ニールの明日

第三百十五話

 旅籠の主が、グレンと留美を部屋に案内する。
「おお、いつもより綺麗になってるじゃないか」
 グレンが喜んだ。窓からは南国の風が通り過ぎる。熱い、ねっとりするような大気のような風だった。
「では、ごゆっくり」
 旅籠の主がお辞儀をして部屋を出て行く。ベッドは二つあった。だが、二人は窓際のベッドに座った。
「ふぅ……」
 グレンが息を吐いた。ここには、簡単なシャワー室がある。
「シャワー、浴びなくていいんですの? グレン」
「――そうだな。じゃあ、浴びるとするか。お前はどうする? 留美」
「お兄様に連絡差し上げますのよ」
 グレンがシャワー室に消えると、留美は端末を取り出してタッチパネルに指を走らせた。――兄、紅龍が出て来た。
「お兄様、お久しぶりです」
『留美……赤ん坊は育っているか?』
「はい。私の体の中のふかふかのベッドで着実に成長しておりますわ。今日、この街に来たのも、モレノさんに見てもらうことが目的で――」
『そうか。お前は今、幸せか?』
「はい、とっても!」
 留美は今、自分がありったけの幸福な笑みを浮かべているのを自覚した。男の子でも女の子でも、この子はやがて世界を変えていくだろう。
 人は、生まれた時から世界を変えていける存在なのだ。
 その証拠に、留美と妊娠した赤子はグレンを変えたではないか。あの生まれながらの戦士が、剣を捨ててもいいと決意する程。それがどんな重大な意味を持つか、留美はわかっていた。
(リムおばさんは喜びそうですわね――)
 グレンに戦争をやめる話を再三持ちかけていたリムおばさん。あんなに説得していたのに、留美の赤子には敵わなかった。リムおばさんはきっと、凄く感謝してくれることだろう。
「子供は順調に育っておりますわ。ちょっとつわりはあるのですが……あ、今は平気ですのよ」
『そうか……』
 紅龍はモニターの向こうで微笑んだ。
「お兄様はどうなんですの? マリナ様とは」
『ああ、こっちも上手く行っている』
 紅龍とマリナは、近々結婚すると言う噂が立っている。小姑もいるがね――と紅龍は笑った。小姑とは、シーリン・バフティヤールのことであろう。
 王紅龍とマリナ・イスマイール、クラウス・グラードとシーリン・バフティヤール。二組のカップルは一緒に結婚することになっている。アザディスタンの宮殿の人々はさぞかし忙しい日々を送っているであろう。国民も祝賀ムードだ。
 マリナは誰にでも好かれる。紅龍も性格がいい。シーリンは頭は固そうだが、その分しっかりしている。そして――クラウス・グラードはカタロンに所属している男だ。
 マリナはアザディスタンの皇女なので、紅龍との結婚は、今から賛否両論に分かれている。
『だが、俺達は年内には結婚出来そうもない』
「ちっとも上手くいってないではありませんの」
『仕方がないだろう。何たって、相手は一国の皇女様だ』
「そうですわね。それに、沢山の準備が……」
『ああ。それに、ここだけの話だが、マリナとの結婚話絡みで、殺し屋が俺を殺そうと狙っている』
「お兄様だけでないわ。私だってそうですのよ」
『大変だな。お互い』
「ええ――」
 そんな場合ではないかもしれないが、留美はふとおかしくなった。
『どうした? 留美』
「いえ――私やお兄様達の結婚は、世界を変えるかもしれませんわね。私達の属している上流階級の人間は特に――」
『そうだな』
「そうそう。今日、椿事がありましたのよ。何と、あのグレンが生まれて来る子供の為に、そして平和の為に剣を捨てるとまでおっしゃったのよ」
『グレンが……?』
 紅龍が目を瞠っている。
『それは……驚いたな。グレンは一生剣を捨てないとばかり思っていたのに――赤子の力は強いな……』
「ええ、お兄様」
『で、お嬢様。女梟雄としてのお前の意見は?』
「もう……私は既にお嬢様ではないわ。でも……私はグレンに惚れ直してしまいましてよ。戦いを止める……それが一番の戦いになることを知っていますから」
(そうでしょう? 刹那、アレルヤ、ティエリア、ライル――そして、ニール……)
『俺も……戦いはやめた方がいいと思う』
「――でしょう!」
『けれど、俺達は、戦うことしか知らない』
「……お兄様だったら、絶対わかってくださると思ったのに――」
『そうだな。俺の言っていることは理想だ。グレンのおかげでお前も理想に目覚めてくれて嬉しいよ』
「それで、ガンダムはどうしたら――」
『……戦いが終わったら用済みになるな。でも、俺はまだ、ガンダムは必要だと思っている』
「そう……ですわよね……」
 自分はもう女梟雄ではない。王留美はそう思う。刹那は悲しむかもしれない。刹那は、ガンダムに対して愛情に似た感情を抱いている。それは、ニールへの思慕とはまた別だが。
「でも、武力で戦争を止める時期は、もう終わったと思います」
『やれやれ。俺の台詞を取られたな』
 そう言って、紅龍は溜息を吐いた。
「元はと言えば、お兄様が主張していたことでしょう?」
『違いない。しかし、子供の力は本当に偉大だ』
「まぁ……」
『元気な子を生むんだぞ。留美』
「はい。わかってます」
「留美。シャワー浴びて来たぞ」
 グレンがタオルで髪を拭きながらやって来た。
『亭主の御帰還だな。じゃあな。留美。くれぐれも体には気をつけて』
「ええ、お兄様も――」
 紅龍が端末を切った。留美は自分の端末をじっと見ていた。――ガンダムマイスターのことを訊くのを忘れてしまった。
「邪魔だったか?」
「とんでもないですわ」
「いい湯加減だったぞ。留美。お前もシャワーを浴びて来るといい」
 そうしますわ――そう言って、留美はシャワー室へと向かった。シャワーを浴びながら、留美は思った。
(ああ、生き返る――)
 居心地の良いオアシスも、なかなか暑いところで、留美も汗をかいていた。
(ニール……刹那は頼みましてよ)
 それは、ニール本人に言うべき言葉だったろうが、伝える機会はいつでもある。そう思って、留美はシャワーのコックを捻ってお湯を止め、タオルで体を拭いた。
(あの人達は……ガンダムがなくなったらどう生きるのかしら。特に、刹那は――)
 やはり、ガンダムの力はまだまだ借りねばならぬ。そう、留美は思っていた。
 鉄屑ね――。
 確か、グレンが前にそう言っていたと聞いたことがある。ガンダムの戦い方と、グレンの戦い方は違う。
(グレン――私達の赤ちゃんの為に、剣を捨てるのも辞さないと言った貴方。かっこ良かったですわ)
 留美はグレンの元に戻った。いい夜だ。
「留美。今日は一緒に寝よう。大丈夫。手は出さない」
「それはいいですけど――子供の名前は何にしましょう」
「……村長が決めてくれるさ」
「そうですわね。村長様なら、立派な名前をつけてくださいますわね。私達の子供の名づけ親になって下さるなんて、こんないいことはありませんわ。――リムおばさんも歓迎してらしたようですし」
「ああ、そうだな――」
 グレンがゆっくり、留美のお腹を撫でた。
「ここに、俺達の息子か……娘がいるんだな……動くかな」
 グレンと留美は、生まれてくる子が男か女か、Dr.モレノに敢えて訊かなかった。どちらにしても大切に可愛がることを心に決めたからである。
 砂漠は――生まれて来る赤子には少々きついかもしれない。けれど、皆がいれば大丈夫。留美は、村の人々を信じていた。
 留美は、ふふっと笑った。
「どうした? 留美」
「ええ――幸せ過ぎて……あんまり幸せ過ぎて……赤ちゃんがいるだけでもう、幸せがやって来たのですわね。女梟雄のこの私、王留美と、砂漠の戦士グレンの様子を私のお腹の中で変えたんですもの」
 けれど、次世代の子供達は、世の中を変えて行くものである。グレンと留美の子供も、数か月したら生まれ出る。新たな世界へと。
 ベルベットやソランも、その仲間達である。ソランはいつだったか、ニールから端末のモニターで見せてもらった。ニールと刹那に似た、とても可愛い子だった。

2021.01.30

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