ニールの明日

第二百八十一話

「ベルベット……君は泣いていたのか?」
 ベルベット・アーデの母様――ティエリア・アーデの声。
「うん……りぼんずおにいちゃまというひとにあったの」
 あいつか……とティエリアは忌々しそうに呟いた。
「いいかい、その名前は皆の前では出しではいけないぞ。わかったか?」
「――はいなの……」
 ベルベットは力なく答えた。
「わかったら食堂へ行こう。父様が美味しい美味しい食事を作って待っているぞ。ジャガイモのスープや、ミートローフ、他にも沢山の君の好物が待っているぞ」
「行かない……」
 ベルベットはティエリアに悪いと思いながらもそう言った。
「どうしてだい? 父様の料理を君は楽しみにしていたじゃないか」
 ――ティエリアが些かムッとして訊いた。
 かあさま、おこってるの……?
「だって……べるはいのちあるものをころしていきてるんだもん」
 母親のティエリアが目を瞠ったような気がした。そして、ベルベットを抱き締めた。
「この問題はな、ベルベット……君がもう少し大人になってから話そうと思ったんだが……豚さんだって牛さんだって、皆命ある物を殺して生きているんだよ。だからって、食物連鎖の中にある僕達の罪がなくなることはないけどね」
「しょくもつれんさ……?」
「そう。いろいろな食べ物を摂って生きて来た人間は、死んだら微生物に食べられて、やがて土に還るのさ。それにいいも悪いもない」
「人間も食べられちゃうの?」
「まぁね。昔、こう言った人がいたよ。人間死ねばゴミになる――とね。ただゴミになるんじゃなくて、土に還る訳だが。生命活動にいいも悪いもないんだ。だったら、少しでも食べる楽しみがあった方がいいだろう?」
「――うん」
「人間は欲深いものさ。もっと美味しく、もっと外見を美しく――と言うのを料理にまで求めてしまう。でも、ベルベット。君はちゃんとそのことについて意識している。偉いんだぞ」
「べる、えらい?」
「でも、せっかく料理する才能が与えられたんだ。……父様もそういう才能を持っている。才能は……使わなきゃ損だ」
「とうさまのおりょうりおいしいの」
「せっかく君の為に差し出された食物なんだ。美味しく頂くのが筋ってものだろう?」
「そういえば、べるもごはんのとき、『いただきます』っていうの!」
「そうなんだ。食物に対する感謝の気持ちの表れだよ。尤も、最近は僕達も美食に耽っているがな。必要以上の美食は罪だと言う人もいる。それはまぁ、人それぞれ考え方は違うだろうな」
 とうさまのつくったりょうり、とうさまのくれた――いのち。
「とうさまのおりょうりをたべることは、とうさまのいのちをたべることなの」
「君がどんな意味でそう言っているのかはわからないけど――僕だって君には理解不能のことを時々言っているのだろうしな。――取り敢えず、納得してしまえばそれでいい」
 ベルベットがこてんと首を傾げた。意味がわからない。
「さぁ、食堂へ行こう。父様が待ってる。――それとも、ベルベットは独りでこの部屋にいるかい?」
「――かあさまといっしょにいく。おいしくたべてあげないと、おにくさんかわいそうなの」
「いい子だ」
 ティエリアが、自分と同じ菫色の髪と香を持つ幼児の頭を撫でた。ベルベットはきゃふきゃふと笑う。
「他にも訊きたいことがあったら、どんどん訊いてくれ。なるべく答えるようにはする……から……」
「うん。あのね……とうさまとかあさまがときどきべるをいっしょうけんめいねかせようとするのはどうして?」
 ティエリアは眼鏡の奥で目を丸くした。
「――その疑問に答えるのは後だ。食堂で父様とコック長が待ってる」
「はぁい」
 ティエリアが少し困った顔を見たのを知って、ベルベットは、『今はまだ答えるべきでない時』の質問をしたことを知った。
 ベルベットだって、普段から疑問に思ったことを口にしただけで、ティエリアから詳しい性教育を教わりたい訳ではなかった。ただ、大人は秘密を知っている。それは、きらきらしていて、錬金術に近いものだ――そんなイメージを持っている。
 恋とか結婚とか、赤ちゃんが生まれる秘密に関係することらしい。それはリヒターに聞いたことだ。
(もしかするとりひちゃまはてんさいかもしれない)
 ベルベットも人並み以上に好奇心旺盛で、何でも知りたがるが、リヒターはベルベットよりもっとずっと早くからそんな時期を迎えていた。
 リヒターの父親のリヒティは、「すごいね、感心だねぇ」とリヒターを褒めたてるだけだが、母親のクリスティナ・シエラは時々「困った子ねぇ」というように苦笑いをしていた。
 食堂に行く前に、ベルベットはこうティエリアに告げた。――ちっち出たの、と。

 台所へ行くと、香辛料の匂いがした。
「いい匂いなのー」
「うむ、そうだな。――ベルベット。君は賢いだけでなく、素直でもあるのだな。偉いぞ」
 ティエリアはベルベットと手を握ったまま、食堂へ入っていく。
「和風きのこパスタだよ!」
「地中海風サラダです……」
 ニールとフェルトが料理を運んでいた。ニールがルイスの前に和風サラダを置く。ルイスは「ありがとう」と、儀礼的に応える。ルイスはお金持ちの出だから、こういうことには慣れているのだろう。
「やぁ、おはよう。ニール・ディランディ」
「おはようなの、にーるおにいちゃま」
「それにしても、いつから君は給仕に乗り換えたんだい? ガンダムマイスターの仕事から」
 これはティエリアなりの冗談であることをベルベットもわかっていた。
「いや……皆アレルヤの料理を食べたがって……え? 何? ミネストローネならもうないよ」
「これは……僕達の分はあるのだろうか」
 ティエリアが言ったので、ニールはこそっと二人に顔を近づけて囁いた。
「……大丈夫。お前らの分は取ってあるよ。それに、アレルヤが特別料理を作ってくれるらしい」
「――僕達だけ、そんな特別待遇いいのか?」
「いいんだよ。アレルヤはお前達の世話を焼きたいんだ」
「かあさま、とくべつたいぐうってなんのこと?」
「――特別な待遇のことだ」
 ティエリアはベルベットが言ったことをそのまま、鸚鵡返しに近い形で言った。だが、ベルベットにはそれでわかった。
「べる、とくべつじゃなくていいの」
「そうか? ――だ、そうだ」
「アレルヤが凹むだろうな――せっかく妻と子供の為に一生懸命作ったのに」
「みんなでいっしょにたべるのがおいしいの」
「そうだな。特別料理とやらは他へも回してくれ」
「そう言う考え方が二十世紀に起きた共産主義の蔓延に繋がってだな――」
「ニール。ベルベットがわからない話をするのはやめろ」
「わからないの……」
「それに、僕達には特別料理を振る舞われる謂れがない。特権階級だけに与えられる分不相応な報酬は、かえって革命を生むぞ」
「食事時に革命ねぇ……」
 ベルベットの前で、あんまり過激過ぎるんじゃないか――そう言って、ニールは肩を竦めた。
「おはようございます」
「ふぇるとおねえちゃま!」
 大人の話題に入れなくてしょもんとしてたベルベットは、食事にありつけそうだと、嬉しくなった。
「はい、これ。地中海風のサラダです」
「きれいなの」
「旨そうだな」
「ニールさんの分も後で運んできます……」
 その時、ベルベットは、フェルト・グレイスの目に慈しみが宿っているのを見た。
「ふぇるとおねえちゃま。おねえちゃまのぐれいすっていうなまえ、『めぐみ』っていみなの」
「ベルちゃん……」
 フェルトの目元に涙が溜まっている。流れ落ちるかな、と、ベルベットはじっと見張っていた。フェルトはサラダをテーブルに置くと、目元をそっと拭った。
「そうね……ありがとう、ベルちゃん……」
 フェルトはまた目元を拭う。泣くのが我慢出来なくなったのか、フェルトはベルベット達から離れて駆け去った。
「一体全体、急にどうしたんだ? ベル」
 と、ニールが訊く。
「あのね、ふぇるとおねえちゃま、とってもやさしいめをしてたの。それで、ああ、かみさまのめぐみってこれかな――とおもったの」
「べルベット・アーデ。君はとても優しい娘だ。キリスト教の真髄をその年でがっちり掴んでしまった」
 ティエリアが言った。ニールが、「親馬鹿な……」と言いたげな顔をした。
「偶然だろ? それに、キリスト教がはびこっても、俺ら困ったことになるじゃねぇか。そうだろ? ティエリア」
「そうだな。僕達は人殺しだからな――人を沢山殺して来た。……争いのない未来の為に。矛盾してることは、わかっているけれど」

2019.08.04

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