ニールの明日

第二百九十九話

『ルイス・ハレヴィと沙慈・クロスロードが婚約した。――報告は以上だ。マリナ・イスマイール』
 モニターの向こうの刹那・F・セイエイが敬礼をした。
「そう――」
 マリナは自分でも浮かない顔をしているだろうと思った。刹那は訊き正したりはしなかった。――ニールなら聞いて来たであろうか。
(紅龍――)
 マリナは想い人のことを頭に浮かべた。モニターの画面は黒くなっていた。マリナの顔が反射する。長い黒髪に異国風の衣装。
(やっぱり、このままじゃ駄目なんだわ――)
 王紅龍。ソレスタル・ビーイングの元当主、王留美のたった一人の兄。――王留美は砂漠の地でグレン達と何とか楽しくやっているらしい。何とかいう女の人から習った音楽も聞かせてくれた。
 けれど……マリナはもう一人の人物のことも頭に思い浮かべた。シーリン・バフティヤール。マリナの個人的な政治アドバイザー。そして、長年の友人でもある。
(また、反対されるかしら……)
 シーリンには、王紅龍との仲を反対されているのだ。シーリンにだって恋人がいない訳ではない。
 彼女の恋人はクラウス・グラード。カタロンの中東第三支部のリーダーである。
 確かにクラウスはいい男ではある。けれど、そんな男を恋人に持っているくせにマリナの恋は認めていないなんて――。
 しかし、シーリンの言うことも一理あるのであった。
(貴女はアザディスタンの象徴であり、聖母なんですよ)
 いつもいつも、そうマリナに言い聞かせていたシーリン。――本当はマリナはシーリンの理想であるのかもしれなかった。
(けれど、私だって――)
 マリナはシーリンに対する反感を心のうちに潜めていた。それを表に出すことは滅多になかった。それでも、彼女はシーリンに対して紅龍のことを何度も言ったことがある。
(ふざけないでください。姫様。妹に一度は当主の座を奪われた男にアザディスタンの皇帝が務まるとお思いですか)
(紅龍は――彼は立派に公務をこなしてくださいますわ。それに、紅龍で足りないところは私が――)
(話は平行線ね。――彼にそれだけの価値は見出せませんわ。私には)
 その時、シーリンの眼鏡の縁がきらりと光ったように感じた。
(私は我儘なのかしら――)
 出来るだけ、シーリンの意に添うように生きたかった。けれど、マリナは恋をしてしまった。恐らく、ここにいる子供達以外は祝福してはくれないだろう恋を――。
 だからこそ、シーリンにだけは認めてもらいたかったのに――。
「う、く……」
 マリナは涙を堪えようとした。それでも、溢れ出る想い――。
(私は、王紅龍が好き――)
 マリナはポケットからハンカチを取り出した。茉莉花の香りがする。シーリンの香りだ……。
(シーリン……いつもありがとう。でも、この恋だけは譲れないの……)
 以前はシーリンだって、マリナと紅龍の仲を認めてくれたではないか――冗談交じりのものであったとしても。
 カッカッ――件の彼女、シーリンのハイヒールの音が聞こえた。男性陣からは揶揄い交じりに「鉄の女」と言われているシーリン・バフティヤール……。
 この国では、まだ女性の権利が大っぴらに認められていない。マリナでさえ、「お飾りのお姫様」と陰口を叩く者もいるくらいだ。
「姫様」
「シーリン……!」
 マリナはシーリンに抱き着いた。シーリンは驚いたようだった。マリナがこんな風に感情を露わにするのは珍しいから。シーリンからは茉莉花の匂いがした。
「ひ、姫様……?」
 シーリンの声が裏返った。
「シーリン……! ルイスと沙慈が婚約したのは知っていて?」
「ええ。存じてますわ。刹那が姫様の前に私に教えてくださったもの」
「刹那は……刹那にも恋人はいるわ……」
「ええ。いますわね。姫様……でも、貴女は……」
「教えて。私、何で紅龍と結ばれてはいけないの……?」
「いつも言ってるでしょう。貴女は――」
「聖なる皇女と言う訳ね。シーリン。でも、貴女だって……」
「まぁ、私は単なる民間人ですからね。姫様の後ろ盾がなければ……貴女がどうしても紅龍を必要とするなら、私はこの王宮を去ります」
「シーリン。私を困らせないで」
 シーリンを抱擁から解放したマリナが断固として言った。
「私は貴女に去って欲しくない。今、アザディスタンは貴女の力を必要としているの。――王紅龍と同じく」
「姫様? 私にはあの男程度の価値しかないとおっしゃるのですか? 王紅龍程度の男なら、他にいくらでも――」
「なら、私が子供達を連れてCBに下りますわ」
「姫様……! そんなことが可能かどうかをお考えください!」
「貴女にだって……少し考えればわかることのはずだわ。――恋した女がどんなに他人の言うことを聞かないか……紅龍と結ばれぬ運命であれば、どんな無茶でも結構することを――例えばこの窓から身を投げても……」
「姫様! それ以上はおっしゃらないでください……ごめんなさい……」
 シーリンが泣きながら謝る。マリナは聖母然として言った。
「どうして謝るの? シーリン……」
「私は……今まで貴女の為に良かれと思って生きて来た。王紅龍との恋も反対した。それも皆、貴女が姫様だからですわ……窓から身を投げるのは私の方が相応しいかもしれませんわね――」
「シーリン……」
 シーリンはどうしてこんなことを言うのであろう。――シーリンは紅龍のことを理解してくれていたのではなかったのか。マリナの恋を支えてくれていたのではなかったのか。
 全部――嘘だったのか……。
 マリナは目の前が真っ暗になったように思った。
「貴女が王紅龍を選ぶのであれば私は――クラウス・グラードと結婚します」
「まぁ……」
 マリナが愁眉を開いた。
「おめでとう。シーリン」
「姫様……ごめんなさい。お父様……国民の皆さん……私は、姫様の恋を応援します」
「ああ、シーリン……」
「その代わり、幸せにならないと許しませんわよ」
 シーリンはマリナの額をこつんと叩いた。マリナはくすっと笑った。
「私も――シーリン・バフティヤールとクラウス・グラードの結婚を、国を挙げて応援します」
「私のことはいいのよ……姫様に見捨てられても……私はクラウスと野に下るだけですから……姫様の結婚の方が世界を揺るがしますわ。本当に、王紅龍――姫様を幸せにしなかったら許さないんだから……」
 シーリンは台詞の後半を小声で言った。
(ああ、シーリン……!)
 マリナは再び涙を流す程喜んだ。
「――ありがとう!」

「紅龍! 聞きまして?」
「ああ。沙慈とルイスのことだろう?」
 紅龍がうんざりした表情をその整った顔に浮かべた。CBのお偉方が人形扱いする程の――。
「いいえ。それもあるんですけれど――そうだわ。まだ言ってませんでしたものね……シーリン・バフティヤールが私達の婚約を認めてくださったわ」
「……それは、公式のものかい?」
 紅龍が真顔になった。
「いいえ。――けれど、いずれ公式になるかと……」
「シーリン女史に宜しくお伝えください」
「シーリン……女史ね……」
 マリナがくすくす笑い出した。シーリンには女史と言う敬称があまりにもよく似合う。女史と言う敬称は最早何世紀も前の産物で、その頃にはもう差別用語として定められていたらしいが、本来は決して悪い意味ではなかった。
 けれど、シーリンが聞いたら怒るだろうか――。
「女史と言う言葉は安易に使わない方がいいと思いますわよ。――シーリンの前でも。シーリンがどのぐらい『女史』と言う言葉にこだわりがあるのかはっきりしませんもの」
「あ……済みません……」
「いいえ、いいんです。私も少し、シーリンには意趣返ししたいと思ってましたし」
「マリナ……貴女は意外と……悪い女ですね」
 聖母と言われる自分にも、普通に対等に付き合ってくれる紅龍がとても愛しいとマリナは思った。それは、刹那にさえ出来なかったことだから。
「悪い女はお嫌いですか?」
「いいえ……ただ、俺の好きになる女は皆悪女の素質を持っている」
「それは、妹さんのこと? 随分可愛がってらしたものね。貴方と王留美さんの映像はよく流れてましたわ。――兄妹だとは知りませんでしたけれど」
「まぁ、俺にはシスター・コンプレックスの要素があるんでしょうね……留美は優秀でしたし」
「貴方にだって言葉の端々に知性の煌めきが感じられますわ」
「……このことは誰にも言わないでくださいよ。……留美が昔言ってたんです。口を尖らせて。『お兄様は頭が良過ぎるから、当時のCBのお偉方に煙たがられて私が当主にさせられたんですのよ』って」
「まぁ……」
「でも、それが本当だとしたら、彼らは後々随分後悔したでしょうね……留美があまりに優秀だったものだから。でも今は……少しほっとしたかもしれませんね。留美が一人の女だとわかって」

2020.03.10

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