ニールの明日

第三百三十八話

「わぁっ……いいお天気」
 アザディスタン王国の皇女、マリナ・イスマイールが、太陽に向かって手をかざした。顔の上にほんの少し影が落ちる。
 待ちわびていた季節がやって来た。風が若草の匂いの空気を運んでくる。
「いい気持ち……」
 内乱も今は小休止していた。クルジス側が――いや、元クルジス領側が停戦を申し入れて来たのだ。マリナにとって否やない。すぐに調印式を迎えた。
 アザディスタンはゲリラ兵にも悩まされて来たが、今は大人しくなっている。
(これから、平和の時代が来るのよね……)
 それは一時的なものかもしれないが、取り敢えず国民には安寧をもたらす。
(後は結婚……紅龍と……)
 それを考えると頬が熱くなってきた。嬉しくなってマリナは歌い出す。王紅龍への想いや、初恋の少年、刹那・F・セイエイへの想いを乗せながら。心地いい風が吹いていた。

 一方、トレミーでは――。
「起きたのか? 刹那」
 生まれたままの姿のニール・ディランディが訊く。
「歌が聞こえる……」
「――歌?」
「マリナと子供達が作った歌だ。今、マリナは一人で歌っている」
「ふーん」
 ニールは缶ビールの蓋を開けた。
「――マリナって娘は、お前の初恋の人だったな、刹那」
「……そうだ」
 刹那が肯定する。
「あの綺麗なお姫様か。……で、どのぐらい本気だった?」
「忘れたな。――憧れに近い想いだったような気がする」
「それは良かった。あのお姫様が相手じゃ、俺は勝ち目ねぇもんな」
 そう言って、ニールは刹那にキスをする。
「……ビールの味がする」
「嫌かい?」
「いや……」
 今度は刹那は否定した。
「お前がくれるキスだったら、どんな味でも構わない」
「かーっ、言うねぇ。好きだぜ。刹那」
 今度は、ニールは刹那の額にバードキスをした。
「……あまり恥ずかしいことは言わないでくれないか?」
「え? 恥ずかしいこと? 何? 俺がお前を好きだって話か? 照れんなって……今更だろ? ま、照れ屋の刹那も可愛いけどな。全く、相変わらずシャイなんだな。ベッドの時は違うけど」
 ニールがそこまで言うと、刹那がじろりと睨んだ。
「怒ったか? 怒った顔も可愛いぜ。刹那」
「…………」
「本気にするなよ。――でも、ピロートークしているうちに、また一戦したくなったな。なぁ、しようぜ、刹那。お前にその気がないなら諦めるけどさ」
 睨んでいた刹那の表情が、少し緩んだ。
「お前が言うんだったら……してもいい」
「ほんとか?!」
 刹那を抱ける。それだけで嬉しくなってしまう自分は可愛いものだと、ニールは思った。
「でも、それよりもまず……この歌声を聞かせてくれ……」
「歌声……」
 ニールは心の耳を澄ませた。そういえば、微かに歌声が聞こえる。透明感があって、伸びやかな美しい歌声だ。――マリナの声だ。
(ごめんよ。アザディスタンのお姫様――刹那を渡す訳にはいかねぇんだ。……刹那が誰を想っていたとしても)
 だが、刹那は今はニールを愛している。ニールにはそれがわかる。だから、幸せの絶頂にいるのだ。
(この先どんな運命が待ち構えようとしていても――)
 ニールには、自分の明日がおぼろげながら見えたような気がした。

『朝よー。起きたー?』
 インターフォンから明るい声がする。クリスティナ・シエラだった。
「何だ……クリスか」
『そぉよぉ。アレルヤとコック長が朝ご飯作って待ってんだから』
「……あの二人が組めば最強だな。今日は絶品の飯にありつけそうだ。
『――と言うようなことを私の旦那……リヒティも言ってたわよ』
「ははっ、考えることは一緒か」
『私もニールはそう言うんじゃないかなぁ、と考えていたのよ。まぁ、女の勘ね。刹那もいるんでしょ?」
「それも、女の勘とやらか」
『当たり。と言うか、あなた達トレミー公認の仲じゃない』
「うん、まぁ、知ってる」
 些か恥ずかしくなって、ニールはこめかみをぽりぽり掻いた。刹那はまだベッドで眠っている――と思ったら起きてきた。
「よぉ、おはよう、刹那」
「……やぁ。安心して眠れるって、幸せなことだな」
「そうかい?」
「俺がテロ組織にいた頃は、こんなに深くは眠れなかった。いつ敵が襲って来るかわからないからな」
 ――ニールは少し困ってしまった。刹那が昔の話をしてくれたのは有り難いが、何となく、この青年の闇の深さを垣間見ることが出来たような気がした。本当の刹那は、真っ直ぐで素直な良い男なのだが。
 ニールと同じくらい、刹那も切羽詰まった状況で生きて来たのだ。いや、ニールには幸せな少年時代があったが、刹那にはそれもない。
 アリーが悪いのだ、と思ったが、アリーの人間臭さに触れた後、ニールにはどうもそうは思えなくなってしまった。
(CB側も、沙慈・クロスロードを拉致したようなもんだからな――そんで、無理やりガンダムマイスターに仕立てちまった)
 戦争とはそう言うものだと納得しようとしたが、出来なかった。その事実を納得するには、ニールはあまりにも優しかった。
(くそっ、戦争なんて……早くなくなればいいのにな)
 そして、これからは戦争をなくすにはどうしたらいいかを考えることにした。言われるままにガンダムに搭乗しないで。
『早く来ないとご飯なくなっちゃうわよ』
「わ……わかった……」
 珍しく刹那が焦っている。昨夜、お腹の減る運動をベッドでしたせいだろうか。それに、刹那は意外と大食漢なのだ。
「いや、刹那。そんなに急がんでも……あの二人のことだから量もたっぷり作ってあるって」
「それはそうなんだが……いや、ニールの言葉を鵜呑みにしてのんびりしてたらいけないな。ただでさえアレルヤの料理は人気があるのに」
 ゆうべはティエリアはぐっすり眠っていたことであろう。リヒター、ベルベット、ソランの三人の子供はフェルトが面倒を見てくれている。心なしか、クリスの声も明るい。
(リヒティとクリスもゆうべはお楽しみだったようだな)
 もしかしたらリヒターの弟や妹が出来たかもしれない。そう思い、ニールはにんまりと笑った。
「どうした? ニール。ニヤニヤして」
「そうよ。何でそんなに脂下がっているのよ」
「……教えない」
 ニールはもし、自分のさっきの考えを言ったら二人からブーイングが飛ぶこと必至なのはわかっていたのだ。
『ライルとアニューはもう席についたわよ。ハロも一緒よ』
「ハロか! ハロには会いたいな」
 ハロは子供達の人気者でもある。可愛らしい、丸いフォルムのハロは、子供達のハートをがっちり掴んでいる。飛んでいる姿も可愛らしい。
 ニールにとって、今はハロがいなくても……と思ったことがあったが、ハロがいないとやはり寂しい時もある。
 ハロは今、ニールの弟ライル・ディランディが預かっている。
 ――ガンダムで戦う時、シンクロ率を上げる為だ。尤も、ハロはまだライルをニールと誤認している節もある。それくらい似ているのだ。ニールとライルの双子の兄弟は。
 ライルもアニューと幸せであるといい。特に、アニュー・リターナーの幸せをニールは願った。アニューの彼氏のライルの兄として。
(他に、ライルには何もしてやれなかったもんな……)
 ライルの寄宿学校の学費を支払うのは当然のことだったしな、と、ニールは思う。
「ニール……ライルはお前が自分の兄さんで良かったと思ってるぞ」
「う、え……? でも何でそんなことが刹那、お前にわかるんだ?」
「俺も日々進化している。ライルの……お前の弟が考えることぐらい、俺にはすぐにわかる。
『先に行ってるわね~』
 一際明るく、甲高い声を残して、クリスは去った。食堂に向かったのだろう。ニールは制服を着る手を止めて、刹那と目を見かわした。

2022.01.15


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