ニールの明日

第三百十話

(何隠したんだよ、ライル)
 ニールはわざとライルに声をかける。ライルがびくっとしたのが見えた。
(そうだぞ。ライル。何を隠したんだね? 隠し事は良くないぞ。父さんにそれを見せなさい)
 ライルは目に涙を浮かべながら、おそるおそるしわくちゃになったテスト用紙を父に渡した。
(78点……)
 父親はしばらく黙っていた。やがて、ライルの頭に父がぽんと手を置いた。そして言った。――次からは、頑張りなさい、と。ライルは体を震わせていた。恐らく屈辱を感じたのだろう。
 ニールとライルは何につけ比較されて来た。双子だったからというのもあったかもしれない。そして――ニールはいつも、ライルに対して優越感を持っていた。何故ならば、ニールはライルより優秀だと思われていたからだ。
 ライルはどれ程辛かったことだろう。
 ニールは家族が亡くなった時から、ライルの面倒は自分がみようと心に決めた。あの時の罪滅ぼしの為に。
(俺は、ライルを自分の優越感を満たす道具としか考えていなかった)
 ニールは、自分は本当に人を愛することが出来ていたのかと自省した。刹那相手にだって――もしかしたら、性欲解消の道具としか見ていないのではないか。
(いや、俺は刹那を愛してる。愛してる――はずだよな……)
 ニールはライルの部屋まで来た。そして、扉を開けるように言う。
 ――シュン! 扉が開いて、アニュー・リターナーの姿が現れる。ふわりと漂ういい香りは相変わらずだが、何だか憔悴しているようだ。
(今までいいことしていた……にしては浮かない顔だな)
 ライルに何かあったのだろうか。そう言う勘だけはうすれない。
「アニュー、ライルは……?」
「ちょっと熱を出して……寝ているの。きっと、ただの風邪だろうと思うんだけど……」
「――どいてくれ。アニュー」
 ニールがずんずんとライルの寝ているベッドに近づいた。ライルは赤い頬をしていた。
「何だ。兄さんか……」
「何だ、じゃないだろう。――大丈夫か?」
「うん……アニューが看病してくれているからな」
 そう言ってライルはにやりと笑った。
「あんまりアニューに心配かけないでやってくれよ。――ライル。話があったんだが、今はそっと寝かせておいてやる。ちゃんと養生して、熱下げるんだぞ。薬もちゃんと飲めよ」
「兄さん。アニューと同じこと言うな……」
「アニューには医術の知識もあるからな。アニューが風邪だと言うのなら、ただの風邪なんだろう。でもお前、体、だるいだろ?」
「ああ……だるいな……」
「俺は出直すよ」
「待って兄さん。話って何?」
「お前……それどころじゃねぇだろ……」
「そうよ。風邪だってこじらせたら馬鹿には出来ないのですからね。それに……これは言いたくなかったんだけど……21世紀前半に猛威を振るった新型コロナの可能性だって少しはあるんだから」
「そうか……」
「だから、ちゃんと診察しようと言ってるんだけど、ライルったら……」
「これはただの風邪なんだよ。アニューにもわかってるだろ? 俺が簡単に死なないことは」
「そうね。今回はただの風邪だと思うわ。私も。でも、私はライルが臥せっているところを見ていたくはないの。私は元気なライルが好きだから……」
「アニュー!」
「貴方の風邪、ちゃんと治すわね」
 そう言って、ライルはアニューの手を取った。
「なぁ、アニュー……こんなことして、風邪をお前にうつさねぇかな……」
「何を言ってるの。私は貴方の為だったら……それに、後でちゃんと消毒しておくから……」
 ライルとアニューは二人の世界を繰り広げている。
「愛しいアニュー……」
「ライル……」
 二人の顔が近づく。そこへ、ニールが大きな手で二人の間を塞いだ。
「そこまでだ。二人とも」
「何だよ。兄さん。邪魔すんなよ」
「馬鹿。アニューまで病人にさせたいか」
「あ……」
 ライルはつい失念していたらしい。アニューがくすくすと笑った。
「いいお兄様をお持ちね。ライル」
「え……あは、まぁ……」
 ライルは茶色の巻き毛を掻き上げる。ニールと同じ、茶色の長めの髪を――。
「――俺は、いい兄なんかじゃねぇよ……」
「……兄さん……?」
 それどころか、俺は酷い兄だったよ――ニールが心の中で呟いた。ライルにあんな屈辱を味わわせた自分は、いい兄なんかではない。だから、アニューとずっと幸せであって欲しいと、いつも思っている。
 何故なら、自分はもう充分幸せだから――。だから、ライルにも幸せになってもらいたい。
 でも、それは自分の役目じゃない。
「ライルを頼んだよ。アニュー」
「はい……」
「もう行く」
「兄さん――ありがとう」
 ライルの言葉を背に、ニールはひらひらと手を振った。

「ニール!」
 刹那が叫んだ。ニールが鷹揚に手を挙げる。
「おう、刹那。何だ? 血相変えて」
「――ライルが病気なのを忘れてたんだ。それで、お前を呼びに行こうと……」
「何だ。脳量子波を使えば良かったのに」
「ああ、そうか――でも……お前を直接迎えに行きたかったんだ。お前と……少しでも一緒にいたかったんだ……」
「刹那……」
 今なら、ライルの気持ちがわかる。そんな気がする。ニールも思いっきり刹那と熱い抱擁を交わしたくなった。愛の交歓をしたくなった。けれど、今はそれどころではない。
「悪い。刹那。一人にしてくれ。ソランのことはお前に任す」
「ああ、わかった」
 刹那はソランの母親でもあるのだ。ニール・ディランディの恋人であると同時に。――ニールは責任感が強く、上手く行かなかったことは全て己の責任と思い込んでいたのだが、刹那のおかげで人に頼ることを覚えたのだ。
(頼んだ、刹那――)
 ニールは自分の部屋に帰った。酒の匂いがする。――かえって安心して眠れそうだ。
 おやすみ、皆――。

(どうしました? ニール――)
(その声は――ELS?)
(ええ。貴方は……何か悩み事があるようですね)
(あ、まぁな――悩みのないことが悩み……ってヤツかな)
 美しい妻(男だけど)に、可愛い息子。今まで欲していた物を手に入れたはずだ。なのに――心が寒い。
 アレルヤやティエリアはベルベットがいて、あんなに幸せそうなのに――。
(貴方の幸せは、自分で見つけなければならないのですよ。……貴方はこれから、長い長い自分探しの旅に出かけるのです)
(自分探しの旅……)
(勿論、私達も手を貸します。でも、自分のことは自分でしなければならないのですよ。友達や恋人もそれは、大事ですが――。幸せは貴方のうちにあるのです)
 そう言えば、そんな言葉がどこかの本に書いてあったような気がする。
(けれど、矛盾するようなことを言いますが、人は一人では生きていけませんから――)
(ああ、わかってる。俺も、刹那がいなければ、生きていけないと思ったことが度々あるんだぜ)
(これからは、ソランも一緒です。彼は本当に、時空を超えたみなしごなんですから。帰る場所のあるベルベット・アーデと違って。ベルベットにも、試練は待ち受けているのですが――)
(ああ――)
 刹那とソランがいれば、永遠の孤独も癒される。己や刹那、そしてソランは、時空を超えた家族なのだ――。
(ELS……俺は今、幸せだよ)
(そのようですね。――安心しました)
(ELSもそのう……人のことで心配したり、安心することがあるんだな)
(ええ。だって――我々は友達ではありませんか)
(ELS!)
 ニールは、ELSが目の前に具現化したならば、抱きしめたいとまで思った。ELSは、実の母親と同じくらい、母親らしく、実の兄妹より親しみの湧く存在だった。いつか、ELSの言葉を覚えて、恩返ししたい。ニールはそう願った。

2020.09.17

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