ニールの明日

第百三十二話

「あ、あ~あっ」
 徹夜明けのビリー・カタギリは背凭れに背を掛け、大きく伸びをした。そして体勢を整えて、はぁ、ふ、と欠伸をする。もう少しがんばらねば――。
 ――と、そこへ美味しそうな匂いが。ドーナツと紙コップに注がれた湯気の立っているコーヒーだった。それがビリーの目の前に差し付けられる。
「お疲れ様だな、ビリー」
「グラハム!」
「差し入れだ」
 同僚にして古くからの友、グラハム・エーカーであった。
「ありがとう――このドーナツ美味しいんだよね。君も食べないかい?」
「いや、私には甘過ぎる」
「そうか」
 ビリーは甘党である。
 疲れた時には糖分が一番なんだよね――。
 ビリーはドーナツを口にする。
「研究は進んでいるか?」
「いや、それがさっぱり。ダブルオーライザーのGN粒子がアロウズ――つまり我々のMSのGN粒子に酷似しているが、かのGN粒子には未知の因子を引っ張り出す……例えば、人知を超えた治癒能力を発揮するとか、人間を超越者と呼ばれる存在にすることができるとか――もっと他のこともできるかもしれない。後一週間くらい時間もらえないかな」
「そういう話はリボンズとするといい。私にもさっぱりだ」
 グラハム・エーカーは生まれながらのファイターだ。今はミスター・ブシドーとして活躍している。ミスター・ブシドーの正体は一握りの者にしか知られていない。ビリーの伯父、ホーマー・カタギリもその一人である。
「ふぅ……」
 ビリーは目元を揉んだ。
「あまり無茶はするな」
「――どうも。しかし無茶でもしないと僕はリボンズに殺されるよ」
「そんなに大した人物か? リボンズは」
 昔、アレハンドロ・コーナーのお小姓なだけあって、リボンズ・アルマークは一見ただの美少年にしか見えない。
「君は知らないんだ。あれは大した梟雄だよ」
「まぁ……只者でないことはわかるがな。俺にとっては刹那・F・セイエイの方が余程恐ろしい」
「君は刹那にご執心だったな」
「ああ。敢えて言おう。刹那・F・セイエイほどの美男子はいないと」
 グラハムは宣言した。
「君は男色の男だったな」
「ビリー。男色に偏見を持っているんじゃないだろうな」
「偏見など持っていない。ただ、理解ができないだけで」
「同じことだ」
「ま、君はそう言うだろうね」
 こうやって友と馬鹿話を交わすことができるのは何と恵まれたことであろう! ビリーは嬉しくて不意に泣きたくなった。
「どうした? ビリー」
「いや……ちょっと……」
「少し寝たらいい」
「大丈夫だ。それよりグラハム。刹那は諦めた方がいいと思うぞ」
「何故だ?」
「昨日のパーティーで……僕も伯父の命令で出てたんだ。もしそれがなければもっと研究も捗っていたものを……ああ、いやいや」
「君の愚痴など聞きたくない」
「まぁ、まぁ。刹那・F・セイエイはニール・ディランディと来ていた。似合いの一対だった」
 ビリーは遠い目になった。そして、我に返って言った。
「というわけだから、君は諦めた方がいい」
「わかってるさ。刹那が誰を思っているか――」
 グラハムは唇を噛んだ。そして、少しして口を開いた。
「だが――私は諦めない。必ずあの少年を奪ってみせる」
 刹那はもう青年と言っていい年齢になっていたが、グラハムが彼に初めて会った時はまだ少年だった。
「私は、あの少年を愛している」
「――刹那もモテるねぇ」
 ビリーがふぅふぅとコーヒーの熱を冷まして飲み下す。
「旨いコーヒーだ。君が淹れたのかい?」
「コーヒーを淹れるくらい、誰にだってできる」
「そうでもないよ。伯父さんは淹れられない」
「ほう……ホーマー・カタギリにはそんな弱点があるのか」
「弱点というほどのことではないと思うけどね。――本当に旨いよ。本格的に淹れてくれたんだね」
「これぐらいしかできることがないからな」
「ありがとう――我が友」
 ビリーは紙コップのコーヒーを啜った。
「僕はコーヒーを旨く淹れられる女性と結婚するのが夢なんだ」
「私が男で悪かったな」
「いや、いや」
 ビリーがコップを置いてはたはたと手を振った。
「しかしなぁ――スメラギ・李・ノリエガが旨いコーヒーを淹れられるとはどうしても私には思えないんだが」
「リーサ・クジョウだよ。グラハム」
「同じ人物じゃないか。君はあの女に騙されて――」
「それ以上言うと、このコーヒーをぶちまけるよ」
「さっき褒めてくれたばかりじゃないか――まぁ、失言だったことは認める」
「――まぁ、彼女より僕の方が旨いコーヒーを淹れられるのは確かだけどね。リーサ……スメラギと一緒にいた間、僕は彼女に手を出さなかった。――出せなかった。何をやっているんだろうねぇ、僕も」
「俺のところに刹那がいたら一口でぺろりだよ。日本の諺にもあるじゃないか。据え膳食わぬは男の恥と」
「妙な諺を知っているね。だが、リーサはエミリオと一緒に死んだんだよ。人の物を盗るほど僕は飢えちゃいない」
「何と言ったってエミリオは死人じゃないか。スメラギを恋人にして味方につければよかったのに。アロウズの戦術予報士に。そしたら、俺達は今、こんなに苦労してはいないだろう」
「それも考えたが、スメラギがアロウズに入隊しても、カティ・マネキンと喧嘩して一日で辞めたんじゃないかな。それに、僕はスメラギに手を出す気にはなれなかった」
「何故だ。君も男だろう。しかも私とは違って女好きな」
「――女好きは余計だ。ただね……弱味に付け込んで抱くことはしたくなかったんだ」
「紳士だな。君は」
「不甲斐ないだけだよ」
「コーヒーがなくなったら、また持ってきてやる」
「――ありがとう」
 ビリーとグラハムは微笑み合った。
「さてと――そろそろ作業に戻らないとな」
「あまり根を詰め過ぎるなよ」
「伯父さんと同じことを言うね。大丈夫だよ」
 ビリーはふっと思った。こんな時、エイフマン教授がいれば――。
 レイフ・エイフマン教授。イオリア・シュヘンベルグと並ぶ天才。ビリー達を可愛がってくれた。
 ビリーは追憶に浸った。エイフマン教授――。あなたがいたら、どんな難問でも簡単に解いてくれるだろうに。僕のこの仕事ももっと捗っていただろうに――。
「プロフェッサーがいれば……」
 グラハムが悔しそうに言った。ビリーは驚いた。
「君は僕の心を読んだのかい? グラハム」
 勿論冗談である。ビリーは唇の端を上げた。どういうことだ?とグラハムが問う。
「僕もエイフマン教授がいれば――と思ったんだよ」
 エイフマン教授。ビリーの恩師。あの頃はスメラギ――いや、リーサ・クジョウがいた。あの懐かしい、陽だまりの季節。
「まるでテレパシーだな」
「テレパシーで繋がるならば、私は君より刹那との方が嬉しいね」
「刹那はもう人の物だよ」
「奪ってやるさ。最初に私の心を奪ったのはあの少年の方だ」
 ビリーはまぁ、がんばれ、とエールを送ってやった。
 ピー。コ-ル音が鳴った。
「誰からだ?」
「グレンという男から通信が入っています。お繋ぎしますか?」

2015.5.4

→次へ

目次/HOME