ニールの明日

第三百三話

「えーっ?! りゅーみんおねえちゃま、あかちゃんができたの?」
 アレルヤとティエリアから事情を聞いた菫色の髪をおかっぱにした幼児、ベルベット・アーデが目を丸くしながら叫んだ。アレルヤは緑がかった黒髪なので、多分母親に似たのだろう。
「そうだよ。ベル」
 アレルヤが苦笑しながらベルベットを膝に乗せる。
「ほら、ぷにぷにしてあげようね。ぷにぷにぷにぷに……」
 ベルベットがアレルヤに頬をつつかれてきゃっきゃっと笑う。アレルヤの気が済んだ頃、ベルベットはまた言った。今度はティエリアに向かって。
「かあさま。りゅーみんおねえちゃまのあかちゃん、どこにいるの?」
 ――ティエリアがはんなりと笑いながら答えた。
「王留美の腹の中だ」
「おなかにあかちゃんがいるのね? しゃべれる?」
「うーん、それはちょっと無理かなぁ……」
 アレルヤはベルベットの髪をいじりながら言った。フローラルな香りだ。ティエリアと同じシャンプーを使っているからかもしれない。
「……やってみる」
 そう言うとベルベットは目を閉じた。
「……ベル?」
「とうさま! はなせるよ! とうさま!」
「……え?」
「あかちゃん、いしきがあるの。はなせるの」
「意識なんて……難しい言葉知ってるなぁ、ベルは」
 つい脂下がってしまうアレルヤであった。
「君も立派に父親らしい顔になってきたじゃないか。……ベルベットがいつか元の世界に帰るのは、寂しいけど」
「だから……全てが片付いたら、ベルの本当の故郷へ行こうじゃないか」
「とうさまたちもくるの?! べるがいたところに!」
「ああ、そうだよ。ベル」
「やったあ!」
 ベルベットはアレルヤの膝の上から起き上がろうとした。嬉しそうに万歳をして。いくらここには面倒を見てくれる人達がいっぱいいるとしても、本当の両親に通信機であるペンダントを通してしか会えないベルベットは、さぞかし悲しかったことだろう。
 ティエリアが溜息を吐きながら、脳量子波をアレルヤに送った。
(――イノベイター狩りでベルベットの本当の両親が死ななければいいがな)
(ティエ……滅多なことを……!)
(有り得ないことではないだろう。僕達だって命を張って戦ってきた。今は――小休止ってとこだな)
(う……だから、ティエリア……僕達がベルベットの本当の両親であるもう一組の僕達を助けるんだ)
(そう上手く行くかよ)
 アレルヤと同じ声だが、アレルヤより粗野な言葉遣いの脳量子波が飛び込んできた。
(――ハレルヤ!)
(よぉ。お前ら……本当は本当の両親である平行世界のお前さん達が死んでることを密かに望んでるんじゃねぇか?)
(……そうかもしれない……)
(ティエリア……)
 アレルヤは眦を上げてティエリアとハレルヤを窘めた。空気が変わったのを感じたのか、ベルベットは不安そうな顔になった。
「とうさま……?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事で……」
「はれるやおにいちゃまのこと?」
「ハレルヤを知っているのかい?」
「うん! とてもやさしいおにいちゃま!」
 ベルベットの顔に笑いが戻った。しかし――アレルヤは思った。
(意外だ……!)
(おい、俺様のことじゃねえからな!)
 ハレルヤの怒声が頭の中に飛んできた。
(ああ、しかし、意外だ、意外だ……)
「こっちのせかいのはれるやおにいちゃまもやさしいの。いつも話しかけてくれるの」
(ほんとかい? ハレルヤ……)
 ベルベットの言葉に吃驚して、アレルヤが訊いた。
(……ふ、ふん……退屈だから仕方なくだな……大体こんなお荷物送って来たのは別の世界のおめぇらじゃねぇか! 責任取って何とかしろよ!)
 ――ハレルヤが照れて饒舌になっているのをアレルヤは何となく感じ取っていた。アレルヤはくすっと笑った。ハレルヤは口は悪いし大暴れもするが、根は悪い男ではないのだ。彼の本体でもあるアレルヤがよく知っている。
(な、何だよ、アレルヤ……)
(いや、キミが小さい娘に優しいと知って驚いたんだよ……)
(そうだな。アレルヤ。――ハレルヤがロリコンだと知らなかったぞ)
(何だと?! ティエリア! てめぇなんか名前で呼ぶのも勿体ねぇぜ。この男女!)
(別段男女でも構わない。アレルヤはそんな僕を愛してくれているからね――)
 それに、ハレルヤも本当にベルベットを愛しているはずだ。ベルベットはハレルヤの分身――アレルヤ・ハプティズムの娘だからだ。
 別の世界から来たと言っても、アレルヤと、向こうの世界のアレルヤは同一人物と言ってもいいだろう。しかし――。
(テセウスの船――)
 確か、21世紀にそんなタイトルのドラマがあったはずだ。アレルヤは自分でも懐古趣味だと思っている。元はギリシャ神話だったと思う。――全ての構成要素が置き換えられた時、その船は同じ船かどうか、否か――。確か、テセウスのパラドックスと呼ばれている。
(平行世界の僕達は、本当にこの世界の僕達と同一人物なのだろうか……)
(む……それは僕も考えたことがある)
 ティエリアの美声がこちらまで届いてくる。ベルベットがアレルヤを見上げている。
(んなこと、難しく考えなくてもいーんだよ! それよりアレルヤ、お前はベルベットの世話でも見てろ。一応父親なんだろう? あのチビのさ――)
(ありがとう。ハレルヤ。君はやっぱり優しいから……)
(気色わりぃこと言ってんじゃねぇよ……)
 だが、声の感じで、アレルヤは、ハレルヤが満更でもないことを感じ取った。
(でもね、ハレルヤ……ベルに危害を加えたら許さないよ?)
(わぁってるよ。お前さんの怖さはよぉくわかってるからな)
(……僕のどこが怖いんだい?)
(アレルヤ・ハプティズム。君は充分怖いぞ。自覚はしてないようだがな――)
 ティエリアが割り込んで来た。
「ティエリア、ちょっとベルベットのこと、見ててくれないか。今、美味しいジュースを作ってあげるからね。野菜ジュースだよ」
 アレルヤの言葉に対して、ティエリアの表情が少し綻んだ。
「了解した」
「かあさま、かあさま」
「ん? ――アレルヤの野菜ジュースが来るまで、相手してやってもいいぞ」
「かあさま、男女って何?」
「ハレルヤが言ったのを聞いていたのかい?」
「うん」
 ベルベットは素直にこっくりと頷いた。
「――僕は、男でもあり、女でもある存在なんだ。声は男だがな。周りにも男と言っている。だから、そのう――本当は赤子を産むことも出来る」
「りゅーみんおねえちゃまとおなじ?」
「ああ、王留美にはこんな話をしたことはないが」
「ティエリアが妊娠したら騒然となるかもねぇ……」
 アレルヤはそう言いながら野菜をミキサーにかけた。野菜が苦手なベルベットも、野菜ジュースなら喜んで飲むのだ。
「とうさま、りひちゃまのぶんもつくってあげて」
 ミキサーを止めたアレルヤが笑いながら、「了解した」と答えた。
「む……今のは僕の真似だな」
「ごめんね。気に障った?」
「別に謝らなくていい。どっちでもいいことだ」
 栄養いっぱいの野菜ジュース。アレルヤの愛情がたっぷり詰まった野菜ジュース。アレルヤはティエリアとリヒターの為にも作ってやる。
 やがて――。
「出来たよー」
「わーい」
「――僕の分もあるんだろうな……」
「勿論だよ、ティエリア!」
 嬉しそうにアレルヤが照れながら訊いたティエリアに答えた。ベルベットはリヒターにジュースを持って行くと言って――転んだ。野菜ジュースのコップの中身がこぼれてしまった。

2020.05.13

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