ニールの明日

第三百二十三話

「ぱっぱ~、まんま~」
「ん~、ソラン。ぱっぱはここだぞ~」
「まんま~」
 ソラン・ディランディの『ぱっぱ』はニール・ディランディで、『まんま』が刹那・F・セイエイである。刹那が直接腹を痛めて産んだ子ではないが、ニールも刹那も、とても可愛がっている。
「なぁ、刹那。心配事があるんだけど……」
「何だ? ……あ! この子が急に元の世界に帰ったらどうしようとか、そんな話か?」
 刹那が神妙な顔つきになる。
「そうじゃないんだ。ソランがこのまま幼児語が抜けなかったらどうしようかと――」
「何だ」
「何だとは何だ! この先ソランが馬鹿にされたら可哀想だろう!」
「大丈夫だ。あと数年もすればちゃんと『パパ』『ママ』と言うようになる。お父さん、お母さんかもしれない」
「ほんとか?」
「信じろ。それに、ソランがぱっぱ、まんま、と言うのだって可愛いじゃないか」

 ところ変わって、グレン達の天幕――。
 王留美はグレンとダシルにシャールの世話を任せて、端末を開いていた。赤ん坊の匂いがする。
「お兄様」
『――留美。赤ん坊が産まれたんだってな。おめでとう』
 兄の紅龍も嬉しそうな顔をしていた。祝福してくれているのだろう。
『昨日はとっておきのシャンパンを開けたよ』
「まぁ、嬉しい。――ところで、お兄様の方はどうですの?」
『うーん、今のところちょっとな……。一刻も早く、マリナと結婚したいのだが』
「まぁ、そちらはそちらで大変ですわね」
『ああ。降りられるものなら降りたいよ。けれど、自分で選んだ道だ。――頑張るよ』
「ええ。大変なところ、押し付けてしまって悪いんですけど。けれど、お兄様なら何とかやっていけると思いますわ」
『世辞が上手くなったな。留美』
「満更お世辞でもありませんことよ。少々マリナ様の気持ちがわかるくらい」
『おいおい……』
 シャールが泣き始めた。グレンがおろおろし出しているようだ。
「おい、留美。シャールが泣いているんだが、どうすればいい?」
 グレンは赤ん坊の扱いに慣れていない。銃火器の扱いには慣れていても。
「俺が抱きますよ」
 ダシルがシャールを抱っこする。シャールはぴたっと泣き止んだ。その様を留美は端末で送った。シャールはいい子だ。いや、シャールも、だろうか。ベルベットもリヒターも、ソランも王留美にとっては可愛い。
「おお、可愛い可愛い」
 ダシルがあやすと、シャールが微笑んだような気がする。
「ねぇ、ダシル。赤ちゃんて、笑うんですの……?」
「……赤ん坊にも、楽しいことがあるのかもしれませんね」
『まぁ、とにかくおめでとう。俺もいつかは自分の子供を持ちたいものだ』
「お兄様とマリナ様に似た子なら、さぞかし可愛い子でしょうね。シャールには敵わなくても……」
『一言多いぞ。留美。しかし、それでこそ我が妹』
 紅龍も笑っている。
「どういう意味ですの? お兄様。一言多いのは家系ですわね」
 紅龍と留美のやり取りを聴いているグレンとダシルが笑った。ダシルは赤ん坊の扱いに慣れているらしく、シャールが泣いても動じなかった。流石、シャールの教育係。
「それにしても、クラウスとシーリンはどうしてらっしゃいますの?」
『ああ……』
 紅龍はどっと疲れた顔をした。一瞬で十年くらい老けたみたいだ。けれど、それは留美にとっては関係なかった。
「お兄様、気つけにシャンパンを」
『そうだな。ちょっと持ってくる』
 紅龍の姿がモニターから一旦消えた。――留美はしばし待った。シャンパンの瓶とグラスを持ってきた紅龍が戻ってきた。
『クラウスもシーリンも頑張っている。俺より頑張っているかもしれない。あの二人のことを思うと、自分がどっと老け込むようだよ。――だが、トラブルの解決に向けて頑張ってるんだ。二人とも』
「何かありましたの?」
『この世では、何もない日なんてないさ。元CBの当主なのに、そんなことも忘れてしまったのかい? 留美は』
「ええ。私がCBの当主だったのはずっとずっと昔のことですからね。私はもうおばあさんですわ」
 紅龍のあてこすりに、留美は皮肉で返す。
「それで、マリナ様とも結婚が出来ないのですね」
『ああ。シーリン達とダブル結婚式を挙げる約束をしてしまったからね』
「マリナ様はどうしてらっしゃるの?」
『歌を作ってるよ。今、アイディアが湧いて来て仕様がないって』
「綺麗な声ですものね。マリナ様。――けれど、マリナ様を呼び捨てでいいんですの? 一応は皇女なのですよ。マリナ・イスマイールは」
『お前の方が酷い。マリナは一応ではなく、れっきとした皇女だ』
「――失礼しました」
『いや、いいんだ。今、ガンダムが造られた日を祝って、パレードの準備を行っている。ダシルの生誕祭でもあるがな』
「まぁ……すっかり忘れてましたわ……」
 留美は本当に忘れていたのだ。
『まぁ、いいさ。お前も出産で大変だっただろう』
「ええ。あの痛さと解放感は男の方は味わうことが出来ませんでしょうね」
『そこまであからさまに言うことではないんだが……』
「では、もっとあからさまに言いましょうか?」
『変わったな、留美』
「出産と言う、女にとっては一大イベントをこなしましたからね。母は強し、ですわ」
『……留美が逞しくなって良かったよ。では、残りのクリュグをいただくとしようか』
 紅龍はクープを傾けた。
『流石に旨い』
「狡いですわ、お兄様」
『気つけに勧めたのはお前だ』
「そうですけど……流石にクリュグとはねぇ……お兄様もやりますわね」
 そう言って笑った留美の肩に、グレンが手を置いた。
「留美。これから俺がいっぱい稼いで、クリュグをたんと飲ませてやる。シャールのことも立派に養ってやる」
「いい父親じゃないか」
 と、紅龍。
「いいのよ。グレン。私はもう既に貴方から沢山の幸せを戴きましたわ」
「――子種もな」
 グレンの口角が上がった。
「……まっ、やぁね。男ってどうしてこう言う猥談がお好きなのかしら」
「自然の節理だ、仕様があるまい。男は、女よりも遥かに性的な欲望を持って生まれて来たんだ。でなかったら、俺もお前もこの地上に生まれてはいまい。俺は処女懐胎を信じている訳ではないからな」
「グレン……お兄様の前ですのよ!」
 留美が窘める。
「いや、なかなか面白かった。いつか俺もマリナとこんな風に夫婦喧嘩をしたいと思っている」
「留美もだが、紅龍、アンタも変わってんな」
『――どうも』
 そうですわね。夫婦喧嘩に憧れるなんて――と、留美も変わっていると思った。けれど、それは伴侶がいなければ出来ないことなのだ。
(やはり私は幸せですわね……)
 頼りになる夫がいて、思いやりのある友達がいて、可愛い息子までいる。
 グレンが耳元に口を寄せて囁いた。
「いつか、シャールにも兄弟を作ってやらないか?」――と。
 留美は、かあっとのぼせそうになった。けれど、それはシャールが或る程度育つまで待ってもらおうと思った。
 出産は留美にとってもかなりきついものだったから――。シャールがお腹の中にいる時も、いろいろ大変だったし。
『グレン。俺も処女懐胎は信じていない。神様だって信じているかどうか危うい』
「――そうですわね……私もですわ」
 けれど、では、息子の体は誰が創ったのだろう。息子の命は? 意識は? ――いろいろ考えると、神に人格はなくとも、神の領域と言うのは本当にあるのかもしれない、と思わざるを得ない留美であった。

2021.06.05


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