ニールの明日

第三百三十七話

「ただいまー、リボンズ。あら、リジェネもいるの」
「ただいまー」
 そう言って部屋に入って来たのは、ヒリング・ケアと、シャーロット・ブラウンだった。
「やぁ、君達。リジェネがお茶を淹れてくれるそうだよ」
「ヒリング達にもかい? まぁいいけど――」
 リジェネがキッチンスペースに引き下がる。今が一番自分にとって穏やかな時だろうとリボンズは思った。好むと好まざるとに関わらず、だ。
(これが案外、幸せと言うものかもしれないな――)
 新しいBGMを流したリボンズがうっとりと聞き惚れている。ヒリングはリボンズの隣に座った。
「ねぇ、リボンズ。あのさ――」
 ヒリングが珍しく逡巡している様子である。直情径行型のヒリングが言い淀むなど珍しい。
「……何だい?」
「……あたしね、最近何だか、このままでもいいんじゃないかって思うようになって来たんだけど……どう?」
 ヒリングが上目遣いで訊いて来る。リボンズは辺りを見回した。無駄とわかっていてもリジェネには聞かれたくなかった。
「……実は僕もだ……」
「え……?」
 ヒリングの大きな目が更に身開かれた。
「う、嬉しい……。ねぇ、リボンズ。あたし達、幸せな家庭を作りましょうね。シャーロットちゃん一緒に育てて……リジェネはまぁ、いてもいなくてもいいけど……ねぇ、シャーロットちゃん、あたし達と一緒に住まない?」
「でも、パパとママがしんぱいするし……」
「それは何とかあたしが説得してあげるわ。それとも、シャーロットちゃんはあたしが嫌いなの?」
「ううん。大好き! ヒリングおねえちゃん大好き!」
 そう言って、シャーロットはヒリングに抱き着く。
「あらあらまぁまぁ。あたし母性本能に目覚めそ」
「それはそれで問題だと思うがな――」
 無駄だと思いつつ、リボンズが口を挟んだ。
「あら、なぁに? リボンズ妬いてんの?」
「――馬鹿なことを」
「皆さん、紅茶が入りましたよ」
「あら、リジェネ。いたの」
「さっきからいましたよ。『リジェネはいてもいなくてもいい』とあなたが言っていた時から――」
「聞いてたのか……」
 ちっ、とヒリングが舌打ちをした。紅茶の馥郁たる香りが漂う。
「まぁ、僕は根に持つタイプではないのでね。ヒリング。あなたのカップには砂糖の代わりに塩を入れておきましょうか?」
「しっかり根に持ってんじゃない……それに、この茶葉は砂糖で台無しにするのは惜しいわ」
「あたしはミルクがいいー!」
「はいはい。お嬢ちゃんにはミルクね」
 リジェネがピッチャーからミルクを注ぐ。たちまち、紅茶に白い靄がかかった。
「砂糖は何杯?」
「にはい!」
 シャーロットが指を二本出した。Vサインのようにも見える。
「はいはい、二杯だね」
 リジェネは苦笑しているように見える。この男、シャーロットの召使いみたいに見えるな――と、リボンズは意外な想いで二人を見ていた。
 リジェネだけじゃない。シャーロットはヒリングをも変えてしまった。あの好戦的なヒリングを――。
(僕達はティエリアやアレルヤを笑えないな……)
 アレルヤ・ハプティズムとティエリア・アーデの間には一人娘がいる。名を、ベルベット・アーデと言う。
 ……ベルベットは平行世界から来て、今はCBに落ち着いている。リボンズは夢の中で、ベルベットに会ったことがある。オッドアイで、菫色の髪をした美少女だ。
 オッドアイは父親のアレルヤから、菫色の髪はティエリアから受け継いだものなのだろう。
 この世界のティエリアが直接腹を痛めて産んだ子供ではないのだが、アレルヤもティエリアもそれはそれは可愛がっている。まるで、我が子にするように――。
 しかも、ガンダムマイスターの間では最近子供が増えた。
 ソラン・ディランディ。平行世界のニール・ディランディと刹那・F・セイエイとの間に出来た子供で、何と、猫である。綺麗な白猫だ。そして、人間に変身することも出来る。
 ソレスタルキャットである刹那の能力を受け継いだソラン。本当の姿が人間なのか、猫なのか、多分本人も知らないだろう。
 平行世界の存在を認めてしまえば、もう何でもありである。
 そう。人間を超えたイノベイドのリボンズ達が実在しているように――。
 シャーロットは、リボンズ達を自分達の味方だと信じて疑わない。いや、友達だと思っているようだ。
 自分達の正体を知ったら、シャーロットは離れて行くだろう。リボンズは平気だが、ヒリングがどれだけ嘆き、悲しむか――。
 だが、シャーロットがリボンズやヒリングと同化することを望むかもわからない。それもきっと、ヒリングの良しとするところではないだろう。
 では、どうするか――。
 リボンズは考えを放棄した。
(今は、これでいいんだ――。きっと。平行世界のどこかで、刹那達に僕がやられたことも、僕は知っているからな……)
 これは現実逃避なのだろうかと、リボンズは思う。だが、現実とは一体何なのか。
 答えられる存在など、多分どこにもいない。
 だったら、自分で作るしかない。謎を、真実を――。そして、世界を――。
 それがイノベイドの長たる自分の使命だと、リボンズは思う。そうやって、リボンズは自分の存在意義をイオリア・シュへンベルグやアレハンドロ・コーナーから勝ち取って来たのだから……。
 だが、アリー・アル・サーシェスの最期には衝撃が走った。
 愛、か――。
 アリーは娘のニキータを愛していた。ニキータもまた、アリーを愛していた。
 母親が不実の女だったとしたって関係ない。アリーもニキータも純粋にお互いを愛していた。例え、間違った愛として迫害されようとも。
 刹那もニールも、必ずしも正義の徒ではない。
 だが、平和は大切にしている。だから、彼らは正義の味方と呼ばれる。鉄屑のガンダム同様――。
(刹那。お前がどんなに世の中を甘く見ているか、この僕がこの手で教えてやる。いつの日にか……)
 そう思いながら、リボンズはぎゅっと拳を握った。
(そして、ニール・ディランディ……こいつは刹那より少しはまともそうだが……)
 ニールは、テロによって家族を失った。だから、ニールはテロを憎んでいる。だが、ニールは大人だった。
 視点を変えれば自分達こそ世界を変えるテロリストなのだと言うことも、ニールは知っている。そして、それをリボンズもまた知っている。
(僕達を救うには、世界を敵に回す覚悟が必要だよ。刹那……)
 例え、今は互いにそれぞれの場所で家族ごっこをやっていたとしても――。
 リボンズは一生懸命紅茶を啜っているシャーロットを見た。シャーロットはにこおっと満開の笑みを浮かべた。
(この子達に罪はない)
 むしろ、罪人として裁かれなければならないのは、イノベイターを迫害している人間どもだ。リボンズは、世界の覇権を握ったら人類全てを滅ぼすことを固く誓う。
 けれど、それには何年、いや、何十年と言う月日がかかるかもしれない。或いは一瞬かもしれない。
 自分がいつ滅びるか、リボンズにだってわかりはしない。
(神は一人だけでいい――)
 己自身が神であれ。昔、どこかから聞こえて来たフレーズだ。リボンズがまだ非力であった頃、聞いたことのある声だ。今も脳裏に焼きついている。
(神はいない)
(俺が、ガンダムだ)
 ソラン・イブラヒム――いや、刹那・F・セイエイが発していた言葉だ。
 ガンダムと出会って、ソラン・イブラヒムは刹那・F・セイエイに生まれ変わった。
 自分も、生まれ変わった。イノベイターとして、刹那の敵として。
「あら、怖い顔――」
「ヒリング……」
 そんなに自分は険しい顔をしていたのであろうか。リボンズは紅茶カップを覗き込んだ。琥珀色の水面にはいつも通りのリボンズの顔が映っている。
「冗談よぉ、ただ、思いつめてた様子だったからぁ」
 ヒリングがころころと笑う。リボンズは普段通りの己に戻った。リジェネは何を考えているのかうっすらと微笑んでいる。その様はティエリア・アーデにそっくりだ。ティエリアは嫌がるかもしれないが。
 ティエリアはアレルヤ・ハプティズムを愛している。
 自分にも愛する者が出来れば、変わるのだろうか。
 リボンズは、愛する者を見出した存在全てに嫉妬の感情を覚えた。ヒリングにさえ、リボンズは羨望を抱いた。
(子供……子供は人を変える……)
 変わることなどない。そう思っていたヒリングでさえ、シャーロットに手なずけられた。子供と言うのは、愛すべき存在であると同時に怖いものだとリボンズは思った。
 そして――リボンズは己では決して認めたくない感情であるのだが、刹那には愛に似た感情を抱いている。
 だが、刹那にはニールがいる。だから、リボンズは刹那に対しても敵意を抱く。そして、ニールに対しても。
 ニールなど、あのまま宇宙空間に漂っていれば良かったのだ。リボンズはニールが生きていることを知りながらも放っておいた。まさか、宇宙の隅のコロニーにいたおせっかいの宇宙飛行士がニールを助けるとは思わなかったものだから――。

2022.01.04


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