ニールの明日

第三百十六話

(ソラン――)
 王留美は、心の中で呟いた。モニター越しに「うー、うー」と言っていたあの子。今では少しは成長しただろうか。
(私の子供も、成長していましてよ――)
 そしたら、ソラン、我が子の友達になってくれますか――?
 自分の乳房も張って来たように、王留美は思う。自分の子供は母乳で育ててやりたいと、王留美は思った。子沢山な家庭も、それはそれで良いかもしれない。
(まぁ、全てはグレン次第ですわね)
 グレンは開いた窓の外を見ている。その横顔がほんの少し厳しいことに、王留美は気づいていた。グレンはまだ少年に見える。けれど、年齢は刹那とそう変わりないかもしれない。
 南国の匂いのする風にグレンの浅黒い肌はぴったりだ。
(我が子よ。貴方の父親は世界一いい男よ――)
 或いは宇宙一だろうか。それは流石に惚気が過ぎると言うものだろうか。けれど、王留美はグレンの手を取って、グレンに導かれるまま、この国に来たのだ。
 胎内に、愛する男との子供がいるのだ。名前は何にしよう。気が早過ぎるかもしれないし、グレンはグレンでまた別の名前を考えていたかもしれないが――。
(男だったらアダム、女だったらエヴァ――)
 些か俗に過ぎるかもしれない。けれど、この二人が、戦争のない世界に生まれ出る、最初の人間になるのだ。
 ガンダムは――ガンダムには、新たに来る平和な世界を見守っていてもらおう。
 結局、ガンダムは人間がいなければどうしようもない存在なのだから。
 けれど、王留美は間違っていた。――どう間違っていたかは、その後の話になる。
「どうした、静かじゃないか」
「音楽が聞こえて来ますわ」
「そうだな――けれど留美。俺にはお前が考え事をしているように見えるぞ」
「考え事って……」
 そう、今言わなければ、いつ言うのであろう。
「赤ちゃんの名前、考えていたのですわ」
「あー、そうか……俺は候補があり過ぎて迷っていたところだったんだよ。出来れば、妻であるお前の意見も聞きたい」
 留美は、頭の中にあった名前を言った。
「あー、聖書か……長老の名前はバルナバだしな。ジョシュアはきっと喜ぶだろう」
「……そうね、で、貴方は?」
「……実は、その名前も候補に入ってたんだ」
「では決まりですわね」
「……あ、ちょっと待て。アダムの漢字は俺の持っている端末では上手く表記出来ないんだった」
「随分旧式の端末を使ってらっしゃるのね」
 まぁ、知ってはいたけれど……留美もついころっと忘れてしまっていたのだ。
「なら、男の子なら、王若望はどう? 二十世紀の中国の作家の名前なのですが」
 王若望。――最初思いついた時、留美は湯若望のことを連想していた。
 アダム・シャール。中国の明・清のイエズス会士。そして科学者。
(何だ、結局アダムに落ち着きますのね)
 留美は小さくくしゃみをした。――女の子の名前を考えるのはまた今度にしよう。
「風邪か? 留美。これを羽織っているといい」
 グレンが留美に紫色のマントを投げて寄越した。留美は目を瞠った。
「いいんですか?」
「いいんですかも何も――お前は俺の妻だし、俺は、今日は暑いな、と思っていたぐらいだから――」
「――ありがとうございます。ご好意にお預かりいたしますわ」
 マントを羽織ると、グレンの体温が感じられるような気がした。じんわりと、暖かい。いや、暖かい、と言うより――。
「暑いですわ。貴方」
「いいから着てろ。お前の体はもうお前だけのものではないのだ」
 瞬間、留美の火照った体に、ぞわわ、と怖気のようなものが走った。
「ええ……そうですわね……」
 グレンと全く同じ台詞を、留美は就任式に王家の前当主から言い渡されたのだ。まだ幼かった留美に。大人の人達は皆手を叩いていた。でも、留美はこれから何か恐ろしいことが起こりそうで怖かった。
「そうね……寝ましょう……お休みなさい。愛する貴方」
「――おやすみ」
 グレンは留美のこめかみに優しくキスをした。

 ――留美は夢を見た。
 白と青を基調とした機体。あれは、ガンダム――。
(ガンダムエクシア……)
 ガンダムエクシアは刹那・F・セイエイの愛機だった。刹那は自分の手足の如く、自由に操っていた。
 その機体が今、人待ち顔で佇んでいる。……いや、留美は擬人化があまり好きではなかった。でも、その時はこう声をかけてしまった。
「そんなところにいても、待っているお方は来ませんわよ」
 ――それでも、ガンダムエクシアは待っているようだった。
「変なロボット」
 それとも鉄屑か。興味を失った留美はその場を去ってしまった。

 真っ白な光が寝起きの留美の瞳を射抜いた。
「あら……?」
「おはよう、留美」
 グレンが、この上もなく優しい声で言った。留美がほっと溜息を吐いた。傍にいるのは愛する夫。
「グレン……ガンダムの夢を見ましたの。――ガンダムエクシアですわ」
「ガンダムか……刹那にはいろいろ助けてもらったな」
「ええ……」
「日差しが眩しいな――カーテン引こうか?」
「ええ……」
 留美は、自分が幸せであるような顔をしているのを自覚していた。だって、本当に幸せだったのだから。お腹の赤ちゃん。愛する夫。そして――未来に叶えられるはずの平和。
 コンコンコン。ノックの音がした。
「お二人ともー。ダシルですが」
「はぁい」
 留美が返事をする。
「そろそろ食事に行きませんか?」
「あ……あの……待ってください。――グレン、これ着て」
 ――それは、グレンが留美に貸したマントだった。
「どうだったか? これ着て」
「まるでグレンが乗り移ったような気がしましたわ」
「ふん、俺はオカルトには興味ないつもりなんだけどな」
「そういう意味でなくて……」
「二人ともー。ご飯冷めちゃいますよー」
「わかってる。ダシル。……留美。腹は減ってるか?」
「そうですわね……お腹が空いているといえば空いているかしら……」
 そこのところがどうもよくはっきりとしない。――腹八分目にしておけば、まず大丈夫だとは思うのだが。
「おはようございます。皆様」
 旅籠の主人が愛想良く挨拶した。主は温かいスープや焼きたてのパンなどを用意してくれた。どれも美味しい。
 食事を終えた後、留美はグレンやダシルと一緒に街を歩いていた。
 ――グレンは、安産祈願のお守りを買ってくれた。留美は喜んだ。この上なく幸せだと思った。
 彼女達は、陽気なオアシスを後にした。
「長老にも、赤ん坊の名前、考えてもらった方がいいかな」
 グレンが言った。
「あら、シャール(若望)に決まったんではなかったんですの?」
「長老にも意見を聞こうと思ってな。どれ、少し目立ってきたじゃないか」
 グレンが留美のお腹をさする。
「嫌ですわ、こんなところで恥ずかしい……」
 と、留美が恥じらう。
「何、ここには俺達しかいない。それに……俺達が仲がいいのは、ダシルも知ってる通りだ。それに――何を今更、恥ずかしがることがある。留美、お前は俺の妻だろう」
 ええ、そうですわね――と留美が答えた。グレンが留美の唇にキスをした。ダシルは見なかったふりをしてくれた。

2021.02.11

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