ニールの明日
第百三話
(アンドレイ・スミルノフ……)
刹那はじっと焦茶色の髪の青年に目を当てた。
刹那はアンドレイの瞳の中にある運命のかぎろいを見た。――そして、多分、アンドレイもまた。
そのまま、刹那とアンドレイは見つめ合っていた。
(この男……沙慈よりしっかりしてそうだな)
刹那は沙慈・クロスロードに対して少々酷いことを思ったが、どうせ本人には聞こえないから構わないだろうと思った。
――刹那はルイスに対するアンドレイの恋情も見て取った。
面倒なことになるかもしれないな。そうも感じた。
刹那はアンドレイに対してそんなに悪い感情を持たなかった。彼はアロウズの一員――つまり、敵方だというのに。
(あの眼のせいかな)
セルゲイ・スミルノフに似た鋼鉄の意志を持つ瞳。二世のぼんぼんだと言っていた奴もいたが、とんでもない。
(なかなかの男だな――)
刹那、アンドレイ、ルイスの三人の中で、時が結晶した。まるで、天地が作られた時から彼らが永遠にそこに留まっていた、そんな錯覚を覚えるように――。
沈黙を破ったのは、ルイスの、
「くちゅん」
といった小さく可憐なくしゃみだった。
「ルイス……」
アンドレイはルイスを立ち上がらせて肩に手をやった。
「上着でも持ってくれば良かったのですが」
アンドレイはぴったりとした礼服を着ていた。
「構わなくていい」
ルイスはアンドレイの手を振り払った。
(やれやれ……アンドレイの恋が実るのはなかなか厳しそうだな)
刹那は思った。しかも、ルイスには沙慈がいる。沙慈は少し頼りにならないかもしれないが、優しいし、それに――ルイスは沙慈のことを忘れていない。
個人的には、アンドレイを応援したい気持ちになるが。
しかし、そもそもどうして今会ったばかりのこの青年に肩入れをする気になるのか――刹那は不思議に思った。
恋ではない。刹那にとって恋人はニール・ディランディただ一人だ。
では、友情か。そうかもしれない。こいつとなら友達になれるかもしれない。付き合いが深くなれば。この男と親しくなりたい。刹那は訳もなく瞬間的にそう思った。これも縁というものかもしれない。
「帰ります。刹那、どうもありがとう」
ルイスがぺこりとお辞儀をした。
「刹那――と申すのですか」
と、アンドレイ。
「刹那・F・セイエイだ。アンドレイ・スミルノフ」
刹那は微かに笑んだ。アンドレイは言った。
「どなたかの付き添いですか?」
「まぁ、そんなところだ」
「どなたですか? もし訊いてよろしければ」
「さる高貴なご婦人のだ」
「もしかして、あのバイオレットの髪のご婦人ですか?」
「――その通りだ。どうしてわかった」
「同じ人種の匂い――というか、雰囲気がしたものですから。一緒にいたところも見ましたし」
ガンダムマイスターとしてなら、同じ匂いがするかもしれない。ティエリア、我々は仲間だ。例え、あんたがどんなに嫌がろうとだ。
「とにかく宜しく――そろそろ戻らないと」
アンドレイが言う。
「そうだな」
刹那が頷いた。ルイスが訊く。
「刹那も戻るの?」
「ああ」
せっかくだから、外でも少し、いろいろ調べてから、と思うのだが。
「刹那――話を聞いてくれてありがとう」
ルイスは歩きながら振り返った。刹那は二人の姿が見えなくなるまで見送った。
一人になった刹那は考えていた。
(ティエリアはどうしたかな――)
パーティー会場からは手を組んだカップルが何組か外の空気を吸いに出てきている。その中にティエリアはいない。ゲイリー・ビアッジことアリー・アル・サーシェスもいない。
戻った方がいいかもしれない。何となくそんな気がした。
――刹那は嫌な予感を覚えた。その時、
(――ヤバいことになった)
ティエリアの声が聴こえた。脳内に。
(――ティエリア?)
刹那は声に出さずに訊き返した。多分、ティエリアの頭の中での独り言だったのではないか。そんな感じだった。
俺は……一体どうしたというのだろう。刹那が不安に感じていると。
どこかで何かが壊れる音がして、赤いイブニングドレスの女が目に飛び込んで来た。ティエリアだ。
「刹那!」
美女の口から男の声が出るのは何となく妙な感じがした。
「俺の正体がバレた! 逃げるぞ!」
「わかった」
刹那は得心すると、ティエリアの手を握って逃げ出した。
(これは逃避行というのだろうか)
ニールだったら、「刹那とだったらどこまでも行く」と言ってくれたに違いない。
(ニール……俺もだ)
ニールとだったらどこまで行っても構わない。ああ、だけれど――。
今、この手を握っているのはティエリアなのだ。ティエリアにはアレルヤがいるのに――。
人の波を縫って、ティエリアと刹那は自分達が乗って来た車に乗る。一目で高級車とわかる車だ。リボンズ・アルマーク邸がみるみる小さくなる。
刹那は車の運転をする。
(もし、ここにいるのがニールだったら……)
彼の命じるままどこへでも走って行ったっだろうか。いや――。
(俺とニールにはダブルオーライザーがある)
それがニールとの絆だ。そして、ガンダムとも――。ニールとの絆を再確認できたようで、刹那は少し嬉しく思った。
「追手が来たぞ!」
ティエリアが叫ぶ。
「任せた!」と、刹那。
「わかった!」
そう答えるとティエリアは銃で追手を攻撃する。タイヤを狙っているのだろう。パンクした車が後から来る車の邪魔をする。クラクションの大合唱だ。
追手も負けてはいない。銃を発砲する。運転をしている刹那はそれを天性の勘で避ける。車が乱暴な操縦に悲鳴を上げる。
「いいぞ、刹那!」
「ああ!」
もし、隣にいるのがニールだったら――。
だが、次の瞬間にはもう気持ちを切り替えている。それが戦士の条件なら、刹那は生まれながらの戦士だった。
何とか追手を振り切った刹那は、ふぅっと溜息を吐いた。ティエリアが助手席の背もたれに体をもたれかけさせた。
「――逃げ切ったか」
「今のところはな」
「どうせ俺達の面は割れてる。そうじゃないか?」
「ああ。何故か、リジェネという男は俺のことを前から知っているみたいだった」
「リジェネ?」
刹那が鋭い声で訊く。その頃にはもう、隣のティエリアは深い眠りに陥っていた。
俺達のことを知っている奴らがアロウズにいる――。
そう考えた刹那の背中がぞわりと波立った。早くトレミーに着きたい。そして、ニールの大きな体に抱き締めてもらいたい。
(ニール、ニール……!)
それが魔法の呪文か何かであるかのように、刹那はずっとニールの名を心の中で唱え続けていた。それが、神を信じない刹那のたったひとつの頼るべき名前だった。周りを警戒しながら、刹那はニールのことを口には出さずに呼び続けていた。
トレミーの位置がアロウズにわからないように、少し迂回した方がいいかもしれない。気休めに過ぎないかもしれないが。
2014.7.9
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