ニールの明日

第三百十一話

「こっちですわよ。グレン、ダシル」
 王留美が二人を手招きする。彼女は埃っぽい匂いの砂漠にもすっかり慣れたようであった。
「おう。今行くぜ、留美」
「疲れましたよ、グレン様。少し休みましょうよ……」
「何だ。妊婦の留美でさえ平気なのに、ダシル、お前はこの砂漠に何年いる? 王留美よりずっと長くいるだろう? 意外と体力ないんだな」
「どうせ体力ありませんよ」
 ダシルがイッ、と舌を出した。
(グレンとダシル、良い友達だわ……)
 王留美が微笑ましくそのやり取りを見ていた。自分には、こんな友人がいたであろうか。昔から大勢の人間に傅かれていたけれど――。いや、刹那やニールだって、王留美にとっては大事な友達である。
 それに、グレンという夫もいるし、ダシルとは既に十年来の知己のような関係であるし……。グレンは方向音痴なのが玉に瑕なのだが……。
「――うっ!」
 王留美の具合が急に悪くなった。吐き気がする。これが、つわりというものなのだ。
「大丈夫か、留美?」
「ええ――」
 留美は口元を押さえた。
「おい、ダシル、戻るぞ!」
「えっ、はい! わかりました!」
 ダシルが焦る。留美は、(二人に心配かけて悪いわね――)と密かに思った。
「ごめんなさいね……う……」
 口をきくと戻しそうだ。グレンが留美の背中をさする。ダシルがそれを見て微笑んだ。留美は、そんなダシルを可愛いと思った。元々ダシルは童顔なのだ。グレンと同い年なのが信じられないくらいに。
「大丈夫ですか。留美様。――でも、留美様のおかげでグレン様がお優しくなって……」
「ダシル……私は……」
「ああ、喋らなくてもいいですよ。留美様が俺達を心配してくださっているのはわかってますから」
「いえ、そうではなくて――」
(私のことはただの留美で構いませんのに――)
 ダシルはグレンの親友だ。夫の親友は、自分にとっても親友だ。いつまで経っても敬語を崩さないダシルに、留美は寂しく思った。
 ダシルはグレンのことを未だにグレン様、と呼んでもいるのだが……。グレンは寂しくはないのだろうか。一番の親友に『様』づけで呼ばれて――。
「留美。具合が悪いなら吐いた方がいい」
「そうですよ。グレン様のおっしゃる通りです」
「う……ここで少し休めば大丈夫ですのよ……私、体は丈夫ですから……」
 留美も、敬語が抜けない。だから、本当はダシルのことは言えないのだと自分でも思う。けれど、上流階級で育ったのだから仕方がないのだ。
「うーん、やはり、誰かに送ってもらえば良かったかな……」
 グレンが呟いた。今、留美達はDr.モレノの診療所に向かうところだったのだ。
 ジープがやって来た。
「おっ、いいところへ。乗せて行ってもらおう」
 グレンはジープに向かって合図をした。やがて、ジープがグレン達の前で止まる。グレンが「あっ!」と声を上げた。
「ジョシュア……」
「やぁ、グレン。ダシルに王留美のお嬢様……久しぶりだな」
「ジョシュア、私はもうお嬢様では……う……」
「留美。もう口きくな」
 グレンが厳しい声で言う。でも、留美のことを一番気にかけてくれているのもグレンなのだ。
「グレン。留美さんはどうしたんだ? つわりか?」
 ジョシュアは、王留美とは顔なじみであった。というより、ジョシュアが王留美のことを知っていたのであった。王留美はCBの元当主として有名人だったからでもある。
「乗るかい? そりゃ、乗り心地は悪いかもしれないが」
「ありがとうございます……」
「三人か……まぁ、悠々だな」
「オリバーがいれば良かったかな……それともワリスに送ってもらえば……」
 グレンがぶつぶつ呟く。オリバーとは、グレンの愛馬である。けれど、留美が馬に酔うかもしれないと思って、置いて来たのだ。それに、留美が歩きの方がいいと言ったのだ。
「いいさ。グレン。ここで会ったのも何かの縁だ。乗ってくれ」
 ジョシュアが運転席から三人に言った。

「そっかぁ。モレノさんのところに行く途中だったのか」
 ジョシュアは軽やかに車を操る。留美にとっては、車は運転するものではなく、ご送迎に来た時に乗るものだった。
「ええ、助かりましたわ。ジョシュア」
「いいって、いいって――ちょうどおめでただったんだね。留美さん」
「呼び捨てで結構」
「世話になった。ジョシュア」
 グレンが簡潔に言い放つ。
「ありがとうございます。ジョシュア様」
 と、ダシル。
「ジョシュア様か……悪い気はしないな」
 なるほど、そう言う感じ方もあるのか――留美は密かに嘆息した。
「でも、俺のことも別に呼び捨てでいいからな。ダシル」
 やはり、ジョシュアも留美と同じように考えるのか。留美はくすっと笑う。お腹の子が少し動いたように思った。元気な赤ちゃんが生まれるといい。男でも女でも。
 グレンに似ても、留美に似ても、美しくなることは間違いなさそうだし、グレンや留美達だけではなく、ニール達もそう言っていた。
(グレンと留美の子供なら、きっと美形だぜ)
 そう言ってくれたニール・ディランディ。彼は彼で大変なことに巻き込まれてしまったようであるが、ニールは喜んでいる。
 ――何故か。本当か嘘かは知らないが、ニールと刹那の息子が現れたと言うのだ。
 乱れてる。確かにそうかもしれない。だけれど、愛があれば何でも可能になるのだと、留美は甘美な形で思い知らされた。
 CBも順調に活動しているらしい。王紅龍――留美の兄のおかげだ。彼も結構頑張って活躍していると聞く。留美ほど手際が良い訳ではないようだが、それは仕方がない。紅龍はこの仕事に就いたばかりなのだから。
 今、一生懸命帝王学も学んでいるらしい。
「酔わないか? 留美」
 グレンが後部座席から心配そうに訊く。留美は助手席に座っているのだ。
「ええ。ありがとう。グレン」
 本当に留美のつわりは治まってきたのだ。それに、つわりだって嬉しい兆候だ。
 この体は自分一人のものではないのだから――。
 留美は自然と笑顔になっていた。顔の筋肉が緩むのが自分でもわかる。――Dr.モレノの診療所に着いた。
「元気でな。留美」
「ジョシュア。貴方も」
「いい顔になって来たな。留美。もうすっかり母親の顔だ」
「嫌ですわ、もう……」
 けれど、本当に嫌な訳ではなく、ただ少し、照れ臭かっただけなのだ。留美は。
「いや、冗談でなくさ――モレノさんに宜しくな」
 ドアを閉めると、ジョシュアのジープが行ってしまった。
「さぁ、行こう。留美。……もう大丈夫だな」
「ええ、ええ――」
 情緒不安定になっているのか、留美は涙を流した。嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに。――だからきっと、これは嬉し涙だ。
「はい。留美様。涙を拭いて」
 ダシルが涙を拭くのを手伝ってくれている。有り難い――留美はそう思った。
「ありがとう、ありがとうね、ダシル――」
 留美は、自分がCBにいた頃、こんなに人に優しくされたことはなかったと思った。……兄は別だったが。
 皆自分に傅いてはいたけれど、CBの当主である自分の権力を利用しようとしていただけだったのだ。いや、違う。スメラギ・李・ノリエガやトレミーのクルー達、ニール・ディランディ率いるガンダムマイスター達は別だった。
 特に、ガンダムマイスターは大切な人々であった。皆、一癖も二癖もあったけれど――。
(ニール……刹那……アレルヤにティエリア……貴方達も幸せにしてますか?)
 留美は空を見上げた。もう一番星が現れようとしていた。
「さぁ、行こう。すっかり暗くなってしまった。今日はこの近くの旅籠に泊まろう」
「ええ」
「それよりも、留美をモレノさんに診せる方が先だな」
 ――つわりはすっかり治まった。モレノも、留美の妊娠を喜んでくれている。モレノは何でも出来る腕利きの医者なのだ。一応、診療所には女性看護師もいる。
 留美は自分のお腹を撫でた。自分の分身の命が、このお腹の中で育っている。早く会いたい。この子に。留美は強くそう望んだ。そして、どんなことをしても護りたいと愛しみながら思った。グレンと自分の間から生まれた、この命を。

2020.10.04

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