ニールの明日

第三百十九話

『随分穏やかな顔つきになったじゃないか。留美』
 モニターで王留美の顔を見るなり、開口一番にそう言ったのは、彼女の兄の紅龍であった。
「ええ、安定期にも入りましたし」
『けれど、無理をしては駄目ですよ。――お嬢様』
 紅龍は昔の口調を真似た。留美が吹き出す。
「大丈夫ですわ。お兄様。グレンもダシルもいてくれますもの。グレンは特に子煩悩で、まだ子供が生まれてもいないうちからはしゃいでおりましてよ。男でも女でも目いっぱい可愛がろう、と言っておりましたわ」
『うんうん。家族の為に場合によっては剣をも捨てる、と宣言した男だからな』
「けれど、いいのかしら……私はグレンの自由を奪ったのではないのかしら。……あの人は自由な他人だから……」
『留美と家族の生活を選んだのもあの男の自由さ。もしかしたら、父親業はグレンに向いているかもしれんぞ』
「でも、ワリスは仕事が増えそうだと言うので、今からどんより落ち込んでますわ」
『今に暇になればいいな』
 それは、言外に『平和を望む』と言う意見を含ませている。紅龍の恋人のマリナ姫も平和を望んでいる。留美は頷いた。
「ええ。絶対に暇にしてみせますわ。ワリスなんかあてにしなくても良いような世界にしてみせますわ」
 そう言って、留美は力こぶを作って見せる。――力こぶなんてないのであるが。留美は自分の非力さを痛感もしている。
『ところで、グレンは?』
「今、買い物に行っているところですわ」
『おさんどんをあのグレンにやらせているのかい?』
「――買い忘れしてた物があったんですの。それでダシルと行ってくれるってひらりとオリバーに……」
 留美はその時のシーンを思い出した。さぞかし自分はうっとりと遠い目をしているだろうと思った。
『何を忘れたんだい?』
「胡椒」
『なるほど』
「お兄様……話は変わりますけど、マリナ様とは進展がありますの?」
『まずまずと言ったところだ。――お前は心配しなくていい』
 そして、紅龍はひとつ咳ばらいをした。
(――と言うことはやはりお兄様も幸せなんですね)
 ついでにマリナも幸せになってくれればいい。紅龍は……それは、たった一人の兄なのだから……。兄が結婚するのと、自分が子供を生むのはどちらが早いだろうか。留美はくすっと笑った、
 陽だまりの日々。お日様の匂いについうとうとしてしまう。留美は、はっとした。
(グレンを待っていなくては――)
 グレンもダシルもまだご飯を食べていない。そのぐらいの仕事は自分が作らねば。妊婦とは言え、いつもダシルに世話になっていては申し訳がない。それに、その辺の奥さんのように、留美も自分で料理がしたかった。
 例え、CBを切り回すより難しくとも――。
 今日の夕飯は自分で作りたい。
(すっかり主婦になってしまいましたね。私も――)
『どこにでもいる普通の女みたいになったな。留美』
「まぁ! 私はどこにでもいる普通の女でしたのよ。お兄様がもっとしっかりしていれば――」
『悪かった、悪かった』
 紅龍は済まながるように両手を上げた。
『それで、体は大丈夫なんだろうね』
「――それは、グレンからもうんざりする程訊かれましたわ」
『こっちもこっちでバタバタしていて――お前は妹なのに、今まで連絡も出来ずに――』
「私だって、忙しいんですのよ。今日はリムおばさんがいないから……」
『何だい? 何かあったのかい?』
「隣町で娘さんの結婚式ですって。私、リムおばさんに随分助けていただきましてよ。料理もリムおばさんから習いましたし――私、鶏をさばくことも覚えましてよ」
『CBの元当主ともあろう者が――』
 紅龍が頭を抱えた。
「あら、どうしましたの?」
『なぁ、留美。こっちには帰って来れないのかい?』
「まぁ! 不退転の決意でこの地にやって来ましたのよ! この私は! それに、ここの水は私に合っているみたい……」
『……留美もすっかり染まってしまったな』
「大丈夫よ。お兄様はマリナ様の心配でもしてらっしゃいな。ね?」
『そうだな。……留美も大人になったな』
「お兄様も」
『生意気を言うんじゃない。俺はお前より少しは長生きしてるんだぞ』
「一日の長ですわね」
『まぁ、そうだ』
「マリナ様と恋仲に落ちなければ、もっと楽に生きられたかもしれませんのにね」
『その言葉、そっくりお前に返すぞ。留美。俺は楽に生きたい訳じゃない。ただ、幸せになりたいだけだ』
(マリナ様と――ね)
 留美は紅龍にわからないように溜息を吐いた。兄はマリナの為なら万難を排すだろう。彼も恋に落ちたのだ。
(お互い、平穏な生活は望めそうにありませんわね。――ううん。グレンは最近考え方が変わってきたらしいですけれど)
 留美は、小さいころ、兄紅龍のお嫁さんになりたかった。けれど、大人になった留美の手を取ったのは、紅龍ではなく、グレンだった。
 逞しいグレン。精悍なグレン。留美は、小さい頃の自分に、こんな素敵な男性と結婚するんだと、自慢したかった。きっと、留美は早く大人になりたいと願うようになるだろう。
 それに、お腹にはひっそりと新しい命が息づいている。
(私の赤ちゃん――)
 留美はお腹に手をやった。その時、微かにお腹が動いたような気がした。
「蹴りましたわ! お兄様! 赤ちゃんが、私のお腹を!」
 この感動を世界中にふれて回りたいような気がした。誰かに言わなければ……例えば、夫のグレンに。その友人のダシルに。
 ダシルは二人の世話を細々と焼いてくれた。今、留美が幸せでいられるのは、ダシルに寄るところも大きい。
(ダシルにも、いずれ恋人を――)
 そう、留美は、ダシルにお見合いを設定しようと思っていた。けれど、今はちょうどいい女性が見つからない。何人か候補は上がっているのであるが――。
(ああ、駄目だ。留美よりいい女なんていないもんだな)
 いつもしている紫のターバンを外しながら、苛々したようにグレンは言っていた。
(私よりもいい女なんてすぐ見つかるではありませんか)
(いや、ダシルには最高の女性を用意しなければ駄目だ。何たって、俺の弟分なだからな――)
 そう言ってグレンは己の長い黒髪をぐしゃぐしゃにしていた。
(でも、こればっかりは運命だから――)
 グレンがいなかったら、留美はまだCBの当主として働いていたことだろう。日々の仕事に忙殺されたことであろう。――今の紅龍と同じく。思えば、兄には随分世話になった。自分は当主の座からとっとと降りて、兄に負担をかけたことだろう。
 ――実際にそう言ってきた人々も何人かいるのは知っている。
 けれど、紅龍の口からはそんな愚痴を殆ど聞いたことがなかった。出来た兄だ。留美は改めて紅龍に感謝したくなった。
『良かったな、留美』
 しばらくしてから、紅龍がぽつんと言った。紅龍はモニターの向こうで微笑んでいる。
『美しくなったよ。お前は』
「あら、いやですわ。そんな殺し文句はマリナ様の為にとっておいてくださいませ」
 照れ臭くなって、つい留美はそんな返事をしてしまう。
『勿論、マリナは美しい。けれど、そう言う意味じゃないんだ。――お前はいい母になるよ。留美』
「ありがとうございます」
『CBがちょっと騒ぐかな』
 珍しく、紅龍がCBの内幕を喋った。――留美の息子か娘が生まれれば、どうしても後継者問題に行き当たる。女でもCBの当主になれることは留美のケースで実証済みだ。
 それに、昔と違い、女性の地位も格段に上がっている。CBの幹部達にとっては、留美の子供であれば娘でも当主になっていいと考えているようだ。そしたら、兄は心置きなく引退出来る。
 優しい兄がCBで戦闘の指示を出すのに向いていないのを一番知っているのは、他ならぬ留美であった。
 ソレスタル・ビーイングの女梟雄――そう言われて得意になっていたことがあったのも否定は出来ない。ただ、自分の子供がそれを望んだ時、賛成するかどうかはまた別問題で――。
(お兄様にはもっと頑張ってもらわなければならないかもしれませんわね……)
 世界の国々では、今でもまだ紛争が起こっている。トレミーが地上に降り立ったら、刹那達にもガンダムに搭乗して戦いに赴いてもらわねばならない。
 けれど、留美が頼りにしているのは、刹那・F・セイエイではなく、そのパートナーのニール・ディランディだった。
(ニール……)
 彼に思慕していなかったとは言わない。けれど、二人の運命は結ばれることはなかった。――お腹の赤子がまた蹴ったように思えた。
 ニールはもう、刹那のものだ。刹那もニールのものだ。彼らは男同士ながら相思相愛なのだ。留美は、少しの間思案に暮れていた。
「お兄様。私の息子……娘でもいいですけど……私の子供のことについては、子供自身に任せてみよう思います」
『ふうん。変わったな。留美。前は、自分の思い通りにことが運ばないとすぐ癇癪を起こしていたじゃないか。お前の世話をするのはなかなか大変だったぞ』
 変わったのはお兄様も同じですわ――そう言いたかったが、それを口にする代わり、留美は穏やかに口角を上げた。お兄様は、少々喋り方がぞろっぺえになって、でも、頼りになる一人前の男になって――。

2021.04.18


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