ニールの明日

第二百十四話

「コーヒーだ」
「ありがとう。セルゲイ」
「――ありがとう」
 ニールと刹那がセルゲイ・スミルノフに礼を言った。心を落ち着かせる匂いだ。
「――美味いなぁ」
 ニールが湯気の立つコーヒーを啜りながら言った。刹那はふう、ふうと冷ましている。刹那、猫舌だったっけ? ――ニールは疑問に思う。
「では、アロウズとの会談のスケジュールはホーマー・カタギリと打ち合わせしてからにしますわね」
「おう。頼んだぜ。お嬢様」
「頼りにしてるぜ」
 カタロンとの話し合いを纏め上げたことで、王留美の株は格段に上がった。CBの荒くれ者も、一目置く程に。
「期待してくださいませ――と言いたいところですけれど、今回は少し難敵かもしれませんわね」
「なぁに。王留美だったら大丈夫さ」
「そうだといいんですけど――」
 王留美が床に目を落とす。
「王留美さん」
 クリスティナ・シエラ――クリスが、王留美の肩を叩いた。
「クリスさん――」
「私達は、あなたを信じています」
「ありがとう。何だか力が湧いて来ましたわ」
(――王留美、少し無理しているな)
 刹那がこっそりニールに言う。
(そうだな――こっちがアロウズを裏切ったと言われればCBは立場がないもんな。――尤も、それは詭弁だけれど)
(脱走したのは俺達だからな)
 ――ニール達がCBの行く末を案じていると。
「おや。アンドレイからだ。――何だろう」
 セルゲイが声に出して呟いた。
「ニールくん。アンドレイが、私は無事かと訊いてくれた。――あの子にも心配かけたな」
「で? 何て答えたんだ? 別に教えてくれなくてもいいが」
 ニールはそう言って、また、さっきよりは少し冷めたコーヒーを口に流し込む。
「私はCBの動きを探っていると答えた――おや、返信だ。『ルイスはいるか?』って。いると答えていいかい? ルイス」
「ええ――」
 ルイスが控えめに答えた。彼女はニールの後ろにいたらしい。ニールはつい、びくっとしてルイスの方を見た。
「今、息子に私がどこにいるか聞かれた。――ラグランジュ3のことはCBの機密だったな」
「ああ。尤も、通信は繋がるようだけれどな」
 と、刹那。
「でも、ラグランジュ3の位置は探ってもわからない」
「まさか、こんなところにあるとは思わねぇもんな」
 ニールが刹那の言葉を引き継ぐ。
「何をお話してますの?」
 王留美もやって来た。
「ああ。アンドレイ・スミルノフ少尉と端末で通信をしていました」
「セルゲイ・スミルノフ大佐。ここの位置は教えないでくださいませ――今更口止めしても無駄かもしれませんが。誰かさんも恋人にラグランジュ3の存在を喋ったらしいですし」
 王留美は紅龍に視線を遣った。紅龍は素知らぬ顔をしている。けれど、彼がその『誰かさん』だということは、ニールの目にも明らかだった。
「わかりました。王留美殿。でも一応、アンドレイはアロウズの人間ですからね」
「あら。王留美殿なんて、改まらなくても良くってよ」
 王留美がくすっと笑った。年相応に見える、王留美の笑みだ。
「じゃあ、私のこともセルゲイと」
「アンドレイ・スミルノフとは、貴方の息子さんですの?」
「その通りです――ルイスは無事かと訊いている」
「無事だと返信してください」
 些か硬くなった声でルイスが言う。
「後――私には恋人がいると」
「わかった。――あの子には酷な話だが、あれもまだ若い。すぐに立ち直るだろう」
 セルゲイがルイスの言った通りにタッチパネルを押す。
「――ルイスの恋人は誰か、だとさ。気持ちはわかるがねぇ……」
 セルゲイが、ふぅ、と吐息を洩らす。
「隠しても仕方がないですから。『私の恋人は、沙慈・クロスロードです』――と」
「わかった。息子に伝えておこう」
 しばらくした後、セルゲイがルイスに伝えた。
「ルイスのことを宜しく頼む――だとさ」
「は……はい!」
「アンドレイもいい男じゃねぇか。何であっちにしなかったんだよ」
 ニールが訊くと、ルイスが、
「どうしてでしょうねぇ……恋というものは理論で測れるものではないんですよ。ニール・ディランディ」
 と、疲れたように応答した。
「違いない」
 例えば、刹那・F・セイエイ。何故彼を好きになったのか、ニールにも上手く説明出来ない。
 理由は沢山あるように思えるし、たったひとつのようにも思える。ただ、ニールにはこうは言える。――刹那は俺の同類だ。
(刹那――大好きだぜ)
 刹那にその想いが届いたのかどうか――刹那は何も言わず、テレパシーで発信も行わず、コーヒーカップを傾ける。
 ニールはそんな刹那を見ている。刹那のことは、いくら見ても見飽きない。可愛いな、と思う。
「あら、こちらにも通信が来ておりますわ。――ホーマーカタギリからですの。それでは、皆様、ご機嫌よう」
 王留美は優雅にお辞儀をしてその場を去って行った。
「じゃあ、私もアンドレイとの話を辞めにしよう。アンドレイも話したいことは全て話し終えたようだし」
 ――少しした後、セルゲイが端末のスイッチを切った。
「ああ、いたいた。ルイスー」
「沙慈!」
 ルイスの声が弾む。
「ルイス。紅茶持ってきたよ。好きだったろ? オレンジペコ」
「嬉しい。ありがとう」
 紅茶の香りがコーヒーの香りと混ざる。
「ニールくん。私達はあっちに行こう」
 セルゲイが誘う。ニールが肩を竦める。
「同感。俺達は退散するぜ」
 それに、正直、紅茶の香りがコーヒーの香りの邪魔をする。
「刹那。セルゲイとあっち行こうぜ」
「そうだな」
 ――刹那は素直に従う。お代わりをもらおうと、刹那はコーヒーメーカーのそばに行く。
「あ、そうだ。ニールくん。アンドレイが君に、『ニール・ディランディがいたら伝えて欲しい。あの時は済まなかった。この言葉の意味は父さんにはわからなくとも、ニールにはわかるだろう』――と」
 セルゲイが言った。
「いやいや。今の時点でもCBはアロウズの敵なんだし」
「けれども、自分でもおかしくなっていたようだった。アンドレイは。――そこまでは言っていなかったが、多分そういうことも告げたかったに違いない」
「悪く思う必要ないんだけどなぁ……」
 ニールは自分の自慢の巻き毛を掻き上げる。
(そういや、アレルヤとティエリアはどうしているかな。ベルベットと一緒にいるかな――)
 ニールはきょろきょろする。――いた。
 ベルベットはオレンジジュースを飲んでいて、アレルヤによしよしされている。ベルベットの言葉に、荒くれ男どもが哄笑した。刹那が戻って来た。
「何、ベルベットを見つめているんだ? ニール」
「いや、やっぱりさ――ああいう子供、俺達の間にいたらいいよな」
 俺達の子供じゃ、生まれた時から反抗期だろうな――そう冗談を言って、刹那は口の端に笑みを浮かべる。良かった。刹那は、もう過去のことを引きずっていない。それとも、少しは昔悩んだことの残滓があるのだろうか。

2017.8.26

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