ニールの明日

第九十八話

 セルゲイ・スミルノフ――ロシアの荒熊と呼ばれた男は、リボンズ・アルマークに招ばれていた。
「こんにちは。スミルノフ大佐。私はリボンズ・アルマーク。話があってこちらにお招きしました。ティーはいかがです?」
 目の前のリボンズ・アルマークと名乗った男は、十代の少年と見紛うほど若い姿をしていた。
「リボンズ……」
「ええ。以前不幸な事故でお亡くなりになったアレハンドロ・コーナー様にはいろいろ良くしていただきました。アレハンドロ・コーナー、ご存知ですか?」
「あ、ああ……」
 どんな顔だったか忘れたが、確かテレビでも見たな、と記憶を手繰り寄せながら思った。
「確か、ユニオンの国連大使だと思ったが」
「ええ。その正体はCBの監視者のコーナー家の末裔です」
「ほう……」
「まぁ、プライドだけは高い馬鹿な男でしたが」
 リボンズはレコードに針を落とした。『ワルキューレの騎行』が部屋いっぱいに響いた。
 ――ここはリボンズ・アルマークの私邸だった。
「亡くなったアレハンドロはワグネリアンでね。僕もこの曲は嫌という程聴かされましたよ」
「用件は?」
「ああ、そうだった。実は――」
「リボンズ」
 涼やかな声がする。
「リジェネ」
 リジェネ、と呼ばれた男は紫の癖っ毛を持つ紅い瞳の眼鏡をかけた美青年だった。――いや、少年といっていいぐらいの若さだった。
「紹介しよう。リジェネ・レジェッタだ」
「――ふん!」
「リジェネ!」
 リボンズが眉をきつく顰めて叱ると、リジェネが言った。
「リジェネ・レジェッタです。以後、お見知りおきを」
 リジェネは型通りの挨拶をしたが、そこにはどこか悪意ある侮蔑が籠っているような気がしてならなかった。
(それにしても、どこかで見たような顔だ)
 どこかで会ったことがあるだろうか。初対面のはずなのだが。……気のせいか。
「リボンズ、話はまだ?」
「――これからだよ。リジェネ」
 機嫌を直したリボンズが優しく言った。
「実は、貴方のご子息には私の経営しているイノベイター調査機関に出向いてもらっている。――そこの実態は一握りの者しか知らない」
「――アンドレイに?」
「ああ。貴方の息子さんには知ってもらおうと思ってね。いずれアロウズの重鎮になる人物だから。――貴方もね」
「…………」
 この話には何か裏があるような気がしてならない。セルゲイがそう思った時――。
 突然電話が快いリズムで鳴り出した。
「誰だろう、こんな時に」
 リボンズがちっと舌打ちした。
「リジェネ。客人にお茶を出してくれ。それぐらいできるだろう」
「僕が? 何でだい?」
「――早く」
「わかったよ」
 リジェネが姿を消すと、リボンズが電話を取った。20世紀から21世紀初頭くらいのクラシカルな電話機だ。
「もしもし――ああ、君か」
 リボンズは落胆したような声になった。
「え? アンドレイを何とかしろって? ――何があったんだい?」
 アンドレイだと?
 セルゲイは耳を澄ました。息子に何かあったのだろうか。話はなおも続く。
「カール。それは君の権限にはないはずだ」
 カールという名の男の話も聞きたいとセルゲイは望んだ。だが、このタイプの電話機は相手の顔も声もよくわからない。喋っている本人同士以外には。勿論、現在の電話でだって内緒の話はできるのだが。
 セルゲイには、彼がこの電話を使っている訳が何となく想像ついたような気がした。ただのノスタルジーに浸る為の道具というばかりではないのだ。リボンズは隙のない男だ。きっと盗聴防止も完璧であろう。
「どうぞ」
 無表情になったリジェネがトレイに紅茶のカップを載せて持ってきた。セルゲイの前に湯気を立てた紅茶が置かれた。空いたままのリボンズの席にも。セルゲイは立ち去ろうとするリジェネへ軽く礼を述べた。
(そういえばリジェネ……彼はリボンズの仲間なのだろうか)
 さっきリジェネは二度程リボンズに逆らう様子を見せた。リボンズがきつく言ったら彼に従ったが。リジェネはリボンズと対等――もしくは対等になりたいと願っているように見える。
 しかし――何者なのだ? こやつら。
「――そうか。カール・リーガン。君については追って沙汰を出す。甘い期待はしないように」
 チン、とリボンズは電話を切った。
「――馬鹿者が」
 小さく罵るとリボンズがセルゲイの方に向き直った。
「大佐。君の息子はリーガンに逆らったらしい。それで、僕に泣きついたという訳だ」
「リーガン?」
「カール・リーガン。イノベイター調査機関リボンズ・アルマーク機構の所長だ。――いや、元所長と言った方がいいかな」
 リボンズは皮肉げに顔を歪ませて笑った。
「もう、そこの所長は辞めさせてやった。小物ほどよく吠える。僕は彼など怖くはない。後で所長には別の人間を指名するとしよう。――アンドレイ……貴方の息子なんかどうかな」
「お戯れを」
「僕は本気だよ。少しはね。――だが、やはり別の人間にしよう」
 リボンズは紅茶のカップを傾けた。
「飲まないのかい? それともコーヒーの方が良かったかな」
「いえ――いただきます」
 馥郁たる花の香がセルゲイの鼻孔をくすぐる。セルゲイも飲んだことはない高級な代物だ。
(リボンズはどこか読めない人物だ――この紅茶にも、毒は入っていないだろうが)
 少なくとも、アロウズにうようよいる有象無象の輩ではない。セルゲイは密かに緊張した。それを見せないように、セルゲイも紅茶を口に含んだ。
「――旨い」
 思わず嘆息が洩れた。
 それはコーヒー党のセルゲイの舌をも満足させるものだった。
「気に入ってくれて嬉しいよ」
 リボンズの口調もだいぶくだけたものになってきていた。
「アンドレイは勇気があるな。アルマーク機構の所長に噛みつくなんて」
「――愚息をお褒め頂き、ありがとうございます。けれど、あれは何も知らなかっただけかと」
「貴方の名前を盾に取ったそうだが」
「私はアルマーク機構が何物かも知りませんでした。今までは」
 セルゲイの正直な感想だった。
「しかし、アンドレイが何かしでかしたら、それは親である私の責任です」
 それを聞いたリボンズが目を細めた。
「……僕はカール・リーガンより君の方がよっぽど怖いね」
「――ご冗談を」
「いやいや。『ロシアの荒熊』と言われるだけのことはある。リーガンの馬鹿とは出来が違う」
 お世辞だろうか。セルゲイにはちっとも褒められた感じがしなかったが。
 リボンズは見た目とは違い、いっぱしの梟雄である。それぐらいはセルゲイにもわかる。
(恐ろしい男だ――俺の予感が正しければ)
「リーガンはいずれ更迭させるつもりだった。きっかけを作ってくれてありがとうと、アンドレイに伝えておいてくれ」
 ――勿論、これはリボンズなりの冗談だろう。セルゲイはリボンズの言葉をそのまま息子に伝えるつもりはない。
「アルマーク機構に息子を招いた意図は何処にあるのですか?」
「は――やはり気づいたんだね?」
「ええ。貴方は無駄なことはなさらない主義かと」
「では言う。アンドレイ・スミルノフにはアロウズの裏の顔を知って欲しかった」
「それはまた何故」
「アンドレイに簡単にアロウズを裏切らせない為の布石さ。賭けてもいい。彼はイノベイター達の味方になるだろう。――ついでに言おう。セルゲイ・スミルノフ。僕達もイノベイターだ。リジェネ・レジェッタもだ」

2014.5.18

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