ニールの明日

第三百二十五話

 コンコンコン。ノックの音がする。
 刹那がソランとのトレミー内の散歩から帰って来たのだろうか。――いや、相手が刹那なら、わざわざノックはしないはずだ。と、すると誰だろう。
「どうぞー、開いてるぜー」
 どうせ今は敵襲もない。ドアから現れたのは意外な人物だった。グラハム・エーカーであった。
「ミスター・ブシドー……!」
「……グラハムで良い」
「ミスターブシドー!」
「……人の話をちゃんと聞いているのか? ニール・ディランディ」
「ああ。今のは冗談だ」
 ニールの台詞に、グラハムは顔をしかめる。グラハム・エーカーは、ミスター・ブシドーと名乗って、刹那達CBと敵対したことがある。ミスター・ブシドーはアロウズの一員であった。が――。
「まぁいい。話がある。……少年はどうした」
「愛息子と散歩中。それに、刹那はもう少年と言う年じゃねぇぜ」
 ニールはつっけんどんに言った。
「私にとっては少年はいつまでも美しい、刹那・F・セイエイのままだ」
(俺にとって王留美がいつまでもお嬢様であることとおんなじか――)
 ニールはほんの少しだけ、グラハムに親近感を持った。
「それは?」
 ニールはグラハムが抱えている瓶状の物を指差す
「賄賂だ」
「……酒か。悪いが、俺はミス・スメラギのようなアル中じゃないぜ」
「それは美女に対して大変失礼な言葉だな」
「よく言うよ。男色家の癖して」
「否定はしない。だが、少年は君とも子供が作れるなら、私とも子供が作れる筈だ」
「――刹那が承知しないだろう」
 それに、刹那は俺にべた惚れだから――優越感を交えた感情をニールは抱えた。
「ソランは平行世界の存在だ。それにお前、猫アレルギーだったろ」
「うぐ……!」
 痛いところを突かれて、グラハムはぐうの音も出ない。ソランはソレスタルキャットで、キスをすると猫になる。猫好きのベルベットは年下のソランを可愛がっている。
「――これはワインだ。開けるか?」
「別にいいけどよ。もうすぐ刹那達が帰って来る」
「少年にも聞いて欲しい議題だ。だがまぁ、君との会話は手短に済ませよう。グラスは食器棚の中だな。ワインオープナーはどこだい? 出してくれ」
 グラハムは取り出したワイングラスにトクトクと赤ワインをあける。
「少年の分も残しておかなくてはな。少年とは言え、もう酒を嗜んでもいい年頃だろう?」
「刹那は酒よりミルクの方が好きだぜ」
「何と! 少年はミルクが好きなのか! 私のミルクを是非とも飲ませてあげたい……!」
「話はどうしたよ」
 グラハムが不埒なことを言うので、ニールは少し腹が立った。
(刹那は俺のものだ)
 一抹のジェラシーを感じながら、ニールは言った。刹那の心がグラハムにないとは言え、この世界の刹那は体は普通の男である為、グラハムも、彼を抱こうと思えば抱けるのだ。尤も、ニールはグラハムを恋敵として見たことはないが。
「そうだった」
 流れる鼻血を持ってきたティッシュで拭きながら、グラハムは本題に入った。
「ニール……君はイノベイターだね。確か、そう言う噂だったが」
「噂も何も……事実だよ」
 ニールは、自分がイノベイターであることを隠さない。例え複雑な心境があるとしてもだ。ビリー・カタギリが、これも冗談だろうが、
(君の体を調べたいな)
 と、言っていた。ビリーはグラハムのような男色家ではない。科学者としての純粋な興味があるのだろう。イノベイターであるニールを心から敬い、羨ましがっている。それに、ビリーが好きなのはスメラギ・李・ノリエガなのだ。
 ビリーはグラハムと違って円満な性格をしている。どうしてグラハムの親友なのか、ニールにはわからない。
「なんだ? グラハム。お前もビリーのようにイノベイターになりたいのか?」
「――いや、そう言う訳ではない。僕がなりたいのはむしろガンダムの方だ」
「『抱き締めたいな、ガンダム』と言ってたもんな……」
 刹那といい、グラハムといい、どうしてあんな鉄のロボットになりたいのだろう。ガンダムにも己の意志があるようだが。
(ガンダムオーライザーが話しかけて来た時はびっくりしたぜ……)
 だが、そのことをグラハムに言うのは止すことにした。
「……イノベイターになる人間が、どんどん増えている。俺の見立てでは、少年もそうだな」
 そこでグラハムはじろりとニールを睨んだ。
「ニール・ディランディ。少年の秘密を私に隠していたな。平行世界の実在も」
「――別に隠していた訳じゃないが、それをじっくり考えるには、忙し過ぎたんだ。俺はビリーと違う」
 ビリーのように研究に費やす時間はないし、ニールは実働隊だ。イノベイターになることは正直不安だったが、刹那と一緒にガンダムで戦っている間は忘れることが出来ていた。刹那はニールを信頼して、背中を預けてくれている。
「それはビリーに対する侮辱か?」
「そうじゃねぇ。グラハム。お前が悪いんじゃないのはわかるが、お前と話していると少し疲れる」
「……ビリーもそう言っていた」
「ビリーの気持ちもわかるねぇ」
「それはどう言う意味だ」
 ニールは、ビリーに対して、些か礼を失した発言をしたことを心の中で反省した。ビリーはこの場にはいないが、グラハムが告げ口することもあり得る。けれど、ビリーは優しいし、寛大だから許してくれるだろう。
「――いや、そんなことはどうでもいいんだ。ニール・ディランディ。君に頼みがある」
「……何だ?」
 刹那をくれ、とかそう言う頼みだったら即座に断るつもりだった。そして、そんなことがあるとは思えないが、もし万一成人前にソランに手を出したら容赦しない覚悟は出来ていた。
「ニール・ディランディ。君は私の恋敵だが、敢えて膝を折る。人間とイノベイターが無事共存する方法を、一緒に考えてはくれないか」
 己に敢えて土下座するグラハムの姿に、ニールは本物の武士道を見た。
(こいつ、そんなことを……)
 ニールは自分の考えの浅さを愧じた。と、同時にグラハムのことを少し見直した。
(流石にアロウズにこの人あり、と言われた人物なだけのことはあるな……)
 ミスター・ブシドーとして活躍した期間も無駄ではなかったようである。
「……その申し出、喜んで承るぜ」
 ニールも本気でグラハムに従った。グラハムは、
「友よ……」
 と言って涙を一筋流した。赤く滲んだ鼻つっぺをしているおかげで、少々シリアス度は下がっていたが。グラハムは、今度はきちんと畳んだハンカチで涙を拭う。
「さぁ、立て。打ち合わせをしようじゃないか。もうすぐ刹那も帰って来る。そしたらまた話し合おう」
「ニール・ディランディ……」
(その人の言うことは信頼していいですよ)
 世にも美しき天上の声――ELSであった。
(アンタらか……)
 ニールは心の中で呟く。ELSの声は美しい。しかし、マリナ・イスマイールの声はもっと美しい。マリナはアザディスタンの歌姫だ。そして、アザディスタンの母だ。
(俺もマリナと刹那の関係を邪推したこともあったな……)
 だが、案外邪推でもなかったかもしれない。マリナは美しい女だ。男である刹那と、女であるマリナ。惹かれ合ったとしても不思議ではない。
(紅龍がマリナを受け止めてくれて良かったぜ……)
 王紅龍は無能と呼ばれた男。昔は妹に負けていると言われていたであろう男。――王留美の兄であることを名乗ることが出来なかった男。その男が、やっと日の目を見たのだ。
 無能なんてとんでもない。CBは昔より遥かに進歩した。妹より辣腕であると、情報通は語る。
 昔は紅龍はただの留美のお付きと思われていたのだが――。
(すごいね、紅龍。アンタ、かつてのお嬢様以上だよ)
 そして……いずれマリナと結婚する男。
「どうしたんだ? ニール・ディランディ」
「……紅龍のことを考えていた」
「そうか……私もあの男は甘く見ていたな。……イノベイターか?」
「わからない。多分違うと思う。だが、イノベイターであることを隠し通すことだってあの男なら出来る……と言う気がする。何て言ったって、お嬢様の兄だからな」
「なるほど」
 グラハムは頷いた。男色家だが金髪のハンサムで、頬の傷もかえって勇猛さを現している、一人前の立派な男であるグラハム・エーカーも、紅龍の実力は買っているらしい。紅龍の為に、そしてその妹の留美の為に、ニールは嬉しく思った。
 ――留美から便りが届いてまだ殆ど経っていない。
「せっかくのワインだ。飲まないか? 味は保証するよ」
 グラハムの言葉に、元々酒は嫌いではなかったニールもグラスを手に取った。

2021.07.02


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