ニールの明日

第二百七話

「そうか……」
 セルゲイが落ち着き払って呟く。
「私はハレヴィ准尉の義父になり損ねたな――」
 刹那がセルゲイの方を向いている。些か意外に思ってもいるようだ。
「なぁ、ニール。あれはセルゲイなりの冗談と言っていいのか?」
「刹那――ああ見えてセルゲイはジョークも言うし洒落もわかるぞ」
「ありがとう。ニールくん」
 セルゲイがにっこり笑った。
「まぁ――その、アンドレイはいい男だ。セルゲイ。お前が心配しなくても必ずいい恋人が見つかる」
 刹那が慰めにもならない慰めを言う。
「刹那くんもありがとう。だが、あれは昔から『いい人』で終わるタイプだったからな……」
「それも人生ですよ」
 ニールも慰める。
 確かにアンドレイも悪い男ではない。だが、セルゲイと比べると――。
 セルゲイが『ロシアの荒熊』なら、アンドレイはまだ『小熊』という感じだ。
 上手く育てば、セルゲイのようなナイスミドルになるだろうが――。
「苦労するな、セルゲイ――」
「いやいや、恋愛の感情についてはアンドレイ自身の問題で……」
 セルゲイはいい父親だ。そして、本当はアンドレイのことを本気で心配してもいる。アンドレイは直情型だから――。
(セルゲイもアンドレイを敵に回してたら危なかったな)
(ニール、セルゲイはアンドレイの何倍も手ごわいぞ)
 ニールと刹那がそんなやり取りを脳量子波で交わしていることをセルゲイは知らないであろう。余裕たっぷりに笑っているようには見えるが――。
(――大佐、私はまだ諦めません!)
 ニールの脳裏に女性の声が聴こえた。ソーマ・ピーリスだ。
(どんなことをしても、あなたの娘になりたい――)
 その言葉には悲痛な響きが込められていた。
(ソーマ……)
 ニールはソーマ・ピーリスの脳量子波に答えた。
(あなたは……?)
(ニール・ディランディだ。俺がイノベイターだってことは知っているな?)
(…………)
(アンタ、本当はセルゲイの妻になりたいんじゃないのか)
(…………)
 ニールの疑問にソーマは沈黙で答える。
(セルゲイのこと、好きなんだな――)
(ああ――)
 今度はソーマも答えた。
(だが、この感情が親に対する愛か、それとも恋愛か区別がつかないのだ――)
 ソーマが続けた。ニールが、
(そうだな――だが、本物の親子でもそんな感情を持つことはあるんじゃないのか?)
 と、ソーマに伝えてやった。刹那は沈黙していた。刹那は素知らぬ顔で香り立つコーヒーを嗜んでいる。沙慈とルイスも席に戻る。
 しばらく、カチャ、カチャ、とナイフとフォークの音が響いた。格調高いBGMが流れている。時々笑い声や話し声がするが、それらは今のニールには遠く感じる。
 ルイスが沙慈の方をじっと見ている。沙慈もルイスをじっと見ている。この二人の仲を裂くのは至難の業だな、とニールは思った。裂く気もないが。
 むしろ、沙慈とルイスのことは、アンドレイのことがなければ本気で祝福したい。だが――。
(ルイスのこと、アンドレイに知られたら刃物くらいは出されそうだからな――)
 ニールはアンドレイのルイスに対する恋情の激しさを知っている。刹那がいなければ今頃ニールはこの世にはいない。――まぁ、もともとこの世にいるのが不思議、というか奇跡的のようなニールではあったが。
(私はアンドレイの恋を応援したい。一応私の義兄なのだから)
 私の義兄、と来たか――。ソーマはフェルト達と食事をしたためていた。ソーマとニールの会話は普通は聞こえていないであろう。セルゲイも知らない。一部の人達の秘密。
(でもなぁ、沙慈もなかなかいい男だぜ)
(知ってる。だから困ってるんだ。まぁ、大佐には敵わないが――)
 ソーマの台詞にニールがぷっと吹き出した。
「ニールくん?」
 セルゲイが怪訝な声を出す。
「ああ。セルゲイ。今のは思い出し笑いです」
「そうか……」
 セルゲイはまた食事に戻る。結構、テーブルマナーが板についている。彼は『理想のお父さん』だ。ソーマが惹かれるのもわかる。
(ソーマ……答えはもっとゆっくり出してもいいんじゃないか? ――俺の答えは決まっているがな)
(どういうことだ――?)
(俺は、刹那の為に生きているってことさ)
 そう――だからこそ、命を長らえた。全ては刹那の為。刹那に会う為刹那を護る為。
(羨ましい。そんなに一途に愛することが出来て)
(まぁな。愛されるより幸せだぜ。愛することが出来るってのは。そして、ソーマ。アンタも幸せ者だぜ)
(こんなに苦しいのにか?)
(苦しくても、俺達は愛する為に生まれて来たんだ)
 ニールは真面目にそう思った。
(ニール・ディランディ)
(おお、刹那。聞いてたな)
(俺も、お前を愛している――俺も幸せ者だな)
(全くだ)
 そして、アリーとニキータも――。アリーはいまいちわからないが、ニキータは全身炎のように、父親であり、恋人である男を愛したのだ。
(幸せだよ。俺達みんな――)
「アンドレイは、いい娘に恋をしたと思っている。例えあれがルイスに失恋しても、その経験は無駄にはならんだろう……」
 セルゲイの言葉にニールは我に返った。セルゲイの声は低く太く、よく通る。
「わ、私はそんないい女じゃありません。沙慈にもそのう……我儘ばかり言っちゃって……」
「いいんだよ。そんなルイスが僕は好きなんだ」
「私も沙慈のことが――そうだ。私の宝物お見せします」
 ルイスは座っていた椅子をどけて立ち上がる。彼女はセルゲイの前で手袋を外す。義手には沙慈の買った指輪が嵌まっていた。沙慈がおずおずと言った。
「僕とお揃いなんです。僕も――僕にとっても宝物です」
「私がねだったようなものなんですけどね……」
 ルイスの頬がうっすらと上気する。あの顔をアンドレイは見られないのか。今、初めてニールは心からアンドレイに同情した。そして、沙慈がどんなに幸せ者かも知っている。
「ルイスのこと、大切にしろよ。沙慈。アンタは幸せだ。愛する者に愛されて――」
 そして、ニールは心の中で刹那に伝えるつもりでテレパシーを発信する。
(俺も、刹那を愛することが出来て幸せだぜ――)
(馬鹿……)
 だが、ニールには刹那もほんのり顔が赤くなっているような気がした。刹那のミルクチョコレート色の肌が今度ははっきりと薔薇色に染まるのが綺麗だとニールは思った。
「そんなに見ないでくれ……」
「何だ? 恥ずかしいのか?」
「きまりが悪くなる――」
「恥ずかしいって正直に言えよ。お前の恥じらう姿は可愛いぜ。刹那」
「ん――」
 刹那が微かに笑んだ。その時だった。
「皆様、お集まりでしょうか」
 王留美が立ち上がった。ニールと刹那が驚いた顔を見合わせた。
「お嬢様――まだ、三十分しか経ってないぞ」
「王留美は食事はゆっくり取るタイプだがな」
「皆様、どうかお食事を続けてください――紅龍」
「うむ」
 紅龍も立ち上がる。
「私はさっき留美と相談をしました。と言っても、短い間ですが――私は王留美と同じ結論に達しました。私達は、カタロンにアロウズと停戦することを申し出ます」
 食堂にざわつきが走る。ミハエルとネーナが不満そうな悲鳴を上げる。ベルベットが賢し気な目をきょろきょろさせた。

2017.6.17

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