ニールの明日

第二百五話

 ――ニールがひくひくと鼻を蠢かす。コーヒーの匂いだ。セルゲイ・スミルノフのトレイにコーヒーが乗っていた。
「いい匂いだ。ブラジル――いや、モカ・マタリか?」
「よく当てたね」
 ニールの言葉にセルゲイは笑顔で答えた。
「これでもコーヒーについては自信があるものでね。ここのコーヒーは合成ではないらしいな。でも、コーヒーと言ったらやっぱりアイリッシュ・コーヒーだな」
「カクテルだね。君はアイルランドの出身だと聞いていたが――あのカクテルは私も好きだよ」
「俺もあれは好きだ」
 刹那が割って入る。
「じゃあ、また作ってやるよ」
 ニールが刹那に対してウィンクをした。
「……そういえば、刹那くんは素敵なペンダントをしているね。昨日も思ったけれど」
 セルゲイが刹那の胸元に目を当てる。
「そのペンダントの飾りの指輪は誰かにもらったのかい?」
「俺があげました」
 ニールが堂々と答えた。
「これは婚約指輪なんですよ。――よくつけてくれたな。刹那」
「大事なものだからな」
 刹那がさらっと言った。どこか得意げな響きも混じっている。
 セルゲイが鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。正直、セルゲイのそれはあまり見たい表情ではない。彼はさっきのニールとライルの会話を聞いていなかったらしい。
「――失礼。二人はそういう関係で?」
「そうだよ。な? 刹那」
 ニールは刹那に頷きかける。
「……まぁな」
 刹那の口元が笑っている。
「ところでセルゲイ、コーヒーはどこにある」
「セルフサービスでもらって来たんだ。あそこにあるだろう?」
「ああ。じゃあ、戴くとしよう」
 刹那が席を外そうとする。その時、ついでのように言った。
「ニールの分ももらって来るぞ」
「悪いね」
「刹那くんもコーヒーが好きなのかね?」
 コーヒーのセルフサービスの機械に向かって行く刹那を見ながら、セルゲイが訊いた。
「まぁね。俺達二人でモーニングコーヒーを飲んだこともあったなぁ」
 ニールは回想に浸った。例えば、経済特区日本とかで。懐かしい思い出である。
「全てが終わったら――地上に行った時なんか、またモーニングコーヒーを飲むのも楽しみだな」
「本当に、懸念材料が全てなくなるといいんだが」
 ニールの言葉に、こちらの方へ向き直っていたセルゲイがかちゃりとフォークを置いて頷く。ニールが複数の人の気配を感じた。
「あ。お嬢様が来た」
「お嬢様?」
「王留美のことだよ。王留美もグレンと結婚してから話がわかるようになってね。停戦の話、もちかけてみるよ」
「ああ、頼む」
 セルゲイと別れ、ニールは王留美のところへ行った。王留美はグレンとダシルと一緒だった。
「お嬢様、お話があります」
「――何かしら」
「戦争を止めていただきたい」
「…………」
 王留美は黒い大きな瞳をニールに向かって据える。グレンもダシルも何も言わない。
 しばらくしてから留美が答えた。
「私もそれを考えに入れていますわ」
「じゃあ!」
「けれど、こういうことはカタロンにも報告しないと」
「俺もそう思っているけど――お嬢様のご意見は?」
「ニール……私は停戦に賛成です。前はどうかわからなかったけれど、今はベルベットちゃんがいるから――」
 王留美は離れたところにいるベルベットに視線を遣った。ベルベットは喜んで大人達の話にも応じている。
「――あの娘を危険に晒したくはありません」
「……子供の力ってのは凄いな。王留美の意見さえ変えてしまうもんな」
「私達の間にも、いずれ子供が生まれるでしょう」
 ――グレンが王留美の肩を抱いた。
「その時、私は胸を張って、『ここが私達の住む世界よ』と胸を張って言えるでしょうか」
「なるほど」
 ニールは肩を竦めた。
(俺も嫌だった。こんな世界は――)
 だからこそ、ソレスタル・ビーイングに入った。だからこそ、世界を変える戦いに身を投じた。命を失いかけたこともあったけど――。
 ジョシュアのことを不意に思い出した。
(ジョシュア……お前も戦っているのか? 武力ではなく、祈りで)
「俺はここがお前らに残す世界だ、と子供には言えねぇな」
「でしょう?」
「ただ、この戦いもいろいろあって拗れてしまっているし――」
 ダシルも話に入る。ニールが続けた。
「俺はアロウズが鍵だと思う。――中でもリボンズが」
「そうですわね」
「お嬢様――刹那はリボンズ・アルマークも救いたい、と言っていたぞ」
「まぁ……」
「刹那もアリーとニキータの二の舞はごめんなんだろう」
「アリーとニキータですか……死んで不幸だとは限りませんわ。二人の魂はあの世で永遠に結ばれたと、私は信じております」
「確かに、生きてても不幸になるのは目に見えてるな。あのカップリングじゃあ……」
 ニールはアリーとニキータの二人に想いを馳せた。イノベイターの能力のおかげだろうか。それとも――自分の願望なのか。ニールは、アリーとニキータが天国で幸せに暮らしている白昼夢を見た、と思った。
(そういや、ゲリラ兵も多く死んじまったしな)
 このことについてはグレンの方が詳しいだろう。グレンはゲリラ兵の一隊を率いていたのだから。
「グレン、お前はどう思う?」
 と、ニールは訊いてみた。
「戦って勝ち取るしか、平和への道はない」
「グレン……」
 王留美が夫となった男を心配そうに見つめる。ニールが大きく頷く。
「つまり、イオリアじいさんと同じ結論に達した訳だ」
「武力による戦争根絶。確かに私もそれに同調していた時期がありましたわ」
 王留美が淡々と述べる。
「でも、今は――それがわからなくなってしまいました。私は……次世代へと引き継がれる世界を作りたいのです」
「留美……お前は俺には過ぎた女だ。俺は戦うことしか能がないからな。俺が戦いにこだわるのもそれしか知らなかったからで――」
「グレン様! グレン様は俺達のことを守ってくれました。それに――俺はグレン様に憧れてました。だから――戦うしか能がないみたいな寂しいこと、言わないでください」
 ダシルが言った。グレンは忠実な少年に向かって微かに笑んだ。
「ありがとう。ダシル」
「いえ……」
「良かったですわね。グレンにダシル。――では、一時間後にカタロンと交渉してみましょう」
「そうか、頼む。お嬢様――今からじゃダメなのか?」
「ニール……」
 王留美は溜息を吐いた。
「私にも食事をしたためるくらいの時間があったっていいでしょう?」
「あ、そうか、それはそうだ。なはは……」
 ニールはきまり悪げに頭を掻く。茶色の巻き毛が指にもつれた。

2017.5.28

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