ニールの明日

第二百七十五話

「いたいた、とうさま、とうさまー!」
「ベル! 何だ、こっちに来ちゃったのかい」
「ぼくがいきたいってゆったから」
「もうりひちゃまったら……『ゆった』ではなく、『いった』でしょう」
「はーい」
 リヒターが嬉しそうに舌を出して笑った。ベルベットとリヒターは前からもだったけれど、近頃すっかり距離が縮まっていた。
「ほらね、まま。ぼくのいったとおりでしょ?」
「そうね」
 クリスティナ・シエラがくすくすと笑う。
「リヒターは何て言ったんだ?」
 ニールが訊く。リヒターが胸を張る。
「こっくさんやあれるやおじちゃまがたのしいことやってるって」
「おじちゃま……」
 アレルヤは苦笑していた。
「りひちゃまったらめなの! とうさまはおじちゃまじゃないの! まだおにいちゃまなの!」
 ベルベットが反駁する。リヒターは目を丸くしていた。
「おとなはみんなおじちゃまおばちゃまじゃないの?!」
 クリスもにこやかに笑って、違うのよ、と教えていた。「こういう時の子供の破壊力は素晴らしいね」と、コック長はアレルヤと話していた。アレルヤも同意を示す頷きを返した。

 そして、機械を稼働する。チーズの噴水が流れ出る。
「わぁ、いいにおい」
 ベルベットが歓声を上げる。
「りひちゃまやってみない? はい」
 爪楊枝に突き刺したサイコロ大のパン切れを、ベルベットは渡した。
「うん、やってみる」
「気をつけてね」
 コック長の言葉にも、リヒターは、「うん」と神妙に頷く。些かこのチーズの噴水に心奪われているようだった。子供はこういうのが好きだからな。ニールは何も言わずに見ていた。上手くいったら生涯の思い出になるだろう。
 リヒターはチーズのかかったパン切れを食べる。
「おいしい!」
 息を詰めて見守っていた大人達は、はーっと安堵の息を洩らした。
「これもやってみないか?」
「つぎはべるねえのばんだよ」
「うん!」
 少し離れたところで、ティエリアが優しい顔で子供達を見守っている。それを確認したニールは、ベルベット達に向かって素早くシャッターを切った。
「今度はこれなんかいいんじゃないかな」
 アレルヤはアスパラガスをチーズの噴水に差し出す。子供達ももう、勝手にコック長が用意したチーズフォンデュの試食用の食材に液体のチーズを浴びせる。
「うん、美味しい。ありがとう、オハラ」
 アレルヤが言う。オハラは、
「いえいえ」
 と言って手を振る。コック長って、オハラって言うんだな。――ニールは思う。今までコック長と呼んでいたから、気づかなかった。
「どれ、俺も――」
「ニール、ちょっと順番代わってくれないか?」
 と、刹那。
「――いいけど、どうしたんだ?」
「ちょっと試したいものがある。コック長。チーズはないか?」
「今日はカマンベールチーズを使った料理を出すから、あるよ。チーズにチーズをかけるのか――面白そうだね」
「ああ、流石は俺の刹那だ」
 刹那は聞いていたのかいなかったのか、ニールのそのセリフには答えず、コック長の用意しした、とろりと溶けたチーズのかかったカマンベールチーズをぱくっと食べる。
「美味しい……これが幸せの味なんだろうな。――チーズフォンデュなんてセルゲイとソーマの結婚式以来だ」
「刹那……」
 こんな何でもない日常を、刹那は幸せだと言う。いままで、よほど過酷な人生を送って来たのだろう。けれど、刹那は気高さと優しさを失わなかった。だから、ニールは刹那に惚れた。
 ――まぁ、それだけじゃないんだけど。
 ニールがぽりぽりと頭を掻く。――俺は刹那が好きだ。刹那の全てが好きだ。
 アレルヤの方にふと目をやると、アレルヤが共感の意をその瞳に宿していた。
(わかるよ)
 そう言いたげだった。実際には、そんな声など聞こえはしなかったのだが。ニールとアレルヤ。二人は似た者同士かもしれない。――ティエリアもいろいろ訳ありみたいだったから。
 誰もが幸せになる権利を持っている。
 それは、どこかの本で昔読んだフレーズだった。あれは、どこで見たのだったろう。
 ニールは、今は幸せだ。だけど、この幸せは沢山の犠牲のうちに成り立っている。父さんや母さんや、エイミー。アリーは彼らに会ったことはあるのだろうか? ニキータは?
 皆、天国へ行けるといいのに――。
 けれど、かの国に帰るには、自分の使命を果たさないと駄目なのだ。生きているうちに。――いや……ニールは思った。刹那とだったら、永遠を生きるのも悪くない。
(本気ですか? ニール)
 ELSの声だ。
(ああ、本気だ。俺は、刹那さえいれば、どこへ行こうと構わない)
(不思議ですね。刹那も同じようなことを言ってましたよ)
(――え?)
(ニールは俺のガンダムだって)
 ELSにまで――ニールは笑いを噛み殺した。刹那がニールの表情の変化に気が付いたらしい。
「どうした? 変な顔して」
「わからないか? 刹那――お前は、俺の心を読めるんだろ?」
「――聞き逃した。それに、俺はお前の心を全て読める訳ではない。そんなことになったら気が狂う」
「……そうだな」
 ニールがベルベット達とわいわいやっていると、コック長がサイコロステーキを持って来た。
「わぁ、おいしそう! ありがとうなの、こっくさん」
「ありがとう!」
 ベルベットとリヒターが大声でお礼を言う。せめてこの子達だけでも、幸せにしてやりたい。何の痛みもないような。幸せな世界を引き継いだ彼らが、更に幸せになるように。
 お前達の痛みは、俺達が引き受けるから――ニールは敢えてそう思った。
 サイコロステーキにチーズを絡める。
「んまい!」
 物を食べながらでは、いくらニールであっても、難しいことは考えられない。ニールは脳の構造に感謝した。じゅわっと肉汁が溢れる。
「一人一個ですよ」
 コック長からそう言われた時は、残念な気持ちがしたものだ。
「ふむ。結構美味だな」
 ティエリアでさえ、笑顔のうちにそう言った。
「おいしいのー」
「むぐ、むぐ」
 べルベットとリヒターの声がする。クリスも、ほっぺた落ちそ~っと言って喜んでいる。
「コック長。僕、明日の準備してきます」
「――頼んだよ」
 コック長のオハラが厨房へ行ったアレルヤの手順を見守っている。この二人が組めば、食事方面でも敵なしだぞ、とニールは思う。いつも、ご馳走ならばご馳走なりに、質素ならば質素なりに美味しい料理にありつけるだろう。

「あ……あの……お取込み中済みません……」
 ルイス・ハレヴィが入って来た。ニールが手を挙げる。
「おう、ルイス。どうした?」
「まだ沙慈、来てません……よね?」
「そろそろ来るんじゃないか?」
「はぁ、私もそんな気がします」
(未来の予知能力でもあるのか、この嬢ちゃんは――)
(……ニール。この娘もまたイノベイターだ。未来の予知能力ぐらいあるかもしれないな……)
 そう答えたのは、誰よりも愛しい刹那だった。ニールは、刹那に心を読まれ、それに答えが返って来る程度のことでは動揺しない。刹那も実は芯が強い。ニールの双子の弟、ライルの方がああ見えて繊細な質である。

2019.05.24

→次へ

目次/HOME