ニールの明日

第三百二十七話

 ――扉が、シュンと開いた。
「そらんちゃま~」
「べる~」
 ソランとピンク系の洋服を着た幼女――ベルベット・アーデが抱き合った。
「やぁ、ベル」
「にーるおにいちゃま~」
「よしよし、ベル」
 ニールはベルベットを抱き上げて、自分の頬にベルベットの頬を擦りつけた。ベルベットがきゃっきゃっと笑う。――ベルベットはいつもお菓子の匂いをさせている。
「にーるおにいちゃま、おひげちくちくくすぐったいの~」
「あ、そっか。今日はまだ髭剃ってなかったな」
「別にそんなに気にすることでもあるまい」
 刹那が微笑みながら言う。ニールはベルベットを床に下ろした。
「とうさまもおひげはえてるの」
「そうだな。男は皆ひげが生えてる」と、ニールが答える。
「せつなおにいちゃまにはないの~」
「刹那は体毛が薄いんだよ」
「それを是非真近で見たいものだな」
 グラハムが余計な一言を口にする。ニールはグラハムに向かって睨みつける。いくらグラハムでも、刹那は渡さない。ニールはそう誓っている。刹那は誰にも渡さない。例えそれがマリナ・イスマイールの如き美女であってもだ。マリナはマリナで、王紅龍と上手く行っているらしいのだが――。
「グラハム、刹那には当分近づくな」
「わかってる。ただ、私の魅力に惹かれて少年が私のことを好きになるのなら、文句はないだろう? 私は男にも女にも――神にすら愛される男だからな。少年よ。ニールが嫌になったらいつでも私のところに来たまえ」
「それはない」
 刹那がきっぱり断った。グラハムは目を大きく見開いた。わなわなと体が震えている。余程ショックだったらしい。グラハムは確かに美形だが、性格に問題がありそうだ。口調も何だかものものしい。
「少年よ。君はまだ私を拒むのか……敵同士として戦ったことがまだ尾を引いてるのか」
「関係ない。お前は変態だからな。グラハム・エーカー」
「何故……それを言うならニール・ディランディだって少年を好きにしている男色家の変態ではないか。私とどこがどう違う」
 グラハムは悲痛な声で切々と訴える。男色家の変態と言うところは自分で認めちまうのね――ニールは少々呆れてしまった。心の中で溜息を吐く。それは口には、はっきりとは出さなかったが。
 ソランはベルベットと言葉遊びをしている。ベルベットはソランに説く。
「あのね、そらんちゃま。ことばはちゃんとおぼえないとおとなになってからこまったことになるの。のうりょうしはでなんでもすませてはだめなの」
「うん」
 ソランは神妙な顔で答える。
「せつなおにいちゃまとにーるおにいちゃまともちゃんとおくちでおはなしするの」
「うん」
 脳量子波――?
 ニールはドキンとした。ベルベットはこの年でもう、脳量子波がどんな物かわかっているのだろうか――。
(ベルはイノベイターだったな……)
 だから、イノベイター狩りに捕まらないように、この世界にやって来た。アレルヤとティエリア――特にアレルヤはベルベットが来たことで欣喜雀躍していたが、その反面、少々この娘が心配でもあるらしい。
 ソランは……ベルベットについて来たらしい。ベルベットがそう言っていた。
 ソランには何も危険が及んでいないのだろうか。科学者連中がソランの秘密を知ったら、こぞって実験台にするであろう。ビリーはソランの秘密を知っている。知っていた上で敢えて手を出さない。モラルのある科学者なのだ。
 だが、ソランの話をしている時のビリーの目の輝きを見て、ニールは平行世界から来た我が息子の身の危険を案じない訳にはいかなかった。
 勿論、ビリーはソランに人体実験などは絶対しないと信じてはいるが。だから、ソランの秘密を話した。
(勿体ないね……ソラン君の秘密がわかれば、人間と言うものの絶対性が崩れ、その中から新たな可能性が見いだされるかもしれないと言うのに……)
 所詮は、ビリー・カタギリも科学者だと言うべきだが、好奇心をモラルで抑える理性は備わっている。ニールはビリーのそんなところを信じている。
 それにしても――。
「ベル。脳量子波って何だか知ってるのかい?」
「うん。あたまのなかでおはなしするんでしょう? べるもそらんちゃまものうりょうしはでいっぱいおはなししたの」
「そ、そうか……」
 のけ者にされたようで、ニールは些か落ち込んだ。それは、子供は秘密を持つものだし、持つべきだ、と声高に叫ぶ児童心理学者もいないではないが、ニールはソランの全てを知りたかった。刹那の全てを知りたいのと同じように。
(俺は、ソランのことを全然知らない……)
 ニールは改めて思い知らされた感じだった。そう言えば、ソランが何故猫になるかも知らない。ソランはあまり知られたくないようだった。ここでは、猫に変身出来るのはソランしかいない。ソランはソレスタルキャットである刹那に似たのだ。
 ソランは、思ったよりも繊細なのだ。ベルベットには仲間意識を持っているらしいのだが。同じ、少数派で苦労している者として。年齢も近い。
「では、私は帰るとしよう。私は邪魔者のようだからな。――話はそれだけだ。刹那・F・セイエイにニール・ディランディ。また酒でも酌み交わそう。少年。寂しい夜は私の部屋に来てくれても、私はちっとも構わないぞ
「誰が行くか!」
 刹那の代わりにニールが答えた。グラハムは、ははは、と声高に笑いながら出て行った。
「べるねえ、そらん!」
 また扉が開いて、こんどはリヒターが入って来た。
「とちゅうでぐらにいにあったよ。――もう、ずるいよ。べるねえにそらん。ぼくをなかまはずれにするなんてさー」
「ごめんなさいなの。りひちゃま。わるぎはなかったの」
 ベルベットはしょもんとなった。
「もう。べるねえはそらんがきてからそらんにむちゅうなんだから……」
(ははぁ、リヒターはベルが好きなのか?)
 リヒターがベルベットに恋をしていても、ちっとも不思議ではない。だが、リヒターはソランの前に座った。
「なぁ、そらん。ぼくのこときらい?」
「ううん、すき」
「じゃあ、どうしていっしょにあそんでくれないの?」
「――わかんない」
「りひちゃまごめん、りひちゃまごめん。りひちゃまをなかまはずれにするきはなかったの」
 ベルベットがぽろぽろと涙をこぼした。
「ほんとだね? べるねえ」
「うんっ!」
「だったらさぁ、ジェンガしようよジェンガ。ぼく、もってきたんだ。ソランはジェンガってわかる?」
「――ん」
 そういえば、リヒターはリュックを背負って来ていた。子供達三人はがやがやと賑やかに騒ぐ。ニールは刹那と目が合った。刹那にも言いたいことはあるらしい。
「何だ? 刹那」
「――そっちから言え」
「じゃあ……」
(脳量子波で話してもいいか?)
 ニールは台詞の後半は脳量子波に切り替えた。子供達に聞かれたら困る話題であったからだ。
(聞かれたくない訳でもあるのか?)
(――まぁ、そうだ)
(じゃあ、そうしてくれて構わない。ニール。お前は一体何が言いたい?)
(ベルやリヒター……あいつら異常じゃねぇか?)
 言うのが怖くて、ニールは掌に汗をかいていた。
(……どこら辺が異常だと言うんだ)
 刹那は怒気を隠した想いを抱えているようだ。
(だって、な――あいつらの会話聞いてみろよ。……俺はてっきり十歳ぐらいの子供達が喋っているのかと思ったぜ。いや、十歳でもどうかな……あいつら、まだ年端もいかない幼子だろうがよ)
(…………)
 刹那は黙ってしまった。――が、また脳量子波で話し出した。
(確かに――な。それは俺も考えたことがある。最初は、頭がいいだけかと思ったが……確かにあいつらの会話を聞いていると、普通ではない、な)
(だろう? 刹那もやっぱりそう思うだろう? ことにベルがそうだ)
(ベルベットのことを異常と言ったら、ティエリアが怒るな)
(――だな)
 アレルヤだって激昂するかもしれない。あの男は怒ると怖いのだ。温和な性格である人間ほど、怒ると怖い。
(ベル――あの娘は今いくつだ)
(知らん。でも、四歳ぐらいにはなっているだろうな)
(ソランとも脳量子波で喋っているらしいしな)
 ニールは苦々しい想いを噛み締めながら、頭の中で言葉を紡ぐ。要するに、ニールは妬いているのだ。ベルベットに妬いているなんて、ニールは知られたくなかったが、刹那には伝わっただろう。でも、刹那はそのことに関しては何も言わなかった。
(ELSに、訊いてみるか? 俺達より少しは詳しいかもしれない)
(ELSね――あの金属の塊か)
(乗り気じゃなさそうだな。ELSは嫌いか?)
 好きも嫌いもなかった。ニールはどちらかと言うと、ELS寄りだった。けれども、この疑問は刹那と解決したかった。ELSに丸投げなどしたくなかった。だが、刹那の言葉に多少つむじを曲げたニールは、「もう寝る」と言ってベッドに横になってしまった。――トレミーの制服のままで。

2021.07.26


→次へ

目次/HOME