ニールの明日

第二百九十三話

「マリナ!」
『紅龍!』
 お互いに名を呼び合って、モニター画面上に手を重ね合わせる。一日千秋の想いで想い合っている二人である。――しかも、二人とも立場が立場なので、実際に会うこともままならない。
 マリナ・イスマイールはアザディスタンの皇女。王紅龍はCBの当主である。
「会いたい。マリナ」
『私も――』
 マリナが頬を染めた。紅龍はマリナを抱き締めたくなった。――マリナはきっと良い匂いがするだろう。けれど、姿を見るだけで、紅龍は取り敢えず満足した。
「元気だったか?」
『ええ。貴方の妹さんも幸せそうでしたわ。――具合が悪いとおっしゃってたけど……』
「何だと?! 子供でも出来たのか?!」
 紅龍が驚いたように叫ぶ。
『さぁ……モレノさんは違うと言っていたようなんですが……』
「モレノ? Dr.モレノか! 元気にしてるだろうか!」
『多分、元気にしてらっしゃると思うわ』
「そうか……」
 自分に甥か姪が出来たら、メロメロになってしまいそうな気がする。グレンと留美の子供なら、さぞかし可愛いだろう。彼らの子供が生まれる前に、平和な世界を残してあげたいと、紅龍は思った。
(――もうすぐ、私の子供の時代が来る)
 紅龍は気を引き締めた。己も、子供達のお手本にならなければならない。
『紅龍?』
「ああ……留美の子供のことを考えていた」
『未来の子供達には……幸せになって欲しいですわね』
「私も同じようなことを考えていた。――平和な世界を残してあげたい、と」
『まぁ、私達、気が合いますね』
「――戦いの中でしか生きられないような男もいますがね。グレンとか」
『子供が出来たら考えも変わるんでしょうけれど』
「マリナ――それは女の考え方だ。男の考えはまた違うものなのだ」
『私は殿方じゃないからわかりませんわね。でも、私の知っている子供達は、皆平和が来て欲しいと願ってましたよ』
 無邪気なマリナ。美しい心を持ったマリナ。
 彼女なら、確かに戦争に対して嫌悪感を持つかもしれない。けれど、紅龍には、留美の気持ちがわかるのだ。グレンの気持ちもわかるのだ。――戦う者の気持ちがわかるのだ。
 何故なら――紅龍もやはり留美の兄で、男だからだ。
(私は――罪深い者かもしれない……)
 マリナの歌を聴きたい。紅龍はそう思った。マリナの歌を聴くだけで、心が洗われるような気がする。子供達の歌声も聴きたい。
 今、全世界でマリナ達の歌が流れているのだ。
(マリナも戦っている――)
 銃や剣を持って争う戦いではないかもしれない。だが、マリナには歌と言う武器がある。人を幸せを望む美しい心がマリナの武器だ。マリナは姿かたちだけでなく、心も綺麗だ。
(私だけ、何もない――)
 いつの日か、紅龍もマリナと結婚したいと思っている。だが、自分がマリナに相応しいかと問われると、二の足を踏んでしまう。
(留美が聞いたら笑うだろうな)
 グレンと一緒にいる資格のことなど何も考えないで、戦乱の地へ飛び込んでいった妹。彼女は疑わない。グレンの愛を。
 ――紅龍にとって、マリナ・イスマイールは犯されざる聖なる処女のような女性だった。けれど、女には違いない。彼女もいつかは誰かと……と、結婚を夢見たことがあるのではないか。
 それだったら、紅龍にも機会はある。
 マリナは、刹那が好きなものなのだとばかり思い込んでいた。だが、刹那がニールの恋人であるとするならば――。
 紅龍には同性愛に対する偏見は殆どない。留美なんて二人を祝福していたし。
(私のようなものでも、マリナと結婚することが出来るだろうか――。いや、勇気を出せ。王紅龍。妹だって、勇気と決意を以て、愛しい人と結ばれたではないか)
「マリナ……」
『はい』
 マリナの声は甘い声だ。――世界一美しい声だと、紅龍はいつも聞き惚れている。
「私と結婚して欲しい」
『まぁ……』
 マリナが頬に手を遣った。
『その言葉……ずっと待っていたかもしれません』
「じゃあ、承諾してくれるのかい?」
『はい』
 甘い声でそう言った後、マリナが浮かない顔に変わった。
(何だ? どうしたと言うんだ? マリナ――)
『シーリンは……私達の仲を認めてくださるでしょうか……』
 シーリン・バフティヤールとは、マリナの側近の女性である。
「マリナ……」
 マリナも重責の中にいるのだ。もしかしたら、紅龍よりもっと。マリナはアザディスタンの聖母のような女性であるから――。
(そして、この俺の聖母でもある――)
 紅龍はしばらく黙ってマリナに見惚れていた。やがて、マリナがはにかみながら言った。
『何か言ってくださらないの?』
「マリナ。貴女を見つめていたい」
『恥ずかしいですわ……』
「どうして……貴女は綺麗だ……」
 マリナに恋する男は数多いるだろう。紅龍は、刹那・F・セイエイもその一人かと考えていた。――刹那とニールの関係を知らなかったうちは。
 刹那は強力なライバルだと思っていた。――いや、当時はマリナは紅龍にとって高嶺の花だった。こうやって親しく話すことさえ、想像だに出来なかった。
『紅龍も、立派な殿方ですわ。――シーリンから許しが出た時は、その時は……』
「出なかったら?」
 紅龍はつい口を挟んでしまった。そんな自分を紅龍は、卑屈で、悲観主義者だと思う。けれど、マリナの為に性格を変えなければ。――いつまでも留美の陰にはいられないのだ。それに、留美は遠い中東の地にいる。
 戦火の絶えない地にグレンを追って行ってしまった妹を、紅龍は、今では誇りにさえ思っている。女の留美にさえ出来たのだ。男である自分が、愛の為に生きられないはずがない。
『出なかったら、その時は……駆け落ちでもしましょうか?』
「マリナ……!」
『変ね……貴方の妹さんに感化されたのかしら……』
「しかし、また、何と言う大胆な――」
『貴方のせいですのよ。それから刹那や留美の――私も花嫁というものに憧れていましたし。……けれど、私は……一生独り身なのかと少し寂しく思っておりましたの』
「マリナ……」
『私も自由に生きたい。でも、私にはアザディスタンの皇女としての責任があります。さっきの言葉は……忘れてください。ただ、紅龍との結婚は考えておりますのよ』
「ああ、ああ。その言葉だけでいい……マリナ、愛してる」
『私も……』
 二人は再びモニター越しに手を合わせた。そこから、互いの体温が伝わって来そうで……。
 ドクン、ドクン……。
 紅龍の中で、心臓がうるさいくらいに鳴っている。彼は知った。これが恋だと――。
 初めてその姿を見た時から、マリナ・イスマイールに惹かれていた。そして、彼女は自分と結婚していいとさえ言ってくれている。自分のような者と――。
 幸せだ。
 天国に昇るくらい、幸せだ。例え、初恋は他の男であろうとも。マリナが真剣に自分との結婚を考えているようで、嬉しい。――留美も祝福してくれるだろう。……そのことが紅龍にはわかっていた。
 王留美もまた、愛に生きた女性だから――。
(似ているな。留美。私とお前――お前は無事で生きているか? 今でもまだ、グレンに大事にされているか――?)
 紅龍には、留美が剣を取って戦う姿が容易に想像出来た。これでも留美の兄なのだ。留美のことはよく知っている。――近頃はあまり連絡も取っていなかったが。
 留美にも報告すべきか――マリナのことを。
 だが、まだ結婚すると決まった訳じゃない。グレンや、自由の身になった留美とは違って、紅龍とマリナにはやらなければならないことは山のようになる。
 今のところ、CBとアザディスタンは敵対していないからまだいいが――。
 今のうちに結婚式を挙げてしまおうかと、紅龍はそんなことも算段する。
『紅龍。愛しています』
 その言葉が、紅龍を我に返らせた。
『誰が反対しても、シーリンが賛成してくれたなら……私は貴方と結婚します』
 シーリンか……。
「シーリン・バフティヤールは、俺の最大の恋敵だな」
『まぁ……』
 マリナはくすくす笑った。その様が小鳥のようで可愛らしいと、紅龍は思った。マリナ・イスマイール。貴方の全てを愛している――そう、紅龍は心の中で囁いた。己以上にマリナを愛している男性はいないだろうとも考える。

2019.12.18

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