ニールの明日

第三百十四話

 ――こそこそと出入り口から出ようとしている連中がいる。留美は目聡くそれを捉えた。
(――戦争屋かしら)
 それとも、泳がせていた敵方のスパイか。いずれにせよ、今は関係がなかった。
 グレンはすぐに店の酔客達と仲が良くなったらしい。強い酒を煽る。留美は遠慮しておいた。やがて、グレンは朗々と歌い出す。
 肉の匂いが、留美にとってきつくなった。留美は、
「すぐ戻るわ。貴方」
 と、グレンに言って、外に出ようとした。――ダシルもついて来た。「俺、留美様と話したいんだけど」と、言い置いて。
「ふう……」
 オアシスの空気。留美は新鮮な外の匂いを吸った。いろいろな人が通り過ぎて行く。荷物を持っていく者、ラクダを連れて行っている者――キャラバン隊の連中だろうか。ここは、南国の果実の匂いがする。
 男女二人が、ご機嫌の様子で仲良く留美の前を横切って行った。留美は何だか心が和んだ。あの二人も夫婦者だろうか。
「留美様!」
 ――ダシルが駆けて来た。
「ダシル! グレンをほっといていいの? あの人、帰り道迷わない?」
「ああ、グレン様でしたら、皆で飲んで騒いでますよ。それに、今日は旅籠に泊まる予定ではなかったんですか?」
 グレンは方向音痴なのだ。
「だから、しばらくはあの店にいるのではないかと――」
「でも、私達を探そうとするかもしれないじゃない」
「俺も、一応グレン様の許可は取りましたよ」
 ダシルはさらっと言った。どこかで異国的な音楽が鳴っている。生ぬるい風が通り過ぎて行った。
「それに、いざとなったらワリスさんがいますし」
「あの嫌な男ね――」
 留美は眉を顰めた。
「留美様が思う程悪い男ではありませんよ。あの方も――俺、留美様にお礼を言いに来たんです」
「礼……って?」
「グレン様と結婚してくださってありがとうございます。おかげ様でグレン様も変わりました。――いい方に。取り敢えず、ちょっと座りましょう」
 ダシルと留美は岩の上に座った。
「留美様のおかげで、グレン様も考えが変わったようで」
「そうなんですの」
「それに、留美様とお子様のことをとても気にかけていて――俺、父親って凄いな、って感心しちゃったんです」
「そうなの」
 留美は上の空で返事をする。ダシルはそのことに気に留めてもいないようだった。
「俺は、グレン様と留美様、そして、生まれて来る子供の為だったら、何でもします。平和を求める活動だってしちゃいますよ」
「そうですわね」
 留美は思った。人は何故、争うくせに、平和を求めるのだろう。
「留美様……完全な平和をグレン様に……あの方に差し上げてください」
「ええ。それはもう……」
「留美様」
 ダシルが留美をひたと見据えた。音楽が遠ざかって行く。
「グレン様を、宜しくお願いします」
 一時――時の流れは足を止めたかのようだった。それ程、留美にとってダシルの言葉は大きな意味を込めていた。
(それは、自分の代わりに――ってこと?)
 留美は黒い目を瞠った。
 ウェーブがかった髪、きらきらした瞳。ダシルは確かに留美に期待をしていた。こんな風に期待されるのだったら、必ず応えなければ――留美はそう思った。
 留美はダシルの手を取った。
「ご心配なく。ダシル。私はグレンの妻として、生涯あの方を愛します」
(そして、私はあの方に尽くして行きます――)
「何か、照れますね。こういうの……」
 ダシルは顔を赤くしながらそっぽを向いた。
「貴方は女性として魅力的過ぎます。相手がグレン様でなければ、刃傷沙汰で大騒ぎですね。しかも、安定期を迎えたら、ますます美しくなられるでしょう」
 そして、ダシルはにこりと笑って留美の手を離した。留美は柄にもなくドキドキした。しかし、不思議と、こういう時留美が感じる『不貞』と言う概念は頭に上らなかった。ダシルのことも家族と認めていたからであろうか。
 それに、手を握っただけで不貞も何もない。留美にはダシルが可愛く思えた。
 グレンと同じように、留美にとってもダシルは大切な弟分なのだった。
「赤ちゃんが生まれたら、遊んでやってくださいね」
「はい!」
 ダシルが元気良く返事をした。留美がくすっと笑った。
「さぁ、戻りましょう。こんなところでいつまでも私達が喋っていると、グレンが拗ねてしまうわ」
「そうですね。あの方は嫉妬深いですから」
 ダシルはすっかりいつもの調子を取り戻して、留美に向かってウィンクした。明るい普段のダシルが戻って来た。留美はほっとした。

「グレン様ー、行きますよー……」
 ダシルがグレンを呼ばわった。
「おお、わかった。じゃあな。貴様ら」
「おー、いつでも来ーい!」
「待ってるからなー!」
「早く戦争のない平和な世界を作ってなー」
 グレンはすっかり酔客達の心を掴んだようであった。美形で陽気、話も上手と来れば、これは人気の出ない方がおかしい。
(やはり私の選んだ方ですわ)
 留美は内心得意だった。そのことを表にあらわさなかったのは、元来の育ちの良さ、というものであったかもしれぬ。
 戦争のない平和な世界。
 それこそ、留美の、ひいてはイオリア・シュヘンベルグの構想――いや、理想ではなかったのか。
 しかし、その基を築くはずだったガンダムの存在が戦争の火種になってしまったのだから、皮肉な話である。
 南国の果実の香りは、刹那・F・セイエイを思わせる。ニールは今、刹那の肉体に酔っているのだろうか……今、トレミーがどこにあるかもCB当主を辞めた留美にはわからない。
「旅籠へ行こう」
 グレンが宣言すると、ダシルが案内人を果たす。どうせ、もう泊まるところは決まっているのだ。
「おや、グレン」
「やぁ」
「ダシルと奥方様も一緒かね」
「ええ……」
 留美は、一度ここに泊まったことがあるが、それだけで顔を覚えられてしまった。因みにこの旅籠は『龍の宿』という、何と言うか、恐るべき名前のところである。――もう老年にさしかかったでっぷりした旅籠の主が、にこにこしながら言った。
「名前、書いてくれんかね」
 留美がさらさらと三人分の名前を書いた。
「部屋は?」
「――どうする? お前ら」
 旅籠の主に部屋の数を訊かれて、グレンが言った。ダシルが答えた。
「三つでいいでしょう」
「あら、私は二部屋で構わないわ」
「――そうですか。そうですね。グレン様と留美様は夫婦ですからね。でも、グレン様。留美様は妊婦なんですから手を出してはいけませんよ」
「……俺を何だと思っているんだ……」
「あら、ダシル。妊娠中の性行為は臨月以外なら平気だと、どこかで読んだことがありましてよ。――尤も、今は私はそれどころではありませんですけれどね」
「だ、そうです。グレン様」
「部屋は二つでいい。俺も留美に無理はさせたくない」
「あなた方は運がいい。今日は空室がいっぱいありますからね。私にとっても運がいい」
「ダシルは一緒でなくていいの?」と、留美。
「俺は一人で構わないんで。グレン様のことは留美様に任せてありますしね」
「ふん、どうせ俺はお前らにおんぶに抱っこだ――料金は帰る時にな」
「ええ……ほら、鍵だ」旅籠の主は少々拗ねているグレンに鍵を渡す。「窓際の一番目と二番目は空いてますよ。部屋の番号は鍵に書いてありますので」
「そっか。ありがとう。ダシル、どっちにする?」
「俺はどっちでも」
「そうか。俺達は二人だから、出来るだけ広い方がいいな」
「どちらも同じ広さですよ」

2021.01.11

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