ニールの明日

第二百五十三話

 ニールとティエリア――二人の間に冷たい風が吹き過ぎた。ニールはその中に夜の香を聞いたような気がした。
 ――ティエリアは頭を冷やしたようだった。
「僕は……贅沢だったのだろうか……」
「そうだよ。俺だって、刹那との子供がこの世界に来てくれたら嬉しい。でも、今のところその気配はない。お前らにはベルベットがいる。――何でそれだけで満足しないんだ。お前は」
「ベルベットが……」
 ティエリアが目を擦ったように思えた。
「僕は、ベルベットを愛している。そして――アレルヤも」
「そうだな。――大事なこと、わかってんじゃねぇか」
「……帰る。君も刹那のところへ帰り給え。ああ見えて、彼は、僕よりもやきもち焼きだぞ」
「知ってるよ。俺もやきもち焼きだからな。刹那を誰にも渡したくはない」
 そう、アリー・アル・サーシェスにもだ。彼は娘と孫と、天国で幸せに暮らしているのだろうが。
(ベルベットの使い方はこれで良かったのかなぁ……)
 満点だ――そう、刹那の声が聞こえたような気がした。
 子はかすがいって言うもんなぁ――諺は言い得て妙なことを表すと、ニールは思った。
「さ、俺も帰るか――」
 ニールはうーんと背中を伸ばして伸びをした。愛する刹那のところへ、ニールは今、帰る。ニールはきっ、とホテルのドアを開いた。――刹那がロビーにいた。
「やぁ……」
 刹那が照れたように言った。勿論、顔には出ていないが。刹那は表情が顔に出ない質なのだ。
「よぉ……」
 ニールが手を挙げた。
「部屋、戻るか?」
「ああ……」
「何だよ――俺を迎えに来たのか?」
「……まぁ、そうだ」
「ありがとよ。――実はちょっと凹んでいたところなんだ」
「何でだ?」
 と、刹那が訊く。
「――俺と刹那の間には子供がいねぇんだな、と改めて思ったからな。ほんと、あいつらが羨ましいよ」
 あいつらとは、アレルヤとティエリアのことである。刹那も真顔で頷いた。刹那もニールとの子供が欲しいのだ。それが、脳量子波で伝わる。――あんなに子供が出来るくらいやってたのになぁ……と、ニールは思う。
「別次元にも俺と刹那の息子か娘、いねぇかなぁ」
「いないとも限らんな」
「だろ?」
 刹那が黙ってまた頷く。可愛いなぁ、と、ニールは思う。
「それとも、今からやるか? 子作り」
「今日はもう沢山だ。お前だって疲れただろう?」
「ああ――何せ天国の快楽を見た後だからな」
 ニヤニヤとニールが笑う。刹那がぴたりとニールの頬に触れる。何だろうと思ってニールが刹那に目を合わせる。二人ともしばらくそうして見つめ合った後、刹那はこんなことを言った。
「お前の頬は冷たいな」
「――何だよ。照れて頬を熱くする俺が見たいのか? そうしたって構わねぇけど」
「いや……俺ばっかり照れて恥ずかしいと――あ」
 刹那は自分が失言したことを思い知ったらしい。ニールが刹那の頬を触る。
「何だよ――」
 刹那はニールの手を振り払う。それが照れ隠しであると知ったのは、刹那の頬が熱かったから――。
(まだまだだぜ。刹那)
(そりゃ、年季が違うからな――)
(俺がおじさんだと言いたいのか?)
(そうだ。しかもかなり助平な)
(この――)
 ニールは刹那の頭を軽く小突く。二人は脳量子波で話していた。――刹那が口を開く。
「……子供扱いするな」
「子供だよ。俺にとって刹那は。――いやぁ、どんなに長生きしても、お前に俺は越えられないだろ。少なくとも愛の総量では」
「……良かった。ニール、元気になった。俺がニールの子供なら、他に子供がいなくても大丈夫だろ?」
「……お前も言うようになったな」
 刹那はにこっと笑った。
「うっ!」
 ニールは自分が鼻血を出すのではないかと思った。――刹那が訊く。
「――どうした?」
「お前はイノベイターだろ? 自分で答えを見つけろよ」
「まぁ……そうだな」
「それに、イノベイターとして過ごした年月なら、お前の方が長いだろ?」
「…………」
 刹那は黙りこくってしまった。
「おいおい、本気にとるなよ」
「――わかった。お前は俺の笑顔が好きなんだな」
「ああ」
 ニールは自分がこの上もない優しい微笑みを湛えていることを自覚する。刹那もほっとしたのか、口角が上がった。その表情で――ニールの心も和んだ。刹那の微笑みには人を和ます力がある。
 刹那はふい、とニールから視線を逸らした。
「……ありがと」
 ニールの心の中で温かいものが占める。
「こちらこそ、いつもありがとよ。刹那」
「…………」
 刹那はニールの方を振り向いて、また目を逸らした。刹那はいい匂いがする。ボディソープと果実めいた香りだ。その香りに、ニールは誘惑される。誘惑の果実。
 そういや、あいつら、無事仲直りしたかな――。
 ここでおっ立てても仕方がない。ニールは考えをアレルヤ達の方に巡らす。――再び刹那を抱くのは部屋へ帰ってからだ。
(――この絶倫バカ!)
 刹那の脳量子波が届いた。ニールは人の悪い笑みに自分の表情が変わるのがわかる。――ちょっと刹那をいじめたくなる。アリーの気持ちも、今はわかるかもしれない。刹那はニールの嗜虐心をそそる。
(おんや。そんなこと言っていいのかな? それに、その台詞は俺には褒め言葉に聞こえるぜ)
(――人の腹の上で気絶したくせに)
(だって、お前いい体過ぎるからなぁ。絶品の体だぜ)
(…………)
(――褒めたんだぜ)
 ニールのその台詞を受け取ったらしく、刹那ははぁっと溜息を吐いた。ちっとも褒め言葉に聞こえなかったのであろう。
(ちっとも褒め言葉に聞こえないぞ。――まぁ、わかってるらしいがな)
 ――やっぱり。
(その体で何人の男を篭絡したんだ?)
(うるさい。――お前こそ何人の美女を泣かせて来たんだ?)
 ニールがぷっと吹き出す。
「どうした? ニール……」
 刹那は声を出して聞く。あんまり脳量子波に頼っていると、実際に言葉を語り合うのが煩わしくて仕方がない。――だが、ここには普通の人間も多い。イノベイター狩りも……そのうち始まるかもしれない。
 イノベイターも、人間と同じ仲間であることを知らせなくてはならない。それには、実際に口を使って言葉を交わさなくてはならない。
(こういう時、リボンズがいたら力も借りられたかもな)
(そうだな……)
(おっと、また脳量子波で喋っちまった)
(仕方ないさ――ここには俺とお前、二人だけしかいないんだ。イノベイター達の目を除けば。それに、リボンズのことはここの世界では禁句だ)
(そうだな。――まぁ、警備システムも完備してるしな)
(……警備員もいるか……じゃあ、他の人間のいるところでは、内緒話の他は口を使って喋るか)
(内緒話ばかりしてるじゃねぇか。俺達)
(まぁ、それは――いつもお前が変なことばかり言うからだ)
(お前だってノるくせに――)
 冗談めいたニールの言葉に、刹那は「黙れ」という風に一瞥した後、ニールを置いて階段を昇ろうとすると、ニールが「待てよ!」と言って慌てて刹那の後をついていく。このシーンを見た警備の連中は、何でこいつらはこんなに笑ったり怒ったり――怒るのは主に刹那だが――表情をいろいろ変えたりしているのかと疑問に思うであろう。

2018.09.26

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