ニールの明日

第九十九話

(アルマーク機構……リボンズ・アルマーク……)
 ちゃりちゃりちゃり。
(アンドレイを裏切らせない為の布石……)
 ちゃりちゃりちゃり。
『ロシアの荒熊』とも異名を取ったセルゲイ・スミルノフを飼い慣らそうとするリボンズの鎖の音が聞こえる。
(アンドレイを……息子を人質に取ろうとする腹か)
 その時、利用するのはアンドレイのイノベイターに対する同情心。だが、それはあくまで布石だ。
(リボンズ・アルマーク……やはり恐ろしい男だ)
 だが、このままでは済まさない。例え、セルゲイ自身も既に蜘蛛の巣の中に囚われていようとも。
 私は、アンドレイと、それから娘のソーマ・ピーリスだけは助ける。
 ソーマ・ピーリス。セルゲイの養女となる予定の女性。
 今ならばまだ間に合う。
 セルゲイはソーマ・ピーリスを呼び出した。ソーマ・ピーリスはセルゲイに敬礼をした。
「どんなご用でしょう。大佐」
 型通りの挨拶だが、その声には親しさが込められている。セルゲイを見る目が優しい。
 このまなざしを私は失うのかもしれない。
「ソーマ・ピーリス。君と私の養子縁組の話はなかったことにする」
「え……?」
 ソーマ・ピーリスは目を見開いた。
「ど……どうしてですか?!」
 彼女を巻き込みたくはない。もう既にアロウズに狙われていたとしても。彼女には、自分のことを忘れて幸せになって欲しかった。
「どうしてですか! 大佐」
 ソーマ・ピーリスの顔に焦りが浮かぶ。
「訳は言えん」
「嫌です! 大佐! 私は大佐の娘になることを楽しみにしていました! それなのに……」
 ソーマ・ピーリスは、はっと何かに思い当たったような顔をした。
「何か……訳がおありなのですね」
「それも言えん」
「そうでしょう?! どんな敵が来ようとも、私は貴方の娘です! セルゲイ・スミルノフの娘です!」
「ソーマ……」
 セルゲイはソーマ・ピーリスを抱きすくめたい気持ちをぐっと堪えた。
「私も、君のことはずっと娘だと思っている」
「――わかりました。死ぬ時も、私はセルゲイ・スミルノフ大佐の娘です」
「納得してくれたか?」
「はい。――例え養子縁組の手続きがなくたって、気持ちは貴方の娘です。大佐――いえ、お父様」
「……私も娘が欲しかったよ」
「私も父が欲しかったです」
「もう行ってくれ。君の台詞は嬉しかった」
「はっ!」
 ソーマ・ピーリスは再び敬礼をした。
 彼女がいなくなると、セルゲイは誰もいない扉を凝視した。これでいい。寂しいけれど。愛しい娘を巻き込むわけにはいかない。
 ソーマ・ピーリスのことは誰かに託したい。セルゲイは自分達の手で、ソーマ・ピーリスを普通の娘として育てていきたかったけれど。戦線に出るのも辞めて欲しかった。
 いずれまたソーマ・ピーリスと話をしたいと思う。紙の上での養父と養女の関係でなくても、必要な時には父として接することができるだろう。ソーマ・ピーリスがセルゲイの立場をわかってくれたから。
 大丈夫だ。ソーマ・ピーリスはこれからもあの優しさのこもったまなざしで私を見てくれる。私も彼女を娘として愛している。
 しかし、アンドレイとは――息子とは親子の縁を切るわけにはいかない。役所のデータの上でもだ。例えエゴだとわかっていても。
 妻を亡くしてから、アンドレイの成長だけがセルゲイの生き甲斐だったのだ。
(すまん、アンドレイ……)
 あれともいつか話せねばならんな――とセルゲイは考えた。セルゲイは自分の意見を言うつもりだ。選ぶのは――アンドレイだ。
 父のセルゲイを捨てるという選択をアンドレイがしたのならそれを受け入れよう。しかし、あくまでセルゲイの息子として生きていたいというなら――それはそれで茨の道となるだろう。
(辛い選択だな。アンドレイにも、――私にも)
 セルゲイ窓に目を移した。小鳥達がのどかに鳴いている。それをしばらく眺めた後――。
 セルゲイは考えをまとめる為に自分の部屋を出た。
 廊下で息子と会うことができた。ちょうどいい機会だ。
「父さん……」
「話がある。部屋に来てくれるか?」
「はい。私も大佐に話がありました」
 セルゲイは息子を伴い、自分の部屋に帰ってきた。
「父さ……いえ、大佐。私はアロウズで酷い光景を目にしました」
「知っている。ある人が話してくれたよ」
「大佐……私は彼らを助けたい!」
「イノベイターか……」
「はい!」
「残念ながら、私の意見は……アンドレイ、お前にはアロウズを辞めて欲しい」
「嫌です」
 きっぱりとアンドレイは答えた。
「それに、私がアロウズを辞めたら私も命を狙われるし、父さんだって無事ではいられないでしょう。私は彼らの為に、そしてあなたの為にここに残ります」
「アンドレイ……」
 さっきソーマ・ピーリスと話していた時でさえ、込み上げて来なかった感動が、今、涙と変わろうとしている。セルゲイはアンドレイに背を向けた。
(ホリー……私とお前の息子は立派に成長した)
 セルゲイは妻ホリーを自分が殺してしまった罪悪感に苛まれていた。それを助けてくれたのはアンドレイだ。
 セルゲイはアンドレイに「私は妻を殺した」と告白したことがあった。アンドレイは何も言わず、泣いていた。そして――そのことをアンドレイから言うことは二度となかった。きっと、セルゲイの罪の意識を慮ってのことだろう。
 優しい子なのだ。だが――。
(その優しさが命取りになるやもしれぬ)
「お前まで死んだら――私はどうしたらいいかわからない」
「俺は死にません。生きて、彼らを――イノベイター達を助けてみせます」
「アンドレイ……お前はまだ若い」
「――父さんは……俺の立場になったら、どう行動するか想像できますか?」
「ああ」
「そして、どんな結論を出しますか」
「――お前と同じだ。アンドレイ」
 セルゲイは振り向いて苦み走ったよい顔をした。
「父さん!」
「共に戦おう。――息子よ」
「父さん、いえ、大佐……私はあなたの返答次第では、親子の縁を切ろうと考えていました」
「それはそれは。思いとどまってくれて私は助かったよ。ソーマ・ピーリスの次にお前とも縁を切るのは私とて辛い」
「……? ソーマ・ピーリスは父さんの娘にならないんですか?」
「ああ。養子縁組の話は白紙に戻した」
「もう手遅れなんじゃ……」
「そうかもしれない。だが、できるだけ巻き込みたくはなかった。この話はまだ一部の者しか知らない。リボンズにもまだ気取られてないことを祈るよ。けれど、ソーマ・ピーリスが危機に陥った時は私は助ける――ソーマ・ピーリスの父として」
「私も彼女のことは妹のように好きです。ソーマ・ピーリスの兄として、私も彼女を助けます」
「頼んだぞ。アンドレイ」
「はい!」
「――私は自分からはお前とは親子の縁を切れなかっただろうな。私のエゴだと思うが」
「父さん、ソーマ・ピーリスと違って僕はもう既にアロウズの陰謀に関わっているのですよ。父さんから親子の縁を切っても……もう遅いです」
「そうか……そうだな。だが、これだけは約束してくれ。何があっても生き延びると」
「父さんもですよ」
「ああ――そうだな」
 そうは答えたものの、アンドレイには自分よりも先に死んで欲しくない。子供を失った親の悲しみ程辛いものはないのだ。
(ホリー……もう家族の死を見るのはたくさんだ。天国で息子を見守っていてくれ)
 だが、アンドレイも覚悟はしているだろう。『ロシアの荒熊』の息子なのだ。セルゲイは眩しい思いで成長したアンドレイの敬礼を見つめていた。

2014.5.28

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