ニールの明日

第三百九話

「はーい! 皆のアイドル、ネーナ・トリニティが来たわよ~」
 ネーナは片手を挙げてやって来た。
「ネーナは俺のだ。俺のアイドルだ」
 ミハエル・トリニティはそう付け足すのも忘れない。ミハエルにとってネーナは、妹でなければ嫁にしたいくらいの女なのだろう。それを人はシスコンと言う。
 広間に集まって刹那とソランを相手にしていたニールがげんなりする。
「別にアイドルじゃねぇだろ。お前……」
「いいや。さっきも言ったろう? ネーナは俺のアイドルだって」
「まぁ、喧嘩はよそうじゃないか」
 ヨハン・トリニティも言う。同じ意見のニールはひょいと肩を竦めた。
「流石ね、ヨハン兄。上手くまとめてしまったわね。――そちらがソランちゃん? 可愛いわね。赤ちゃんて本当にお乳の匂いがするのね。美味しそう。食べちゃいたいくらい」
「ふん、こんな乳臭ぇガキ」
 ミハエルは少々ご機嫌斜めのようだ。
「ネーナ。何も食べるものがなくてもソランは食うな」
「冗談よぉ。相変わらず冗談が通じないんだから。石頭ね」
「何だと……?」
「気色ばむな。刹那。……それに、今回は俺はネーナの言う通りだと思う」
 ニールは珍しくネーナと意見が一致したなと思った。
「刹那のことは諦めるわ。どうせ人のものだし。――だから、ソランをいただくわね。ねぇ、ソラン。将来はあたしが君のお嫁さんになるのよ~。どう? 嬉しいでしょ。こんな美人と結婚出来て」
「うー、うー……」
「ソランは嫌だと言ってるぞ」
 と、刹那がソランを抱きかかえながら言った。
「あら、贅沢な子ねぇ。こんな美人が結婚してあげる、と言ってるのに」
「俺は今度はソランの味方をするぜ」
「ニールって意見がころころ変わるのね。そう言うの、コウモリって言うのよね。昔の言葉で」
「うぐっ……」
 ニールはつい絶句してしまった。思い当たる節があるらしい。――あの南の島での出来事の時、刹那の命も奪えなかったニールだ。それが正しい選択だったと思っても、少々忸怩たるものはあるのだ。
(父さん、母さん、エイミー……そしてライル。家族の仇を討てなかったこの俺に、幸せになる資格はあるのか……)
 ニールは思う。それは、刹那の場合とは似て非なる思いだ。刹那は仇なのに……それなのに、惚れてしまった。どこから来たのかわからないけれど、ソランと言う可愛い息子もいる。
(――俺は幸せだ。なのに、この心の空虚は……)
 今までは、刹那が空っぽの自分を満たしてくれた。ニールは子供が好きなので、息子がいるとわかって素直に嬉しい……はずだ。
 だけど――。
(俺は幸せ過ぎんのかねぇ……)
 ニールはそんなことも考える。不幸になる要素なんて何ひとつないはずなのに。未来は前途洋々のはずなのに……。
 こんな時は――こんな時に頼りになる人間なんていやしない。
 いや、いる。
 双子の弟のライル・ディランディだ。
 ライルはアニューと言う女と結ばれたが、ニールとは双子だった。きっとわかってくれるはず。それに――。
(あいつも今、怖いくらいに幸せだろうな……)
 それに……アニューはライルに子供を産んでやれる。ソランみたいな異形の存在ではなく。
 ニールはソランの異質さも可愛いと思っているのだが――。
「ん~、ソランちゃん~」
「――馬鹿! やめろ!」
 ネーナと刹那が言い合っているのが聞こえる。何かあったのかと耳を澄ましていると――。
 ぽむん☆
 ネーナがソランにキスをしたので、ソランは白い猫に変身してしまった。
「にゃあ……」
 ソランは心細そうな声で鳴く。刹那が言った。
「責任取れよ……ネーナ」
「わかってるわよ。刹那ママ」
「俺はママじゃない」
「だって、ソランちゃんを産んだんでしょ? 立派なママじゃない」
「そうか……」
 ニールも、刹那はそう言われるのを嫌がると思っていたのに、刹那自身、満更でもないような感じである。
「なぁんで男の刹那がソランちゃんみたいな可愛い子を産んだのかは謎だけどね……」
「ネーナ! お前はそう言う穢れたことは知らなくていい! ネーナはずっと純真な俺の妹だ! しっしっ、離れろ、刹那・F・セイエイ。――ホモがうつる。その白猫もホモのカップルの間から生まれたんだからきっとホモ猫だ」
 今まで空気だったミハエルの言葉に、ニールはカチンと来た。
「あのなぁ、ミハエル――」
 ニールが言葉を継ごうとしたその時だった。ヨハンがミハエルの髪を引っ張った。
「い、痛い痛い! 頭がハゲちまう。許してヨハン兄~」
 気の済んだらしいヨハンがミハエルから手を離した。ミハエルが涙目で「おーいて」と言いながら青い髪を撫でている。こいつもハゲを気にしてるんだなと、ニールは密かにほくそ笑む。
 髪は男の命でもあるのだ。
「これでいいか? ニール・ディランディ」
「ヨハン……俺の為にやってくれたのか……」
「勘違いするな。弟がお前達に失礼な言動をしたから、教育的指導を施したまでだ」
 ヨハン・トリニティはこのトリニティ兄妹の中でも一番まともな存在だ。
「大丈夫。ミハ兄。よしよし――」
 ネーナがミハエルの頭を撫でてやると、ミハエルは一気に相好を崩した。
「いやぁ、ネーナに撫でてもらえるんだったら、俺、ハゲてもいいや」
 ミハエルがそう言うと、ネーナが一気にブリザードを背負う。
「ミハ兄がハゲたら……そんなのあたしの兄じゃないから……兄弟の縁すっぱり断ち切るから……」
「あー、冗談だって。俺はハゲねぇよぉ……」
 ミハエルがネーナにしがみつく。ネーナは「ふん」と言っていた。ネーナにとってミハエルはただ単に都合のいい存在としてだけ見られているらしい。なんとなくニールの心にも同情めいた心が湧く。
(俺はどうなんだろう……)
 ニールはつい、刹那とソランの方に目を遣る。刹那も、「ふん」と笑った。でも、その嘲笑はネーナと違って愛あるもので……。
(やっぱり俺は幸せ者だ――)
 なのに、どこか虚しい。いつぞや、ティエリアを贅沢だと詰ったニールだったが、本当に贅沢なのは己自身かもしれない。心の隙間から魔物が忍び寄ってくるような、そんな感じがした。
(刹那……ソランや他の連中がいなかったら、今すぐにでも抱きしめてやりてぇよ……)
 尤も、人がいたって誰がいたって、抱きつく時には平気で抱きつくニールだったが、刹那の方でけじめがない、と嫌がられるのだ。それでもいいのだが、父親の情けない姿をソランに見せたくはない。
 ――ニールにも、父親のプライドというものが芽生えてきたのだ。
(俺は……親父のような立派な父親になれるだろうか……)
 それを含めて、ニールはライルに相談したかった。
「俺、ちょっと出てくるわ」
「どこへ行く」
 刹那が訊いた。ニールが答えた。
「愛しい弟のいるところ」
「お前にとってライルはそんなに愛しい弟だったか?」
「まぁな。双子だからな。小さい頃は悩みを打ち明け合った仲だし」
「今はお前はライルにライバル視されているぞ」
「知ってる」
 ニールは広間を後にした。
 ライルにライバル視されている……ニールもそのことは知っていた。ロックオン・ストラトスと言う最高の名前を与えられても、ライルは所詮二代目。初代のロックオン――ニール・ディランディに敵う訳がない。
 ライルが学生生活や青春と言うやつを謳歌していた頃、ニールは命がけで狙撃手として働いていたのだ。年季が違う、と言っても過言ではない。
 でも、ライルは負けず嫌いなところもあったから、さぞ悔しかっただろう。表立ってはそんな素振りを見せないが。いや、ライルがこう言ったことがある。
(俺は、いつも兄さんに勝てなかったなぁ。兄さんは何でも持っていたと思っていた。頭の良さも、器用さも――親の愛も)
 両親はライルのことだって、平等に可愛がっていた。だけど……優秀な方に目が行くのは当たり前のことなのだ。ニールは手繰り寄せるように家族――父親との思い出を掘り起こす。
(ほう。98点か。ニール。大したものだ。こんな難しいテストでよくこの点数を)
(一問、ケアレスミスがなければ満点だったよ)
(それでも大したものだ。今度は満点取るように、頑張るんだぞ)
 ニールの父が幼いニールの頭を撫でた。その時、偶然ニールは見てしまった。78点のテストを隠す弟のライルの姿を。

2020.08.23

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