ニールの明日

~間奏曲16~または第二百二十四話

 経済特区日本では今年もまた、暮れを迎えようとしていた。日本の首都。東京――。
 ベルベット・アーデは、はぁっと白い息を吐いた。父親のアレルヤ・ハプティズムに手をひかれて。ベルベットの左隣には母親のティエリア・アーデがいる。
「とうさま、あれなに?」
「福引だよ。――ちょうど福引券もあることだし、やってみようか」
「わぁい」
 アレルヤに抱えられたベルベットが福引のガラガラを回した。出てきたのは金色の玉。りんりんとベルが鳴る。
「一等賞の伊豆温泉旅行一泊二日二人分の旅行券です。おめでとうございます」
「な……」
 ティエリアが目を瞠っている。アレルヤが続けた。
「ベルはくじ運がいいなぁ」
「なにかあたったの? とうさま」
「温泉旅行が当たったんだよ」
「おんせん?」
「そうか。ベルは温泉は初めてか――じゃあ行こう。温泉に。追加料金も用意出来るからベルも行けるよ」

 彼らは伊豆へと出発する。ティエリアが独り言つ。
「こんな場合ではないというのに――」
「いいだろう? 僕達にとってもいい記念になる」
 と、アレルヤ。
「それはそうだが――」
 旅館は大きかった。アレルヤは荷物を置いた。
「立派なところだね」
 畳の部屋へ行くと、ベルベットが転がり出す。
「いいにおいなのー」
「そうか。ベルベットは和の心を知っているな」
 ティエリアは愛おしそうに目を細める。
「わのこころなのー」
 ベルベットは生まれて初めての温泉旅館ではしゃいでいる。ティエリアがベルベットを見ながら言った。
「よく目が回らないな。ベルベット」
「ん……」
 ベルベットは、はーっと息を吐いて大の字になる。窓の外には景観が。
「来て良かったよ。ティエ、ベル」
 外を見ながらアレルヤが言った。
「さ、夕食の前に温泉でも入って来よう」
「僕はあまり気乗りしないな」
「ティエはね。ベル、君はどうだい?」
「いきたいのー」
「だが……僕は男湯と女湯とどっちに入ればいいんだ?」
 ティエリアが真剣に考えている。
「女湯に入ってくれないか? ティエリア。ベルだけだとどうも心配だ」
 アレルヤがティエリアにこそっと耳打ちをした。
「わかった。ベルベット。僕と一緒に入ろう。タオルでも巻いていれば、まず男とは疑われないだろう。――僕は男でも女でもあるのだが」
「君は綺麗だよ。ティエリア。男に見られることはまずないね」
「それはそれで複雑なんだがな……」
「かあさまといっしょにおふろはいるのー」

 数十分後――浴衣姿でティエリアとベルベットが浴場から出て来た。
「お、待っててくれてたのかい?」
「今出たばかりだ。――温泉というのは気持ちのいいものだな」
「露天風呂入ったかい? ベル」
「はいったのー。かあさまといっしょに。おおきなおふろだったの」
「それは良かった。ティエ。変わったことは何もなかったかい?」
「何も。ベルが滑って尻餅をついただけで」
「ベル、痛くないかい?」
「む~、ほんとはちょっといたいの~」
 ベルベットの返答にアレルヤはくすっと笑った。
「次からは気をつけようね」
「はーい、なの~」
 その時、すーっと襖が開いた。この旅館の女将だ。
「夕食はいつお召し上がりになられますか? ここは海の幸が豊富ですよ」
「どうするかい? ティエ」
「魚介類はちょっと……」
 ティエリアが綺麗な眉を寄せた。女将は笑顔を崩さない。
「そうですか。少しでも試してみては? この旅館はお食事付きですが、もしどうしても無理なら、この近くにそれは良いお店があるから、訪ねてみたらどうでしょう」
 アレルヤとベルベットは魚介類をやっつけた後、ティエリアも交えて『それは良いお店』に突撃し、料理を堪能した。
「ここでは大きな声では言えないが、アレルヤの料理の方が旨いな」
「ティエ……ここの料理も充分美味しかったよ」
「そうか……君のおかげで僕達の舌が肥えただけか」
「おいしかったの」
 ベルベットは満足したようであった。
「じゃあ、そろそろ帰ろう。ほら、ベルも眠そうにしているし……」
「うん……とうさま……ねむいの……」
 アレルヤはベルベットを背負った。ベルベットはアレルヤの背中で眠ってしまった。
「今日は良かった。何もかも」
「そうだな……」
 眼鏡の奥のティエリアの目が優しい光を湛えている。ティエリアは態度はぶっきらぼうだが、その顔は美しい。この、不器用だけれど優しいティエリアを、アレルヤは愛していた。
「明日から――当分ベルベットとお別れだな」
「言わないでくれよ。ティエ。それに、あのペンダントがある。僕達はまたベルに会えるよ。それは、触ったり、頭を撫でたりすることは出来ないけれど――」
「君にとっては残念だな。アレルヤ・ハプティズム」
「ティエだって――」
「ん、む~」
 ベルベットが寝言を言った。アレルヤとティエリアは顔を見合わせて笑った。束の間の安息である。
「ニール、元気にしてるかな……」
「平行世界のロックオンか……大丈夫だ。ニールはもう、死なない」
「ティエがそう言うと、本当にそうなるようで、心強いね」
 アレルヤは微笑みを絶やさない。――旅館の部屋に着いたアレルヤは、ベルベットを布団に寝かせた。早く、ベルベットに別れを告げなければならない。だが、アレルヤはそれを伸ばし伸ばしにしていた。
(もう、会えないかもしれない――)
 アレルヤはベルベットがずらした布団を直す。そして、ぽつり、と言った。
「イノベイター狩りなんて、なくなればいいのに……」
「仕方ないだろう。現実にそれはあるんだから――ベルベットの存在が知れたら、人体実験のサンプルにされないとも限らない」
「そうだね……」
「それに、あの世界にはロックオン・ストラトス――いや、ニール・ディランディがいる」
「ティエ、君はまた、やけにロックオンを頼りにしているね。ちょっぴり妬けちゃうな」
「馬鹿――僕達の間にはベルベットがいるだろう。それに――僕はロックオンのおかげで救われた」
「ニール・ディランディだよ。ティエ。この世界では、彼はもういない」
「そうだったな。僕のせいでな」
「ティエ……二度とそんなことを言わないでくれるかい? ニールは君のことを恨んだりはしていないさ」
「あの男は人を恨まない」
「わかったら、僕達も寝よう。明日は忙しいよ」
 ティエリアは口元に笑みを浮かべながら、そうだな、と答えた。三人は川の字になって寝た。

2017.12.06

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