ニールの明日

第二百二十二話

「ふぅ……あらかたこんなもんか。まだ少しにおうな」
 会談の終わった後、ニールは自分の吐瀉物をダーナルと掃除していた。
「済まねぇな。ダーナル。手伝わしちまって」
「構わねぇよ。お前が悪いんじゃないんだし。悪いのは、あのリボンズって野郎だろ?」
「ああ……」
「それよりお前、アロウズに行かなくていいのか? ――いや、行かなくていいんだけどさ。どうせ罠だろうし」
「――少しは待っててくれるさ」
 食堂の片隅では、セルゲイとソーマ・ピーリスがラグランジュ3のメンバーから祝福を受けていたが、ニールはそれどころではなかった。それは、二人のことは喜ばしいことではあるのだが。
「……いい歳してって、アンドレイに叱られねぇかな、セルゲイ……。あ、アンドレイっていうのは、セルゲイの息子だ」
 アンドレイは父親の結婚宣言をどう受け止めるだろう。ニールはそれが気掛かりだった。ショックを受けなければいいが――アンドレイの性格を知っているニールはそれが心配である。しかも、相手は妹ともいえる存在のソーマだ。
「なぁに。アンドレイってヤツも多分もういい大人なんだろ? それに、セルゲイさんはいい男だから、前から誘惑もあっただろうよ」
 ダーナルが答えた。――その横で、アニューがぶつぶつ言っている。
「私の薬……効かなかったのかしら――早く改良しないと」
 ライルが、ぽん、とアニューの肩を叩いた。
「大丈夫。アニューの薬が効かなかった訳じゃないって。リボンズが規格外だっただけだぜ」
 そう言って、懸命に立ち直るように促す。そして、ライル達はその場を後にする。アニューを慰めるのはライルの役目だとして――。
「臭い消し、必要だな。ここ、食堂だからな――済まない。コック長」
 ニールの謝罪にコック長は「なんのなんの」と、笑顔を見せた。
「そういうと思って持ってきたぜ。ほら」
 バルドゥルがやってきて、臭い消しを使った。一見、荒っぽく見える男だが、実は繊細で、周りのことも良く見えるし、いろいろ気遣ってくれているのである。――この男も。
 この基地に来て良かった。
 アロウズに行く為、また離れ離れになるけれど――自分達はまたここへ帰って来る。王留美が言う。
「ニール・ディランディ――アロウズへはなるべく早く来て欲しいとのことです」
「了解!」
 ダブルオーライザーの機動力をもってすればアロウズへはすぐだ。
「ニール……お前、掃除が趣味になったのか?」
 イアン・ヴァスティが来て言った。
「ああ、おやっさん――俺が床汚したんで綺麗にしているところですよ。ダーナルやバルドゥルも手伝ってくれてます」
「えへへ……」
「そうか。そういえば、ニール、ゲロ吐いたんだよな。――お前の体調が整い次第、アロウズに向かって欲しいんだが、大丈夫か? もう機体も整備してあるのだが」
「ありがとうございます! ……ですが……」
「俺達のことなら気にすんな。それより、俺はお前の方が心配だぜ」
 と、ダーナル。
「ありがとう。ダーナル、バルドゥル」
「ニール。オーライザーに乗れるか?」
 刹那も気を使ってくれている。いつもと同じ表情だが、自分のことを気遣ってくれているのがわかるのだ。
(俺は、いろんな人の手助けを借りて生きている――)
 ニールは不意に、Dr.ランスやジョーやボブ、ジョシュアのことを思い出していた。
 それに比べて――ニールにはリボンズ・アルマークが突っ張って生きているように思えた。
(まぁ、人のことだ。リボンズのことは俺には関係ない。――だが、刹那の言うこともわかるな。リボンズを救いたい――か。でも、そんな情け、リボンズはいらねぇんじゃねぇかな)
 ニールは刹那の方を見た。わかっている。そう言いたげに、刹那はこくんと頷いた。
 しかし、リボンズを救うには、彼を殺すしかないのかもしれない。それが、ガンダムの役目だとしたら――。
 刹那は迷わず遂行するだろう。
 まぁ、それは最悪のケースで、できるだけそうしないように話を持っていければいいのであるが――。
「ニール、ニールってば!」
 ダーナルが叫ぶ。
「……何だよ」
「ここはもう片付いた。治ったらさっさとお前の仕事をしろよ。――確かに気掛かりではあるんだけどさ。俺は――いや、俺達も本当はお前に期待しているんだからな」
「少しお休みになります? アロウズへは私が言っておきます」
「ああ、頼んだ、王留美」
 刹那が王留美に言う。そして、ニールの手を取った。
「お前はこっちだ」
 刹那がニールを廊下へと引っ張った。ニールはソファに座るように命じられた。
(俺はもう大丈夫なのにな――)
 だが、刹那が看病してくれるとは、美味しいシチュエーションだ。このまま黙ってまな板の鯉になってやろうか――ニールは少し迷う。だが、結局いつも通り振る舞うことに決めた。
「ニール、スポドリ」
 刹那がストロー付きの水筒を差し出した。独特の甘味が喉を通って行く。
「かぁーっ! うめー!」
「――少しは元気になったか?」
「何言ってんだよ! 俺はいつでも元気だぜ!」
「けれど、リボンズの精神攻撃は効いただろ」
「ああー……あれはな」
 ニールは照れ臭くなって頬をぽりぽり掻く。確かにあれはきつかった。ニールはまたストローでスポドリを飲む。――そこで気が付いた。
「あ、これ、お前のだったか? 減らしてごめんな」
「いいんだ。お前が元気になってくれる方が嬉しい」
「――そっか」
 ニールはやに下がった。
「何ニヤニヤしている。水分取ったらここで少し休憩しろ」
「へいへい」
「それにしても――いいところだな。ここは……」
「ん――」
 寝る気なんかなかったのに、いつの間にか寝てしまったらしい。ニールの額に柔らかい感触があった。ぱちっと目を開けたニールは刹那と視線がぶつかった。
「わっ! 何だよぉ。俺を襲う気だったのかぁ? 仕様がねぇヤツ」
「べ……別に……」
「額にキスしてくれたのか? おかげで目が覚めたぜ。ありがとよ」
「……イアンのところへ行ってくる」
「行ってらっしゃ~い」
 起き上がったニールが刹那に手を振る。――刹那からの愛情表現。ニールもにやけない訳にはいかない。
(刹那、お前がいてよかったよ。それに――昔より随分と大人びて……綺麗になった……)
 グラハムみたいな輩に狙われないかとつい気を回してしまうのだが――。俺が刹那にべた惚れなように、刹那も俺にべた惚れなんだよな――なんだよな……。
 少し、自信が持てないニールであった。恋は人を不安にさせる。今までこんなことはなかった。だが――刹那は魅力的だし、自分よりもっと素敵な相手に巡り合わないとも限らない。
 ――マリナ姫も素晴らしい女性であった。刹那が恋に落ちてもおかしくない程の――。だが、彼女は紅龍といい感じらしい。
(みんな幸せになるといいよな――)
 いい気分でニールはまたソファに寝っ転がった。窓の外では星が見える。
「――おい、いつまで休んでいるつもりだ」
 イアンが仁王立ちをしている。
「あ、おやっさん。――早かったっすね」
「のんびり寝てる暇なんて、本当はないんだぞ」
「わかってますって」
「いいや。わかっとらん。わかってたらこんな満ち足りた顔で寝てないぞ。全く、どいつもこいつも――」
 イアンにも何かあったのだろうか。だが、ニールは敢えて訊かなかった。イアンだって、そう素直に話してくれるとは限らないし。心を読む手もあったが、そうするのは少し気がひけた。――セルゲイもソーマも幸せの絶頂だろうし、ラグランジュ3の連中の騒ぎも大きくなっていることだろう。
 めでたいこととはいえ、イアンの立場からすれば、めでたいめでたいとばかり言っていられないであろう。
(イアンのおやっさんも大変だな――頑張れよ)
 ニールは心の中で密かにイアンを労った。
「動けるか? ニール」
「もちのろん」
「じゃ、ダブルオーライザーのところへ行くぞ。刹那が待ってる」
 ダブルオーライザーのあるところ……ニールには大体わかった。こういう時、イノベイターの力は便利である。それに、昨日通ったところでもある。
 俺も、人間じゃなくなったのかなぁ……。
 ニールは自分の掌を眺める。人間でなくなるのは寂しい気がする。双子の弟、ライルはどうなのだろう。双子だから素質はあるんだろうけれど……。その時、イアンが「早くしろ!」とがなり立てたので、慌てて駆け出した。

2017.11.16

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