ニールの明日

第三百五話

「おーい! 刹那ー、刹那ー」
 大声で呼ばわりながら、ニールがドアをノックしている。固くて分厚い壁だが、刹那はニールの気配を察したらしい。――扉が開いた。刹那の部屋はリンゴの甘い香りがする。
「せつなおにいちゃまのへや、いいにおい~」
「お茶を飲んでた。ベルベット。お前にも淹れてやる」
「わーい」
 刹那の部屋にも簡単なキッチンスペースがある。
「おい、それより話がある。刹那。この猫――アレルヤ、ちょっと貸してくれ」
「どうぞ」
「その白猫がどうかしたのか?」
 刹那が首を傾げている。
「――俺と刹那の息子だ」
「……今からここで飼うことになった猫か?」
「いや、そうじゃなくてだな……ええい、百聞は一見に如かずだ。この子はベルが連れて来たんだ。俺も最初はびっくりしたが……。ベル、この猫はキスしたら人間に戻るんだってな? そうだよな」
 ベルベットは唇をきゅっと引き結んで頷いた。
「いいか……見てろ」
 ニールは白猫にキスをした。
 ぽむん☆
 白猫は裸の人間の赤ん坊になった。
「まんま~」
 赤ん坊――ソランは刹那に手を伸ばす。
「待て……俺はママなんかじゃ……」
「まんま~」
「待てよ。この子はニールに似て整った顔立ちをしているな。海色の瞳をしている」
「刹那にも似てるぜ。――きっと平行世界から来た子だろう。……ベルと同じでな」
「そうか……俺達の息子か……」
 ソランはすぐに合点がいったらしく、「ぱっぱ、まんま」と嬉しそうに呼ぶ。感じではまだ一歳未満か。
「何て言う名前だ?」
 刹那がニールに訊く。
「ソランだ」
「ソランか……良い名だ。俺の昔の名だな」
 刹那がソランの頭を撫でてやっている。ベルベットはソランが羨ましくなった。――だから、こう言った。
「とうさま。とうさまもべるのこと、なでて」
「ああ、いいとも」
 アレルヤも優しくベルベットを撫でてくれる。ベルベットは嬉しくなって目を眇める。ティエリアはそんな二人をじっと見ているようだった。
「けど、最初猫の姿は何でだったんだ?」
 刹那が尤もな疑問を投げかける。ベルベットが答えた。
「そらんちゃまのかあさまのせつなおにいちゃまはねこなの。それすたるきゃっとなの」
「ソレスタルキャット?」
「べつのせかいからきたねこなの。にんげんにへんしんすることができるの」
「なるほど――まだ納得いかないところがあるが……この子にも親がいるだろう? 平行世界の俺達か。ベルベットの話によれば、その世界の俺は猫のようだが」
 刹那はあくまで生真面目に言う。
「のどかわいたのー」
「わかった。ベル。お茶を淹れてやるって約束だったもんな。――アップルフルーツティーは好きか?」
「だいすきなのー。とうさまもいつもいれてくれるの」
「そうか。――アレルヤにティエリア、お前達も飲んでいくか?」
「いいのかい?」
「ああ。――アレルヤみたいに旨くは淹れられないがな」
「謙遜するな。刹那」
 ティエリアが優しい声で言った。
「でも、本当に――」
「まぁ、アレルヤの茶は店を出せるくらい旨いからな」
 刹那の台詞をニールが引き取った。けれど、刹那もソランの面倒を見たいだろう。――ベルベットはそう思った。ソランも嬉しそうに笑っている。今からは、自分はソランの姉替わりでもあるのだ――ベルベットは気を引き締める。
「僕が淹れるよ。刹那。君はソランと遊んでいてくれ」
「――いいのか?」
 刹那の声に嬉しさが点る。
「ああ。勝手知ったる人の家。材料がどこにあるかはわかってるつもりだよ」
「済まないな」
「いやぁ……いつも世話になってるから……」
「僕は何をすればいいんだ? 僕も何かした方がいいんだろうか……」
 と、ティエリア。
「ティエリア……お前は何もするな」
 刹那が釘をさす。ティエリアは溜息を吐いた。――今は、アレルヤに任せた方がいい。そう判断したのだろう。それに、キッチンに行ったって、極度の料理音痴で紅茶やコーヒーも満足に淹れられないティエリアが出来る仕事はないだろう。
「わかった。――アレルヤ。とびきり美味しいのを頼む」
「ラジャー」
「僕も手伝えればいいのだが……」
 ティエリアはそう呟いたが、アレルヤは聞いていない――或いは聞いてないふりをしているのか。アレルヤは鼻歌を歌いながら刹那の部屋のキッチンへ行った。いつもならお茶を淹れるアレルヤの周りをうろちょろするベルベットも、今はソランに夢中だ。
「そらんちゃま、そらんちゃま」
「あー、あー」
 ベルベットとソランはすぐに仲良くなった。ティエリアのフレームレスの眼鏡の奥の目が優しく光る。刹那も表情がいつもよりほんの僅か緩んでいる。
「それにしても、どんな世界から来たんだろうなぁ、この子は」
 ニールの疑問に刹那は、
「俺が猫だった世界から来たんだろう」
 と、あっさり言った。ベルベットはソランを抱き締める。――可愛い子。こんな可愛い子は他にいやしない。ベルベットは、リヒターと共に、この子の面倒を見ることを誓った。
「いい? べるはねぇ、ほんとうはべるべっと・あーでっていうの。よろしくね」
「あー」
「にーるおにいちゃま、せつなおにいちゃま、いま、そらんちゃまが、『わかった』って」
「ベルはソランの言うことがわかるんだな」
「にーるおにいちゃまにもわかるはずなの」
「そうだな……」
 ニールは日々イノベイターと化しつつある。でも、人間でなくなっていくニールがどことなく寂しそうなのをベルベットは幼いながらも感じ取っていた。
 何故なら、ベルベットもイノベイターだからだ。言葉を使わなくても、相手と意思の疎通が図れる。そのことの意味をベルベットはまだ完全にものにした訳ではないが。
(そらんちゃま、かわいい。りひちゃまともいいおともだちになれそう)
 ベルベットは心の中で独り言を言う。今日は嬉しいことばかりだ。心が暖かくなる。
「出来たよ」
 アレルヤがアップルフルーツティーを持って来てくれる。
「ここはちょっと暑いから、冷たいのでいいかな」
 トレミーの空調は完璧なはずだが、そういえば、いつもより少し暑いような気がする。
「ありがとうなの。とうさま」
 ベルベットが礼を言う。
「んま! んま!」
「そらんちゃま、ごはんはまだなの」
「ベルベット……ソランの飲み物は僕が用意してやる。ミルクがいいだろう」
「うんっ!」
 ティエリアの申し出に、ベルベットは勢い良く頷く。
「あーあ。すっかりソラン取られちまった……」
「いいじゃないか。ニール。……ソランの本当の親が来るまで、俺達にだってソランの面倒を見る機会はあるだろう」
「刹那……」
 ニールと刹那は二人の世界を作っている。その横で、ベルベットはそんな二人にも注意を払わずグラスを傾けて美味しく味わいながら中身を喉に流し込む。
「刹那、俺な……アレルヤとティエリアのことがずっと羨ましかったんだよ。――ベルベットと言ういい子が存在しててな。でも、俺達にはソランがいるんだ……」
「そうだな。そして、平行世界のどこかには、ソランを生んだ俺達の存在が必ずいるんだ」

2020.06.09

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