ニールの明日

第百九十八話

「そうだな――私もあの男を甘く見ていたかもしれない。……アロウズにはまだ息子のアンドレイがいる」
 セルゲイはそう言ってしばらく黙った。一瞬の沈黙が流れた後、刹那が語り出した。
「失礼なことを言って済まない。俺もさっきの台詞は撤回しよう。だが、ホーマーは傀儡だ」
「そうだな――」
「アンドレイを助けたい」
 刹那が真剣に話した。
「もう、俺達は充分過ぎる程時間を無駄にしてしまったかもしれない」
(刹那の言う通りだ)
 ニールは思った。アンドレイには脱出の時邪魔された恨みはあるものの、ニールも決してアンドレイが嫌いな訳ではない。何より、実直そうな目の前の『ロシアの荒熊』の息子だ。悪い人間であるはずがない。
(アンドレイにリボンズの正体を明かすべきか――)
 けれど、セルゲイも百戦錬磨の男だ。リボンズの恐ろしさは身に染みてわかっているだろう。――ニールや刹那とは違う観点から見て。
「リボンズは用がなくなればアロウズだって切り捨てる男だ」
 ニールにはそう断言できる程の材料は持ち合わせていない。ニールよりも刹那の方がリボンズには詳しいのかもしれぬ。
 リボンズ・アルマークが何を目指しているのか、ニールにはわからない。
 だが、セルゲイが息子を助けたいように、ニールにもまた、救いたい人間がいる。
 ――ビリー・カタギリだ。
「セルゲイさん。刹那。俺はビリーを助けたい。ホーマーだって――言っていることを読むと悪い人間ではないと思う」
 ホーマー・カタギリのデータは一応スキャンしたことがある。ニールだって戦争と、刹那を抱くこと以外にもすることだってあるのだ。
「だが、そんなことを言ってたら、助けたい人間がねずみ算式に増えるぞ」
 刹那が口を挟んだ。
「だから――終わりにしようではないか。この戦争を」
 ――店員が注文したカルボナーラを刹那の為に持って来た。セルゲイには氷の入った水を。
「他にもご注文はありませんか?」
「俺は特にないな。セルゲイさんは?」
 ニールがセルゲイにメニューを渡す。
「セルゲイでいい。ニール。――ああ、君。私にはジン・トニックを」
「畏まりました」
 店員が奥に引っ込む。――ここの店員はよく訓練されている。バーとしても一流だ。地上であっても、雰囲気と美味しい料理と酒を出す店と評判を取ったろう。
 セルゲイはニールとも君僕の関係を結ぼうと考えているのだ。ニールにも断る理由がない。それどころか光栄だと思った。セルゲイ・スミルノフは将来こうなりたいと数多の少年が憧れるのも無理のないくらいのいい男だ。ただの軍人ではない。中身も気持ちのいい男である。――アンドレイも二十年後ぐらいにはこうなっているだろうか。
「ニール」
 刹那の声にニールは我に返った。刹那は高らかに宣言した。
「俺にも助けたい人物がいる。リボンズ・アルマークだ」
 ニールが刹那を見て目を瞠った。セルゲイがグラスを取り落した。さっきの店員がやって来て後片付けをする。
「ああ……済まない」
 セルゲイが店員に謝る。店員が優しく言った。
「大丈夫です」
「――チップは弾もう」
「本当にお気遣いありがとうございます。――けれど、よくあることですから。『ロシアの荒熊』さん」
「――私を知っているのか?」
「ええ。敵ながら密かに尊敬していました。お会い出来て嬉しいです」
 店員は気持ちを伝えたいという欲求に駆られて、それに従ってしまったようだ。だが、傍から聞いていても悪い気はしない。
「すみません。お邪魔をしてしまって。では」
 店員がまたここを後にした。この店には他にも二、三名の店員がいる。
「リボンズ・アルマークを助けたいってどういうことだよ」
 ニールは、本当は刹那に脳量子波でこの疑問を伝えたかった。だが、セルゲイにも聞いて欲しかったし、ここのバーの店員になら聞かれたって構わないと思った。――ニールにも敵と味方の区別はつく。
 ニールは続けた。
「諸悪の根源はあいつじゃねぇか」
「勿論。だが、リボンズにも目的があるはずだ。その目的が俺達にとって都合が悪いことだとは限らない」
「ふむ……それはそうだが……」
 セルゲイは顎に手を遣って考え込んでいた。
「彼は……イノベイターを手厚く保護している。でなくば、リボンズ・アルマーク機構とかいう施設を作るはずはない」
「あの男もイノベイターらしいからな」
 ニールの台詞にセルゲイが、
「私もリボンズ本人から聞いた。自分はイノベイターだと」
 と、答える。
「あの男がイノベイターに悪感情を持っていないことは確かだ。リボンズ・アルマーク機構の新所長、セリ・オールドマンはとても優しい男だった。あの施設はただの実験施設ではない」
 刹那も保証する。
「セリ・オールドマンか――会ったことはないが……ふむ」
 セルゲイが言ってこう続けた。
「私はもう少しイノベイターのことを勉強した方がいいかもしれないな。イノベイターのことについては私は疎いからな……」
「それがいいぜ!」
 ニールは立ち上がってセルゲイに手を差し出した。セルゲイも同じように手を差し伸べる。二人は手を握り合った。
「そこでな――言っておきたいんだが……」
 ニールは刹那を見遣る。刹那が頷く。この店にはイノベイターの敵はいない。
「実は俺達も――彼らの仲間なんだ。実は、俺達も……イノベイターなんだ」
 一応、ニールは最後の方はセルゲイだけに聴こえるように囁くように告白した。
「そうか……君達も只者ではないと思っていたが」
「セルゲイ。俺も貴方がイノベイターの仲間になってくれれば嬉しいと思う」
 刹那も喜ばし気に言う。
「どうも。私は――君達の仲間だ」
 セルゲイが宣誓する。
「しかし……アロウズを裏切る訳にもいかない」
「そうだな。どうする? 刹那」
「セルゲイが決めればいい」
 刹那が瞑想するように目を閉じた。ニールは、刹那も何か考え事をしているのだろうと静かにしていた。
「アロウズと君達が仲良くしてくれるといいんだが……」
「それは、一番いいとは俺達も思うんだが……」
 ニールが刹那の方を向いた。刹那は目を瞑ったままだ。
「まぁ、取り敢えず作戦を練ろう。今のところCBはアロウズの敵だ」
「カタロンが先にアロウズに敵対したんだがな……」
 ニールが困ったように喋ってから口をへの字に閉じる。刹那も頷いた。
 いや、これは、頷いたと言うより――。
「刹那くんは寝ているんじゃないのかね」
「あ、本当だ!」
 ニールが刹那の頭の中を読むと――確かに刹那は寝ているらしい。夢を見ているようだ。悪い夢ではなさそうなので、ニールの思念は刹那から離れた。
(無理させ過ぎちまったからな――)
 ニールがふっと微笑む。刹那とのまぐわいを思い出していたのだ。
「セルゲイ。少しここで待っていてください。刹那を部屋に送ってきますので」
「――ああ」
「済みません。遅くなりました」
 年若い店員がセルゲイの前にジン・トニックを置く。店員が去った後、ニールが呟いた。
「あの店員――俺達が内緒話しているようだったからって気を遣ってくれたんだな」
「……そのようだな」
「セルゲイもそう思うか。初めて来た店だが、流石ラグランジュ3のバーだ。店員の教育が行き届いている」
「うむ」
「では、俺は刹那を部屋まで送って行く。――セルゲイ、後で」
「ああ。……君達は仲がいいんだね」
 セルゲイは微かに口角を上げた。ニールがにやっと笑った。
「仲が良過ぎるのが欠点でな」
 ティエリアやアレルヤがニールのこの台詞を聞いたら、思わず吹き出していただろう。確かにその通りだったからだ。ニール達と知り合って間もないセルゲイはそういう無作法はせず、慈愛の目でニールと刹那の二人を見つめていた。――まるで、息子達を見ているかのように。

2017.3.18

→次へ

目次/HOME