ニールの明日

第二百五十五話

 シャキン、シャキン。切った髪が床に落ちる。隣に誰もいないのに気が付いたのか、どうしたのだろうと疑問に思って起き出したらしいグレンが、ベッドルームからは目と鼻の先の洗面所の様子を見に来る。気配を頼りに来たようだ。留美がグレンに向かってにっこりと笑った。
「どうした。留美。――その髪は?」
 王留美は手持ちのハサミで髪を切っていたのだ。グレンがびっくりしたのも無理はない。王留美が自慢の髪を切っていたから。
「あら、だって――長い髪では戦う時邪魔でしょ?」
「と言うことは――」
「ええ。引継ぎが終わったら、私は貴方とクルジス領に行きますわ。――愛しい貴方」
「留美!」
 グレンは留美に抱き着いた。そして、留美の全てを吸い込むように深呼吸した。
「あらあら。危ないですわよ。私はハサミを持っているのですから」
「――そんなことはどうだっていい! 俺も愛している! 留美! 戦う時には是非とも俺の背中を守ってくれ! 俺はお前を守るから」
「けれど……足手まといにならないか心配ですわ」
「足手まといでも、お前なら許す。俺にはダシルもいることだし。――俺は、俺は果報者だ。ワリスが留美のことを聞いたら羨ましがるだろうな。あいつは女好きのくせにてんでいい女に出会えてないものな……」
「まぁ、うふふ……」
「ああ、済まん。ワリスなんて、お前が聞いてもぴんと来ないよな……」
「いいえ」
 留美がはっきりと言った。
「貴方に関することなら何でも知りたいですわ。貴方の出生、貴方の友達、貴方の秘密……」
「留美……」
 少し間が空き、グレンは続けた。
「今、誓おう。俺はお前のものだ。何でもいい。俺も留美の全てが知りたい」
「なら――お兄様にCBを預けて、私はもう出発したっていいくらいですわ」
「そうか……いや、紅龍には別れの挨拶をして行った方がいい。俺も一緒に行くから」
「貴方!」
 留美はグレンを抱き締める手に力を込めた。
「刹那達と別れるのは寂しいけど――私にはグレンがいるから……」
「そうだ。刹那・F・セイエイ。……ガンダムマイスターのあいつらにも別れを言っておかなくてはな……。全く、こんな展開になるとは思わなかった。特に、刹那にはCBの一員だからと言って銃を向けたことがある」
「でも、殺してはいないでしょう」
「そりゃまぁ、そうだが……」
 グレンが焦るのを見て、王留美が彼の腕の中でくすくすと笑った。
「な……何がおかしい!」
「だって……私はCBの当主だもの。或いはもう、『元当主』でいいのかしら」
「CBは変わったんだ。だから――刹那を殺す理由もなくなった」
 ソレスタル・ビーイング……。
(私はあの組織と骨絡み関わっていた――)
 今回の決意は、世界を揺るがすものとなるであろう。リボンズの失踪でアロウズがまともになり、CBの存在意義も薄れて来た。だが、今でも戦争ははびこっている。もしかしたら、グレン率いるゲリラ兵達とCBが敵同士として相まみえることもあるかもしれない。
 ――だが、そのことは王留美は口に出さなかった。グレンへの想いが強かったし何より――。
(お兄様の引き継いだCBに殺されるなら本望ですわ)
 そう思える自分は幸せだと、留美は思った。
「行きましょう、グレン。お兄様のところへ!」

 王紅龍の部屋。
 コンコンコンコン。ノックをすると、
「誰だ」
 と誰何する声があった。留美の兄、紅龍である。
 もうすぐこの声も聴けなくなるのね――と、留美は感慨深げに思う。
「私です。留美です。グレンもいます」
「入ってくれ」
「はい」
 紅龍は、こんなに朝早いというのに、きちんとした格好をしていた。隙のない男である。――留美は、兄もCBを引き継ぐに相応しい男になったのではないかと、内心喜んでいた。
「おはよう、留美」
 紅龍ははんなりとした笑みを浮かべた。
「おはようございます。お兄様」
「何の用で来たのですか?」
「用がなければ来てはいけませんの? お兄様。――まぁ、今回は用があって来たんですけれど……」
「紅龍。よければ、お前の妹を俺達の仲間に招き入れたい」
「ゲリラのか?!」
 紅龍が慌てて立ち上がる。その気持ちはわかると留美は思っていた。今まで世話してくれた兄が、グレンと一緒にクルジス領へ行くという話をすれば、どんな反応を示すか、一目瞭然だった。
 ――そして、紅龍は見事留美の予想通りに行動した。
「認めん……認めないぞ。俺は……」
「まぁ、お兄様ったら、すっかり話し言葉すら崩れてしまわれて……」
「留美。もうお前を妹だとは思わん! すぐに出て行け!」
「あら、怖い……」
 あまりにも予想通りだったので、かえって留美は可笑しく思ってしまった。
「グレン。砂漠へ帰るなら一人で行き給え」
「何でだ。兄なら妹を喜んで愛する夫と共に送り出すだろう?」
「時と場合による!」
 紅龍が叫んだ。
「お兄様。いえ、紅龍。これがCBとしての私の最後の命令です。私をCBから解放しなさい」
「そんなこと言われても……はいそうですかと従うと思うのか!」
「いくら反対されても、ここはのくことは出来ませんわ!」
 王留美の声も高く強くなる。兄弟喧嘩の勃発だ。しかし、留美にはどうせ最後はどうなるかわかっている。最初から紅龍に勝ち目はないのだ。――だが、紅龍も頑張った。
 ――結論が出たのは、昼も近くなってからのことだった。
「はぁ……はぁ……」
 留美の吐く息が荒くなる。
「ここまで言ってもわからないか留美……」
 紅龍も汗だくになりながら言った。グレンは口を挟まなかった。この問題は、紅龍と留美の問題だと、割り切っていたからであろう。だが、留美の援護射撃はした。――元はと言えば、グレンが言い出したことなのだから。
「お兄様」
 留美はしなを作りながらにっこりと笑った。
「お兄様は人を愛したことはありませんの?」
 ――紅龍の頬がかっと赤くなる。図星ですわね。留美はそう思った。
「私もグレンがいなかったら、クルジス領に行くなどという馬鹿げた行動はしませんでしたわ。でも――許してくださいね。愛は人を愚かにさせるんですの」
「今ならまだ間に合う。留美……ゲリラ兵になって戦うなどという発言は撤回しろ」
「しませんわ。お兄様」
「そうか……お前は昔から言い出したら梃でも動かないところがあったからな――私の命令はきかないし」
「でも、この間まで、お兄様は私の言うことなら何でもきいてくれたではありませんの」
「それは……俺がお前ときょうだいであることをカムフラージュする為だ。それに、俺にはCBを継ぐ器もなかったし……」
 ぎりっ。――紅龍が唇を噛んだ。今までのことが思い出されて来たのであろう。ゲリラ兵に差し出す為に妹の世話をしていた訳ではない――そう言いたいのだろう。
「俺は――もっと早くお前とグレンの仲を引き裂かねばならなかったようだ。だが、もう遅い! 行け! もうお嬢様とも妹とも思わぬ」
「お兄様!」
 普通ここでは兄の心配をするだろう。だが、留美は弾んだ声で言う。
「ありがとう!」
「――いいのか?」
 壁に凭れ掛かっていたグレンが訊いた。今まで必要以上に口を出さなかったグレンだ。王留美も彼の存在を忘れるところであった。
「グレン……」
「何です? 義兄さん」
 グレンの口調がいつもと違う。ふざけているのかと留美は思ったが、グレン本人はいたって真面目な顔をしている。――紅龍がこう続けた。
「妹を……宜しく頼む」
「それじゃあ!」
 グレンの顔がぱっと喜びに輝く。紅龍が言った。
「ただし、留美を死なせたりしたら許さないからそう思え。これは留美の兄としての言葉だ」

2018.10.16

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