような手を差し出す。グレンは何となく、ソランを安心させた。刹那に似ているからかもしれない。
『お? 俺のこと知ってんのか? チビちゃん……確か、初対面だったよな』
「グエン~」
ソランはまだ、グレンと正しく発音出来ない。
『いいか? 俺の名前はグレンだ。グ・レ・ン』
「グ・エ・ン」
わかっているのに、きちんと発音出来ないもどかしさが、ソランにはあった。
『ソランはまだ片言しか喋れないのか?』
グレンが刹那達に訊いた。ニールが答える。
「いや、結構喋るぜ。俺が難しいと思っていることもな。本当は頭がいいんだ」
『じゃあ、発音の問題か。いいか。ソラン。俺はお前にグレンって呼んで欲しい』
「うん」
『なら、発音の練習するな。グ・レ・ン』
「――グ・レ・ン」
ソランは必死で口を動かした。
『あー、よしよし。よく頑張った、ソラン。お前はいい生徒だよ。待ってろ。今、シャールが来るから』
「シャールは今、何やってんだ?」
『留美と勉強中さ。ああ、来た来た』
『はい、ソラン』
「シャール~」
ソランは嬉しくなってモニターに手を伸ばした。留美も一緒に来た。留美は美しい母親だと、ソランは思った。それは、刹那もいい男ではあるし、美形には違いないのだが。けれど、刹那はれっきとした男なのだ。留美やマリナのような、女の人のにおいのする人種とは違う。
2022.04.14
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