ニールの明日

第二百六話

 ニールが自分の席に帰ると、挽きたてのコーヒーの香りを漂わせているカップが待っていた。
「ブルーマウンテンだな。サンキュー。刹那」
「別に……」
 刹那はふい、と顔を逸らした。その頬が赤くなっているのは気のせいか。
「刹那くん――昨日はありがとう。アンドレイのことも気にかけてくれて」
 セルゲイは穏やかな父親の顔を見せた。この男は何で軍人になったのだろうかとニールは考える。
「アンドレイは友達だからな」
「――ありがとう」
 セルゲイは涙でぐっと喉を詰まらせたらしかった。
「尤も、向こうで俺のことを友達と思ってくれているかはわからないけどな」
「思ってるさ。息子が思ってなくとも、私は君のことを友達と思っているよ」
「早く会えるといいな」
「そうだな」
 そう言って、セルゲイはコーヒーの残りを飲み干す。
「ご馳走様。――そうだ。王留美に挨拶していいかね」
「いやぁ、それは……あんまり邪魔しない方がいいんじゃないかな」
 ニールが言う。セルゲイが頷いた。
「わかった。――君達と話がしたい。まだここにいていいかな」
「ああ。あまり食った後にガタガタするとお腹が痛くなるからな。――ゆっくり休んでいてくれ」
 刹那のセルゲイへの思いやりにニールが微笑む。刹那もセルゲイに対して心を許したようだった。刹那――前はあんなに懐かない子猫だったのに。
 時間が経てば、人間も変わる。
「王留美は約一時間後にカタロンと交渉するらしい」
「ほう……」
 セルゲイが顎を引っ張る。
「事実上の会談だな」
 ニールが真面目な顔をする。
「コーヒー取って来てもいいかね?」
「どうぞ」
 セルゲイが席を立つ。また、モカ・マタリだろうか。刹那がぽつりと呟く。
「セルゲイはモカ・マタリが好きらしい」
「なるほど」
「お前はブルーマウンテンか? ニール」
「いや、俺は飲めりゃ何でも……」
「嘘をつけ。結構こだわりがあるくせに」
「――わかるか?」
 ニールが刹那に対して冗談めいた笑みをこぼす。刹那はほんの少し顔をしかめながら言った。
「あのこと――言ってないんだな」
 アンドレイがニールの脱走を邪魔したこと――。
「だって――言えるか?」
「でも、事実から逃げない方がいい。俺達の関係にも関わってくることだ」
「そうだな――」
 斜向かいの席では沙慈とルイスが朝食をつついている。――いやに静かだ。二人とも、互いに好き合っている同士なのに――。
 彼らは彼らで、何か気にかかることがあるらしい。
(姉さん……)
 沙慈の声が聴こえた。その思念には哀しみがこもっている。ニールは密かに刹那に訊いた。
(おい、刹那)
(何だ――?)
(絹江・クロスロードって優しい女だったんだろ?)
(絹江か。……いい人だった。――例え、今は病院にいてもな)
(沙慈も心配してるんだろうな。まぁ、身内だから当たり前といえば当たり前なんだろうが……あんなに悲哀に満ちた想いで姉を想うくらいだからな――)
(ああ――ルイスも心配している。訊いてみたいけど、訊くことができない、という感じなんだろうな。今は)
(ルイスもいい女だな)
(――だから、アンドレイも恋をしたんだろう)
(そのことも、セルゲイに言えるのか? 刹那は……)
(さぁな。話の展開次第というところだろう……)
 その時、セルゲイが戻ってきた。
「いやぁ、少し混んでるな。この基地は上手い飯や飲み物を出してくれる。いいとこだ」
「アロウズの飯も悪くないぞ」
「おい、おい、刹那にセルゲイ。飯や飲み物のことなんてどうだっていいだろう」
「それはそうなんだが――」
 刹那にしては歯切れが悪い。ニールは自分が刹那の代わりに言ってやろうと思った。
「セルゲイ、アンタの息子はルイス・ハレヴィに恋をしている」
「え――?」
 ルイスがこちらを振り向いた。
「馬鹿……」
 刹那が溜息を吐く。ニールが脳量子波で刹那に語った。
(じゃあ何だ? おためごかしでも言えって言うのか?)
(そうは言っていない。――だが、タイミングというものがあるだろう)
 ――刹那の口元が笑みの形に歪んだ。そして続けた。
(確か、こんなこと前にもあったような気がする。あの時はお前の方が、俺が駆け引きを知らないみたいなこと言ったな――)
(あー、はいはい。あの台詞は撤回するよ、刹那。――勇気を持って何かを告白したり、行動した方がいい時もある)
(だが、それが今とは限らない)
(刹那……)
「失礼。ニールさん」
「沙慈……」
 刹那にはああは言ったものの、アンドレイのことを聞いて、沙慈が心穏やかでいられるはずもないだろうな、と思った。
 沙慈もルイスが好きなのだから――。
 三角関係って奴か――ニールは頭の片隅で考える。ドラマではよくやっていた。昔から繰り広げられる複雑な恋愛事情。
「アンドレイがルイスのこと好きだって言ったね。刹那からも聞いてはいたけど――」
「あ……」
 刹那が声をもらした。
「そうだ。沙慈とは前にそんな話をした。いろいろあってすっかり忘れていた。……俺も馬鹿だ――ニールのことを言えないじゃないか……」
「そんな、お前が馬鹿だとは思わんよ。俺とお前が似てるだけだ」
「ニール……」
 刹那が縋るような目つきをする。どきん、とニールの胸が高鳴った。
(こんな際なのに――)
 刹那は色っぽ過ぎる。ニールは刹那を欲しいと思ったが、幾つもの目がこちらを見ているという状態ではそれも出来ない。それに、そんな状況を作ったのは、他ならぬ自分なのだ。
 コーヒーがゆっくりと冷めていく。
「ニールさんもアンドレイ・スミルノフさんに会ったんですか?」
 沙慈が訊く。ニールがコーヒーを口に含んで落ち着こうとする。
「まぁな――彼がルイスを好きだというのは本当だ。その為に俺はアロウズから脱出し損ねるところだったんだからな」
「どういうことです」
 セルゲイの口調が硬い。ニールは軍人の父というイメージが凝ったらセルゲイ・スミルノフになるのではないかと思った。それ程、セルゲイは厳しい顔をしていた。――ニールは言った。
「怒らないでください。セルゲイさん。アンドレイを――恋する男なりの錯乱状態だったんだから……」
「でも、息子の為にニールさんにはとんだ迷惑を――」
「だから、もういいんですよ。そのことは。――セルゲイさん、いや、セルゲイ……」
「済まない。――私があれの代わりに謝ったところで、どうなるもんでもないと思うが……」
「僕も――アンドレイの気持ちがわかるような気がします。僕も――ルイスが好きだから……」
 そう言って沙慈は頬を染める。沙慈も大胆になったよなぁ、とニールは思った。けれど、その問題を避けようとしたところで、必ず壁にぶち当たることは知っていたから――。ルイスが沙慈の肩に手をかけた。
「私も、沙慈が好き。アンドレイには悪いけど――アンドレイはいい人だから……」

2017.6.7

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