ニールの明日

第三百三十五話

「アニュー……」
 ライルが、アニューの中に吐精した。満足だった。
(ああ、このままこうしていたいなぁ……)
 ライルは、恋人のアニュー・リターナーをぎゅっと抱き締めた。ソランもベルベットも関係ない。ライル・ディランディは、ずっとアニューと過ごすことを望んでいた。
 けれど、アニューは気になるらしく――。
「ねぇ。今回も出来ないのかしら。私達の赤ちゃん……」
 ライルの双子の兄のニールにも、ソランと言う赤ちゃんがいる。それで、アニューは女として焦っているらしかった。
 アニューは子供が好きだ。
 ベルベットもソランもリヒターも好きだ。なのに、自分にはコウノトリが来ない。アニューは自分達の子供を望んでいる。それぐらいはプレイボーイと自他共に認めるライルにもわかっていた。
(だって、仕様がないじゃないか。兄さんに子供がいて、俺達にいないと言うことはさぁ……)
 こういうのは授かりものなのだ。アニューにもわかっているはずだ。
 それに、ライルは、実は子供を授かることを望んではいなかった。
 別段子供が嫌いな訳ではない。トレミーのクルー達の子供は普通に好きだ。けれど、ライルはアニューと二人きりでも良いと思っていた。アニューの焦燥が、ライルには理解が出来ない。
 ドンファンかカサノヴァか、と言われた自分が、アニューに惚れて、彼女の為なら何でもしよう。そう誓っていたのに――。
 アニューの欠点と言えば、その点ぐらいしかない。それは、自分の赤ん坊にこだわるところ、なのだ。
「ベルベットやソランがいるからいいじゃないか」
 些かへそを曲げたライルが膨れた。それに気付かないアニューではない。
「ごめんなさい、ライル……」
 ああ、まただ……。ライルは別に、謝って欲しい訳ではないのに……。
「いや、いいんだ。子供が出来ないのは俺が悪いのかもしれないんだから」
「そんなっ!」
 アニューは身を捩った。アニューもライルの心を知っている。それをわかっているからこそライルも――辛い。
(けど、子供が出来たって幸せになれるとは限らねぇしよ……)
 ライルは、カチッとライターで煙草をつけた。そして紫煙を燻らせる。
「ライルは、頑張ってくれていると思うわ……」
 そりゃ、子作りの為なら頑張るわなぁ――子供が出来たら出来たで良かった良かったで済むけれども……ライルは何となく、自分達には子供が授からないような気がしてならなかった。
(昔、散々遊んだ罰かねぇ……)
 アニューは、母親になる為に生まれて来た女だ。母性豊かで、料理上手で、働き者で――。
 スタイリッシュで、適当に遊んできたライルには過ぎた女だ。ライルの女性遍歴を聞いたら、アニューはさぞかし泣きながら怒るであろう。
(俺は、兄さんとは違う)
 兄のニールのように、恋人一筋と言う訳にはいかない。そんなに真面目でもない。けれど……。
 アニュー・リターナーには本気なのだ。ライル・ディランディと言う男は。
 プレイボーイが、生涯で一度しかないかもしれない恋をしたのだ。子供が出来ても、アニューは離さない。
(本気で忘れるくらいなら――)
 ライルは頭の中でリズムを取り始めた。二十世紀後半の歌だ。例え年月が経っても、人情の機微は変わらない。
 本気の恋をした自分は、何と幸せで、何と不幸な男だろう。
 ライルは灰皿の中に灰を落とした。この灰皿はアニューがいつも綺麗にしてくれている。
(いい女なのにな――)
 自分のような不実な男に捕まったのが不運だな、と、ライルはアニューに同情した。そうは言っても、アニューが自分から離れようとしたら必死で引き留めようとするであろうことを、ライルは自覚しているのだが。
 唯一の救いは、アニューもライルに対して一生に一度と言う激しい恋をしているところだ。
 子供などいなくても関係ない。ライルはアニューに恋をしている。アニューもライルに惚れている。何でこんな幸福が自分みたいな不誠実な男にこんな恋が出来たのだろうと、神に感謝したくなる。
 ――まぁ、兄に代わってガンダムに乗って戦う男、ライルに神も何もないのだが。
 そういえば、兄の恋人の刹那・F・セイエイはガンダムをやたら神聖視していた。ニールが酒の席で、好物のオレンジスクリューを舐めながら、
(あいつはガンダムだぜ)
 と、言ったことも覚えている。二人揃って呆けてんのかと、少し引いた覚えがある。
 ガンダムエクシアは絹江・クロスロードと結ばれたが……。
 せめて絹江の弟の沙慈には、ルイス・ハレヴィと年相応の恋愛体験を築き上げて欲しいものである。
「アニュー……」
 ライルがアニューを背中から抱き締める。
「ライル……ごめんね」
「いいんだ、もう、いいんだよ。アニュー……」
 俺には君さえいればいい。そう言いたかったのに――言えなかった。
 そう言ってしまったら、今度は自分が血も涙もない人非人だということを認めるような気がして――。
 そうだ。ライルには、子供はいらない。アニューと二人でここで過ごせればそれでいい。
 勿論、子供が出来たらそれはそれでいいのだけれど。
 クラウスだったら何と言うだろうか。
 ライルは自分の上司だった男、クラウス・グラードの顔を思い出した。彼こそ男の中の男だと言う気がした。
 そういえば、カタロンの皆はどうしているだろうか。マックスは無事だろうか。ニキータが死んだ時のような哀しみは二度と味わいたくなかった。
(ニキータは天国で幸せに暮らしている)
 刹那はそう言っていたが、ライルにはそれがどうしても信じられなかった。あの少女は、実の父親に殺されたも同然じゃないか。
 ニキータの父親、アリー・アル・サーシェスは、実の娘に対するのとは思えない程、非道な行為を彼女にしていたのだから。けれども、ニキータは、最後までアリーを慕い続けた――らしい。
 らしいと言うのは、ニキータがアリーに捧げた純潔というのがよくわからないからだ。
 自分が、アリーを責められる立場にいないのは知っている。知っている上で、敢えて言う。
 アリー、お前は、実の娘を凌辱したのだと。
「……ライル?」
「おっと」
 考えがいつの間にか逸れていた。兄ニールと違って、一つの考えを突き詰めると言うのは苦手だ。
 自分は兄のようなお人好しではない。ニールはそのお人好しさ故に、何度も命の危険に晒された。一度など、本当は死んでいたのではないかと思った程だ。
 その兄の体を宇宙コロニーの人間が助けてくれなかったら、兄は今でも宇宙をさまよい続けていただろう。
 それが男のロマンであることも知っている。けれど、ニールは望んでそうなった訳ではない。それに――ニールには刹那がいた。
 あの情の深い兄が、刹那をこの世に一人置いて、自分はさっさと天国へ行くなど、そんなことをする訳がなかった。今のライルには、その、双子の兄の気持ちがよくわかる。
 ――自分にも愛する者が出来てしまったからだ。
 完全に独り身の時には、その自由さを謳歌していた。けれど、アニューに出会って、それがどんなに下らないことか、思い知らされた気がした。
 アニューの為なら何でも出来る。ニキータのことは完全にはわからないが、それでも半分くらいはわかる自信がある。そして、ニールのことも――。
(兄さん……愛に生きるなんて、俺達は妙なところで似ているね)
 昔はそんな生き方を馬鹿にしていたけれど。自分は独りで何でも出来ると思っていたけれど。
 ライルは自分の学費がニールが命を張って稼いだ金だと知って愕然としたし、昔は父や母や妹のエイミーがいた。勿論、エイミーは碌に相手もしてくれないライルよりニールの方が好きだったようではあるが――。
 ニールは、ライルを捨てたって構わなかった訳だが、敢えてそうしなかった。
「ニール……」
「ニール? 貴方のお兄さんね」
「ああ。未だに兄さんには敵わない」
 クルー達が密かに行っている人気投票でも、ライルはニールには敵わない。ライルは未だに余所者なのだ。そう思うと、ちょっと切なくなった。
「ライル・ディランディ。私の愛しい人」
 アニューはライルの長い茶髪を白く長い指で梳いた。母に甘えているようで、ライルは気持ちが良かった。現実の母がニールの方を愛していたとしても。
 母も、ライルのことを時々ニールと間違えた。けれど、アニューは絶対にライルをニールと間違えたりしない。
 例え同じ顔だとしても、アニューはニールとライルを見分けることが出来る。その上で、ライルを愛してくれているのだ。
 密かにニールに想いを寄せていたらしいフェルトだって間違えたと言うのに――。
 ああ、そうか――。
 ライルがアニューを好きな訳。アニューは密かに思い描き、恋焦がれていた、自分の理想の母なのだ。けれど、アニューはライルをマザコンだと馬鹿にしたりはしない。
 学生時代にはいた。美しいのを鼻にかけ、マザコン男を馬鹿にする男。それでいて、整った顔の男に引っかかって、その男もマザコンなのに、男を一生懸命弁護して痛い目を見るのだ。
(――俺も、随分そんな女を誘っては捨てたもんだ)
 ライルも、そんな下らない女と同類であったからだ。当時アニューに会っていたら、他の女になど、見向きもしなかっただろう。
 尤も、アニューが美女でなかったらどうなっていたかわからないが。
 アニューは絶世の美女だ。美男美女揃いのアロウズの中でも抜きん出て美しい。アロウズの方が給金は良かっただろうに、アニューはCBに残った。王留美がそれを許した訳は――またしても、よくわからない。
 ライルにとって、この世は単純明快なところだ。アニューはたった一人の家族。ニールのことなどは眼中にないが、ニールも刹那やソランしか目に入ってないから、お互い様と言うところだろう。
 いや、ニールは刹那やソランを見ていても、アレルヤやティエリア、沙慈やクルー達のこともちゃんと見ている。アニューだけしか見ていないライルとは大違いだ、とライル自身もそう思う。
 それに、ニールは思い出に捕らわれている。
 兄弟の中で出来がいいと言うのも考えものだな、とライルは思う。ライルは比較的放っておかれた。生まれて初めてパンケーキを作った時も、家族はニールの作った物しか食べなかった。ニールのを食べてお腹がいっぱいだからだと言うのだ。
 それが家族の思いやりと言う物だとライルが思い至ったのは、それから何年も経ってからのことだ。あのパンケーキは黒炭だった。作った当の自分でさえ食べる気がしなかったが、食物を大事にしなさいと言う両親の命によって、泣く泣く食べた。
 パンケーキが焦げていて不味かったということと、結局、家族は自分の作った物を受け取らなかったことをみじめに想い、バクバク食べた。――今だったら、アニューがライルの為に美味しいパンケーキを作ってくれる。

2021.12.14


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