ニールの明日

第二百十九話

「皆さん」
 凛とした声が響いた。特に声を張り上げてもいないのに、その場にいた全員が、声の主の方を注目した。
 ――王留美である。
「もうすぐ会談の時間でしてよ。ご歓談の邪魔をするのは気が引けますが」
 邪魔をするのは気が引ける。――そういう割には、王留美は悪びれていなかった。
(おい、皆、あっちの方を向いたぜ)
(――気持ちはわかる)
 ニールと刹那が脳量子波で話し合う。
「――と、その前に。ニール・ディランディと刹那・F・セイエイ。貴方がたには人を動かす能力がありますね」
 そう言った王留美に微笑みが浮かんだような気がした。
 ねっとりとした沈黙が辺りを包んだ。匂いも色も、彼らを通り過ぎて行くような気がした。王留美はにっこり笑った。――今度は、はっきりと、笑った。
「ニールに刹那。貴方がたが味方であることを嬉しく思います。そして――ティエリア・アーデ、アレルヤ・ハプティズム、ライル・ディランディ、沙慈・クロスロード。貴方がたも――」
「留美……」
 ニールにはグレンが密かに指を噛むのが見えた。今の彼の目の前にいるのは、CBの当主王留美。――彼の妻などではなかった。
「グレン様」
 グレンの傍らのダシルがそっとグレンの口元から指を離した。
「ダシル、ちょっと来てくれ。このプロジェクターはまだなかなか操作が難しい」
「はい。今行きます。イアンさん」
 ダシルはそっと、グレンの方を気遣うように見遣った。
「グレン」
「……留美」
「拗ねなくとも――私が一番愛している殿方は貴方ですわ」
「留美……」
 この食堂に色と匂いが戻って来たような感触がした。皆、明らかにほっと一息ついていた。――王留美が、空気を変えた。この女はCBの当主なのだと、誰もが納得した瞬間だった。
(留美……)
 グレンの他に、王留美を呼んだ男がいる。王紅龍だった。尤も、紅龍は声を出しては呼びかけなかったが。今のだって、思念がニールの頭の中に飛んできたのだ。
 ――紅龍、アンタを気の毒に思うぜ。
 ニールが密かにそっと思った。あんな妹がいたのでは、覇気を失うのも当たり前だろう。最初の頃は、紅龍はただのお付きの男にしか思えなかったからだ。皆はこう思っていることだろう。
 ――CBの当主は王留美の他に有り得ない、と。
 エイミーが、可愛くて明るいだけの妹で良かったと、ニールは思った。いや、彼女もディランディ家の血を継いで、なかなか芯の強いところを見せたが、基本的に、普通の娘であった。
 王留美に比べれば、大抵の者は凡人だ。
 いや、王留美に匹敵する人材はいる。ニールはその娘の方を向いた。ベルベット・アーデは、「ん?」と言いたげにこちらを見た。
 アレルヤとティエリアの娘。少なくとも本人はそう言っているし、アレルヤもティエリアも認めている。彼女は、その可愛さと賢さで、たちまちラグランジュ3の技術者達の心を掌握してしまった。
(女傑ばかりだな。ここは――)
 他に、アニューだってイノベイターらしいし、スメラギやフェルト、クリスもなかなか強い女だ。ミレイナだって、後少し育てばいい女になるだろう。――ルイスは逞しくなったし、ソーマ・ピーリスは何だか訳ありの娘だ。リンダだって――イアンの妻なだけあってただ美しいだけの女ではない。
 だが、女傑ばかりのCBでも、王留美の能力は突出している。だから、みな、彼女に従うのだ。
(お嬢さんに比べれば、俺らなんてどうってことねぇぜ)
(そんなことはないぞ。ニール。俺にしてみりゃ――お前も立派な傑物さ)
(ありがとよ――と言えばいいのかねぇ。刹那)
(さぁな――)
「只者ではないな。王留美も。君達が心酔するだけのことはある」
 そう言ったのはセルゲイ・スミルノフだ。
「俺は別に王留美に心酔している訳ではない。俺はただ、ガンダムに乗りたいだけだ」
 刹那が訂正をしている。
「ガンダムね……あれもよくわからない。だが、私の知っている少年達はみな憧れていた。イナクトを撃墜した圧倒的な力としてね」
「だったらガンダムのデータを持って帰ればいいじゃないですか。アロウズの人間は大喜びでしょうよ」
「ニール!」
 セルゲイが眉根を寄せた。しまった、怒らせた――ニールがそう考えた時、
(私も同じ意見だ!)
 と言うセルゲイの心の声を読んでしまって、ニールはがくっとずっこけた。
「……む、どうした?」
「い、いえ……やはり、セルゲイ大佐はアロウズのスパイになるおつもりで?」
「――私もアロウズに大切な仲間がいる。アンドレイもいるしな」
「ああ……」
 ニールがどう応じようか迷っていると、ダシルの、
「準備出来ました」
 と言う声が響いた。ダシルはすっかりイアンの助手になってしまった。グレンは、満足そうに頷いている。王留美を妻に迎えただけあって、グレンも頭の回転が速く、立ち直りも早い。
「お久しぶりにご尊顔拝します。ホーマー・カタギリ」
『こんな形で話すのは久しぶりだな。だが、私の顔など端末で見ただろう。私は変わりなくやっている』
「まぁ、それは失礼しました」
 王留美がクスクスと笑う。今度の彼女は可憐に思えた。――男どもの中には、グレンを羨ましく思った者もいただろう。
 空気を圧する力と、ふわっと柔らかい空気を生み出す力。それは、今のところ、王留美にしかないものであった。ベルベットが成長したらどうなるかわからないが――。
(留美……疲れないといいがな)
(刹那……留美は頑丈だ。そう簡単に疲れやしないさ)
 ニールが答えた。
(そうだな。並みの女ならとっくに壊れていたかもしれないがな。――王留美にはグレンがいて良かったな。王留美だってただの女に戻って一息吐きたい時もあるであろう。相手がグレンならうってつけだ)
(優しい兄もいるしな)
(ニール、紅龍はあの王留美の兄だ。なめてかかると足元すくわれるぞ)
(刹那……)
 ニールは刹那の頭をくしゃっと撫でた。そうだったな。人を甘く見るのは俺の悪い癖だ。
(わかってんなら、いい)
 刹那はニールの考えに、思念で返事をする。刹那との絆がまた強くすることが出来たと、ニールは悦に入っていた。だが――
(お前は、まだ、甘い。俺がお前を裏切らないと言えるのか?)
 だが、ニールには、刹那に『甘い』と言われようと、これだけは信じることが出来た。
(刹那――お前のこと、俺が信じないで誰が信じるんだよ。それに、お前はいつだって真っ直ぐだった)
(……俺に、殺されてもそう言えるか?)
(ああ)
 あの目に射殺されたい。真っ直ぐな、刹那のワインレッドの瞳に。
(あの時、俺はお前に惚れ直した)
 南の島。熱い空気。刹那を殺そうとしたニール。殺されそうになってもじっとニールを見つめていた刹那。どちらが勝ったのかは、一目瞭然だった。その場にいたアレルヤとティエリアにもわかっているだろう。
 ニールは、刹那のニールに対する愛よりも深く、刹那を愛していることを。――そして、ラブゲームはより深く惚れた方の負けなのだ。
 そのゲームに、ニールは長い間勝って来た。甘いマスクと甘い言葉で。口説いて落ちない女はいなかった。だが、そんな遊戯めいた恋にはもう飽きた。飽きたというより、もうそんな遊びに近い恋は出来なくなったと言う方が正しい。
 本当に、愛する者が出来てしまったから――。
「いいじゃねぇか。負けたって」
 ニールは吐息をついて独りごちた。刹那が妙な視線を送ってきたが、気にしない。この恋の勝者は刹那だ。刹那がニールを愛しているのは間違いない。刹那だって、ニールを想っている。だが――ニールの愛には敵わない。
(俺は、お前がいたからこそ、生きて帰ってこれた)
 こっちを凝視していた刹那がふっと笑った。
(数か月も――宇宙で何してた? ニール)
(さぁな。宇宙を彷徨っていた間の記憶はねぇんだ。でも、記憶が戻ってからは、いつもお前のことを考えていたよ。刹那)
(ふん。人の気も知らないで……)
 刹那が脳量子波で言う。もしかして、刹那も同じ気持ちを味わっていた? ――まぁ、何を今更って感じだけどな。なぁ、ニール・ディランディ。
「いやぁ、嬉しいねぇ」
 脂下がったニールが刹那の癖っ毛をくしゃくしゃにした。
「嬉しいって何が?」
 セルゲイが訊いた。
「あ、刹那が――俺が刹那に対するのと同じくらい俺のことを想っていたのがわかって」
「ニール、今はそんな場合じゃないぞ」
 と、刹那。
「おっと、そうだった。話し合いに進展はあったか? セルゲイ」
「ホーマー・カタギリは今のところ、王留美の意見にあらかた賛成のようだぞ。――リボンズの対応が見ものだな。……アンドレイにはまた重い荷物を背負わせることになるかもな。こういう時は親として歯痒いよ」

2017.10.16

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