ニールの明日

第二百三十七話

 太陽の匂い、土の匂い――まるで春の風景だ。モンシロチョウがニールの目の前を横切って行った。
 刹那の視線を辿ると一人の男が――。男はザックザックと土を耕していた。茶色い帽子を被っている。
「やぁ、精が出ますなぁ」
 ニールは男に声をかけた。日に焼けた顔を上げた男は――アリー・アル・サーシェスだった。
「よぉ、ニールに刹那」
「アリー!」
 俺達のことをジャガイモ野郎とクルジスのガキとは言わないんだな――そう、ニールは思った。
「行こうか、刹那」
 刹那はもう、アリーとは会いたくないであろう。そんな刹那の心を汲み取って、ニールは刹那を連れて行こうとした。――だが、刹那は動かない。そして、こう訊いた。
「ここで何をしている? アリー・アル・サーシェス」
 刹那の問いにアリーは笑った。
「庭仕事だよ。見りゃわかんだろ」
「…………」
 アリーと庭仕事。これ以上似合わない取り合わせはない。アリーが、古き良きアメリカ映画の農夫のような格好で庭仕事をしてるなんて――。
 自分は夢を見ているのだろうか――ニールは目を擦った。けれど、この春のそよ風の感覚はリアルだった。ニールはきょろきょろと辺りを見回した。
「アリー……ここにはお前一人か?」
 刹那が再び質問する。
「ん? 家にワイフと息子がいるが――?」
「え? 息子?」
 ニールが目を見開く。
「後で家に連れてってやるよ。今は――この仕事を終えてからだな」
「手伝おうか」
 刹那が申し出る。
「ばっ……何言って……! 刹那……!」
「済まねぇな。こっちでは男手が足りないし――お前らが手伝ってくれるって言うんなら有り難いぜ」
 ――結局ニールもアリーを手伝うことになった。

「ニール――お前さん、なかなか鍬を使うのが上手いな」
「どうも」
 庭仕事は故郷のアイルランドでやっていたので慣れている。でも――アリーに褒められてもあまり嬉しくない。それに比べて、刹那はへっぴり腰だ。それに、何だかいつもより腰つきがおかしいように思う。自分のせいに違いない。ニールは心の中で刹那に対して謝った。
(ごめんな。刹那。ベッドの中で無理させちまって――)
「あれ?」
 刹那は何かに気が付いたようだ。アリーが訊く。
「んー? どうした? 刹那」
「これ」
 刹那がみみずを掴んだ。みみずが刹那に摘ままれたまま、にょろにょろと動く。
「あー、みみずか。そういえば、刹那はみみずを見たことなかったか。いい土には必ずみみずがいるんだぜ。みみずは土を綺麗にしてくれるからな」
 それは、ニールも父から聞いたことがある。きっと、中東にはみみずがいなかったのだろう。刹那が興味津々にみみずを見ている。
「そういえば」
 アリーがにやりと笑った。
「みみずにしょんべんをかけるとあそこが腫れるんだぜ」
「ふぅん……」
「試してみたらどうだ? ニール――刹那を悦ばせたいだろ?」
「そんなことしなくても、俺は刹那を充分悦ばせることが出来る」
「――何の話だ」
 アリーとニールの会話に呆れたらしい刹那は、みみずを土に返してやった。みみずはやがて遠い場所目指して離れて行った。刹那が言った。
「面白いな。庭仕事」
「時々もぐらも出るぜ」
「もぐらか……本でしか見たことなかった。実際に見てみたい」
「今はいねぇみてぇだけどな」
 今度は刹那がアリーと話している。ニールが目を眇めた。この男は本当にアリー・アル・サーシェスなのだろうか。いや、この燃えるような赤毛と髭は確かに彼のものなのだが――。
(変わったな。アリー)
 どうせこれは夢だろう。でなければ、アリーのこんな笑顔、お目にかかれないに違いない。
「あなた」
 ニキータと思しき女性が現れた。
「――ニキータ!」
 ニールは思わず叫んでいた。
「まぁ……刹那にニール……!」
 ニキータは懐かしそうな声を出していた。
「ニキータ。いいところへ来た。――こいつらに息子を見せてやってくれ」
「ええ。でも――まだお昼寝中なのよ。赤ん坊は寝るのが仕事だから」
「優雅なご身分だねぇ。寝て泣いて母ちゃんのお乳を吸って――」
「アリー。お前はそんな暮らしをしたことはなかっただろう?」
 刹那が割って入る。
「そうさなぁ。そんないい暮らしはしたこたねぇなぁ――ま、尤も、以前は俺もニキータの乳を吸ってたけどな」
「――子供の教育に悪い話だ」
「どっちが。――ニールに刹那。お前らの関係のことを俺は知ってるからな。何と言ってもお前らは……」
「アリー」
 ニキータが眉を顰め、厳しく言った。アリーが肩を竦める。
「ニキータ嬢も、ガキを生んでから強くなったなぁ……」
「そういうもんだよ。女ってやつは……」
 ニールはいつの間にかアリー達と仲良く談笑するようになっていた。これは夢に違いない。でも、夢の中だけでも、アリーとニキータの幸せそうな顔を拝めたら、それはそれで充分じゃないか。
 現実には、酷い環境で暮らしていた二人だったのだから――。
 アリーとニキータは、自分達が殺したのだから。
「なぁ、アリー……お前はここで満足か?」
 ニールが訊いた。刹那がこっちを黙って見ている。
「すっかり落ち着いたといえば、嘘になるなぁ。今でも硝煙の匂いは恋しいし」
 多分、アリーは根っからの戦士だ。いや、自分でそう思い込んでいただけかもしれない。
「だけどま、ここでも充分幸せに暮らしているよ」
「アリー。お前達の息子に会いたい。――元気か?」
 と、刹那。
「息子がか? 元気だぜ」
「そうね。でも、昼寝から目覚めてからにしましょうねぇ……アリーに似てとても可愛い子よ」
 アリーが可愛いだって?
 そう言えるのは、アリーの娘で妻のニキータしかいないに違いない。
「やっぱり赤毛か?」
「俺達と同じ、赤毛だぜ。――でも、あの子には幸せになってもらいたかったな。……地球で」
 ニールは一体ここがどこなのかわからなくなっていた。アリーとニキータがいるということは、やはりここは……。
「なぁ、アリー、ニキータ……ここは一体どこなんだ?」
「ここはね、天国よ」
 ニキータが豊かになった胸をそらした。
「やっぱり……」
 刹那が呟く。ニールが訊く。
「俺達も死んだのか?」
「違うわよ。あなた方は夢でアクセスしてるだけ。目が覚めれば元通りの世界よ」
「戦いに明け暮れた日々も楽しかったがな。――ニキータとガキのいる家庭も、悪くないもんだぜ」
「アリー……俺はお前が俺の刹那に手を出したこと、許してねぇからな」
 ニールがちろりとアリーに冷たい視線を送った。
「ああ。俺だって許してもらおうと思ってなんざいねぇさ。やったことはやったことだもんな。お前ももっと早く刹那に会いたかったんだろう? でも、こればっかりは、人間の力ではどうにもならねぇ。縁ってヤツはよぉ」
 ニールと刹那がアリーの言葉に同時に頷いた。

2018.04.16

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