ニールの明日

第三百十二話

「はい、異常なしだな」
 Dr.モレノは、この時代の最先端の機会を使って留美を診察した。建物が古くて、機械だけが最新式なのは何だか異様だが、慣れるとそうでもなくなる。こんな便利な診療所が砂漠のど真ん中にあるのだ。
 ――利用しない手はない。
「ありがとうございます。モレノさん」
 留美がモレノに礼を言う。
「いやいや、なんのなんの」
「これ、少ないけど、取っておいてください」
 グレンがモレノに金を握らせる。
「いいって言ってるのになぁ……いつもいつも悪いなぁ……」
「いいんです。いつも俺達がお世話になっているお礼です」
「しかし、こう見えても、この診療所には国からお金が支払われとるだが……」
「では、お金のない人々の為に使ってください」
 モレノは肩を竦めた。
「やれやれ。グレンも説得が上手くなったの。そこにいる別嬪さんのおかげかい? グレンはいい父親になれそうだな」
「まぁ、別嬪さんだなんて……」
 留美は照れた。
「留美。辛くはないか? お前一人の身体じゃないんだ。ちゃんと大事にしろよ」
「わかってますわ。――もう、グレンったら心配性なのね」
 グレンは留美のお腹を愛おしそうに撫でた。
「男でも女でも、大切に育ててやるからな――」
「……グレン様が眩しく見えます……」
 ダシルが目を眇めながら言った。
「ありがとう。きっと、留美のおかげだ。それと、お腹の赤ん坊と――俺は、少し考えたことがある」
「まぁ……何かしら」
「……こんなことを俺が言うのも変なんだけど……」
 グレンが言い淀む。いつも物事をはっきり言うグレンらしくもない。ダシルと留美はつい顔を見合わせた。
「俺は、いつまでも戦争していて良いのかと――」
「グレン……?」
 この言葉が本心から出たものなら、グレンは確かに変わった。戦うことしか能がない。だから己は戦う。そう豪語していたグレン。留美はそんなグレンを愛し、惚れたのだ。
「わかっていただけましたか! グレン様!」
 ダシルはグレンの手を握った。
「戦争なんて、辞めましょうよ!」
「いや、俺だけでは決められないことなのだがな……」
「こんな、不毛にも見える戦い、いつか終わると思いますよ。グレン様のお子様の為にも、平和な世界、残して行きましょうよ」
「クルジス奪還は俺の悲願でもあったんだがな……」
 グレンは困ったように言う。
「グレン、お前もすっかり父親の顔だな」
 モレノが嬉しそうに微笑む。そして、パンパンと手を叩き、扉に向かって言った。
「おい、お前ら、入っていいぞ」
 入って来たのはジョシュア・エドワーズだった。或る事故をきっかけにキリスト教への信仰に目覚め、今ではみことばを教え広めていると言う。
「話は聞いてたか?」
「はい、ここ、壁が薄いんで……戦争を辞めるのには大賛成だよ。俺は。――もう、俺みたいな奴を増やしたくはない……」
 ジョシュアの台詞の最後の部分が掠れた。
「留美さんと、お腹の赤んぼのおかげかい?」
「……はい」
 ジョシュアの言葉に、嬉しさを噛み締めるようにグレンが答えた。
「祖国クルジスの奪還もやらねばならぬことだとは思ってるけど……俺の祖国だから。俺達の子供にも、祖国と言うものがないと気の毒だろう」
「いいじゃないか。我が祖国は天にあり、だ」
「それは聖書に載ってた言葉か?」
「その通りだ。ちょっとアレンジしたけど」
「ふふふ、戦争に疑念を持つ。昔のグレンだったら考えられないことだ」
 モレノが含み笑いをしながら言う。けれど、その頬には涙が。
「私も……マリナ様を見習いたくなって来ましたわ」
 マリナ・イスマイールは、子供達の為に、平和を望む歌を作っている。マリナ姫、そして紅龍……王紅龍を当主に迎えて、CBも新たな時代を迎えつつあるだろう。
(お兄様……)
 留美は兄に、何も心配いらない、と、知らせたかった。お腹の子供は元気ですくすくと育っていると。
 そして、愛する夫グレンと、その親友のダシルに見守られていると。
 王留美は窓辺に立った。外はもう暗闇の中だ。その中で、人々は生活している。
(CBにいたら、ずっと私が知らないままの世界だった――)
 グレンに新しい世界へ連れてもらって、留美は今まで自分がいたところは、何と狭く、窮屈であったことかと、思い返していた。
 旅籠に着いたら、兄に連絡をしたい。
 王留美はそう思っていた。
 グレンが戦争を辞めようと言ったこと、自分のお腹の中の命のこと、平和への道筋のこと――話したいことは沢山あった。
(マリナ姫は、お兄様に似ている)
 その愛情と情けの深さ。平和を求める心。子供達に人気があると聞いたけど、さもありなん。
「行こうか、留美」
 グレンが留美の肩に手を置いた。それに、愛しくてたまらないと言ったような声音だった。
「ええ、行きましょう。グレン。……それに、私やダシルがいないと、あなた、旅籠にも着けないんじゃなくて?」
「うーん、一本取られたなぁ……」
 そう言いながらも、グレンは微笑んでいる。穏やかな表情だ。子供が出来ると、人は変わる。グレンでさえ例外ではない。
 人は――ガンダムみたいな機械と違うのだから……と言うと、刹那に怒られそうだが。
「ここに泊まっていかないか――と言いたいところだが、急患があるといけないからな」
「わかりました。モレノさん。お休みなさい」
「――お休み」

 オアシスの町は、今夜も眠らない。――暑い。留美は人とぶつかった。
「あら、ごめんなさい」
 ぶつかった女の人が謝った。
「いえいえ、こちらこそ――」
「おい、この女は俺の妻で、身重なんだぜ」
「グレン!」
 ――留美が厳しい声を出して叱った。自分のことが心配なのはわかるが、そんなに神経質にならなくても――と言うところだ。それは、愛され、子供共々 大事にされているのはわかっているし嬉しいのだけれど。
「まぁ、そうなの……元気な赤ちゃんが生まれるといいわね。ちょっと、お腹を撫でさせてもらってもいいかしら?」
「……どうぞ」
「では……元気に生まれて来てね……赤ちゃん……お父さんもお母さんも、あなたのこと、待ってるから……」
 それは、マリナ・イスマイールの新曲のフレーズの一部だった。留美は思わず目頭が熱くなった。ニールに聴かせてもらった時も、いい曲だな、とは思ったが。
「すみません。お引き止めしてしまって」
「いいえ……いい歌ですね」
 さっき文句を言ったことも忘れたようで、グレンは嬉しそうに言った。
「美形夫婦ですこと。どちらに似ても可愛い赤ちゃんが産まれますね」
「いやぁ……」
「グレン様……」
 脂下がったグレンに、ダシルは呆れている。生まれてくる前からこうでは、生まれて来たらどんなになってしまうのだろう。――女の人は頭を何度もぺこぺこと下げながら、人混みに混じって行った。
「今日はいい日ね」
「――そうだな」
 留美の言葉に、グレンは同意した。
「お腹空いたな。どこかで何か食べて行かないか?」
「賛成……と言いたいところだけど、私、あまり食欲がありませんの……」
「気持ちはわかるが、留美……食べないと元気な赤ちゃんが産めないぞ」
 そう言って、グレンは勝手に近くの店に入る。留美とダシルがいなければ、グレンは基地に帰って来ることすら出来ないので、留美達も仕方なく、急いでグレンの後を追った。

2020.11.03

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